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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」12章


 澱んだまどろみの中で音もなく夏は過ぎていった。交換留学生の話しが持ち上がったのも、ちょうどその頃のことだ。代表として僕が選ばれた理由は冴えない。優秀な科目があるとか語学力に長けているとかではなく、単に担当の教授の授業の出席率がたまたま他の生徒より多かっただけのことだ。


 うちの大学はミラノに姉妹校があった。パネルの写真を見る限り、古風な金持ち学校だった。
「ワタナベお前、ちょうどいい機会だ、行ってみないか」
 進路指導に強い権限を持つサワラギ先生が電話を掛けてきたのは、僕がバイトに急ぐ朝のことだった。彼の授業は恐ろしく退屈な事で有名だった。まだ単位を気にして皆が出席してた頃は、わざわざ夜更かししてから授業に出て、どちらが先に寝てしまうか昼飯代を賭け合ったりしたこともあった。「でも僕、イタリアには行ってきたばかりです」
 僕は面倒臭いのを悟られない程度にそう言った。
「だからと思って電話しているんじゃないか。これは遊びじゃないんだ。旅行気分で行かれちゃ困るんだよ。学校の品位に関わる問題だからな。しっかりやりそうな生徒に行って欲しいんだよ」
 品位!と僕は思った。あの学校のどこにそんな大層なものがあるのだ。世界トップレベルの学費の桁のことか?
「シブヤさんはどうですか? 僕より海外には詳しいし、優秀だし、適任じゃないですか?」
「シブヤはなー」
 そう言うと途端にサワラギ先生は渋い声を出した。
「確かに優秀は優秀だが、出席日数が足りん。それに年齢も年齢だ」
「でも僕には向いていないと思います」
 僕はきっぱりと言った。
「んーまぁ、そう言わずに考えておいてくれよ。また連格するからよろしく頼むよ。君を見込んで頼んでんだからさ、な」
 それだけ言うと電話は一方的に切られた。僕の意見など始めから聞く気がないのだ。それなら「行って来い」とだけ言えばいいのに。




「夏期講習も残されるところあと1日となりました。皆さんどうですか、しっかり実力をつけましたか?」
 ミハラはマイクを手にうれしそうに言った。4階の大講義室には昼間の授業を受講しているすべての生徒が集められていた。これだけ血気盛んな年頃の人間が一部屋に詰め込まれると、めいっぱい<強>にしたエアコンもカビ臭い換気扇ほどの役にしか立たない。
「今日はね、レクリエーションという意味も兼ねてちょっと集まって頂いたわけなんですけど、どうかな、時間とお金がもったいないから今すぐ授業にして欲しいって人いますか? なるべく早く終わらせるつもりではいますけどね。どうでしょうか? いい?」
 返事はない。ただ暑いなぁと思うばかりだ。僕のシャツも張り付いている。暑いだけならまだしも、女の子がつけるいろんな種類の制汗剤や香水、誰かのひどいわきがとカビの匂いが混じり合って、不快感を一層複雑なものにしている。
「じゃあ、ささやかではあるんですけれども、前回の実力試験の全員分の点数がこう出ましたんで、成続優秀者にちょっとしたプレゼントを用意させていただきました」
 暑さにだれながらも、おおとか、へえとかいう声があがる。ミハラはテーブルの下にあった紙袋を上げた。カラフルなプラスチックのカメラと花火セットが10個ずつ対になって詰まっていた。ざわめく生徒たちを制してミハラは言った。
「えー、ひと夏の恋の思い出を写すもよし、気になってたけど声を掛けられなかったあの娘を花火に誘うもよし、その後のほにゃほにゃを写しちゃうのもよし、何にもなかった人は花火してる自分の手でも撮ってねーつーことで、今年はカメラと花火です」
 何人かの生徒が拍手をして、そのまばらさに残りの生徒が笑った。
「ただ、くれぐれも花火だけはここの塾の人だとわかんないようにやってくださいね。何年か前も配ったんだけど、苦情が来ちゃって、謝りに行くの大変だったからさ。あと火事も起こさないように。あ、ハメ撮りは現像所じゃ現像してもらえないんでそれも気をつけて」
 ミハラのジョークに男の子たちはゲラゲラ笑った。僕はイクタの方をちらりと見た。今日は特に機嫌が悪いみたいだ。いつもよりファンデーションが濃いし、その下の肌もがさがさして見える。彼女はみんなの笑い声の中で下らないという感じに肩をすくめて椅子を立ち、教室を出ていこうとしたところだった。生徒を掻き分けその後を追った。イクタは吹き抜けを臨む廊下の突き当たりで、ちょうどエレベーターに乗り込むところだった。薄い生地の黒いパンツに包まれた長い足が箱の中に吸い込まれる。僕は慌てて駆け出した。イクタは扉を開けたまま、僕が追いつくまで待っていてくれた。駆け込んだところでボタンから白い指先を放した。急いでいた僕の足音はその中の静けさには不釣合で、その乱暴さが他人のものであるかのように僕は咳払いをした。エレベーターの中には彼女の微かな匂いが満ちていた。ひゅーんという小さな音を立ててモーターが回り始め、そのすきにできた短い沈黙は僕の理性をひりひりと逆撫でた。
「何?」
 イクタは折り畳んだハンカチを団扇代わりにしながら言った。
「謝ろうと思って」
 階数表示をじっと見据えて目も合わせてくれない。
「何を?」
「こないだは ‥ごめん」
「‥ふうん」
「この通り謝るよ」
「‥‥」
 1階です、という合成音と共に扉が開き、それが開き切るより早くイクタは足速に歩き出した。
「あのときほんとオレどうにかしてた」
 イクタは黙って歩き続ける。大股でプライドにいからせた肩で風を切りながら。
「ねぇ、待ってくれよ」
 足並みを揃えられない僕はとっさにイクタの腕を取った。つかむと言うほどではない、肩を叩いて呼び止めるぐらいの力だ。イクタは服に付いた巨大な害虫を振り払うかのように、僕の手を振り払った。女の子にそんな嫌そうな素振りをされたのは初めてだった。唇は怒りにゆがみ、眉間には深いしわが刻まれ、そこにいるのがイクタなのか確信が持てないほどだった。突き刺すような視線をはっきりと僕の両目に浴びせてイクタは再び歩き始めた。僕はその背中を追うことができなかった。
「ねぇ!」
 地面から靴の裏を剥がせなかった。
「気持ちを踏みにじったことはよくわかってる。謝らせてほしいだけなんだ」
 強風の岩場でしゃべらされてるみたいな声でそう言うと、イクタはぴたりとその足を止めた。その場でよく訓練された兵隊のようにくるりと振り返り、威圧的なくらいはっきりとしたヒールの音を立てて、僕の前まで戻ってきた。
「あなた自分の言っていることが勝手すぎると思わない? そんなふうに謝れば何もかも元通りになると思ってるの? なかったことになると思ってるの?」
 イクタの目は強かった。ひるまずに僕は言った。
「そうじゃない。僕が一方的に悪かったと思うからそれについてまず謝りたいだけだよ。元通りとか、なかったことっていうのは、謝ることとは別の問題だし、少なくとも僕が決めることじゃない」
 イクタは次に続ける言葉の勢いを失った。すかさず僕は言った。
「この間はごめん。オレはイクタのことが好きだけど、本当は他にもっと好きな女の子がいたんだ。付き合って2年になる。イクタとするセックスはとても素敵だったけど、その間、僕はその娘のことばかり考えていた。今、二人の関係がちょっと不安定になっているんだ。それで僕は荒れてた。でもそれとイクタを無理矢理抱くこととは無関係だし、ひどいことだと反省してる。だから謝ります。二度とそんなことはしません。ごめんなさい」
 一息に言って、僕は深く頭を下げた。
 イクタは僕の方を向いたまま、しばらく固まったままでいた。そして普段の思考の回転と時間の感覚を取り戻すと、何も言わず焼けたアスファルトに靴音を響かせて歩き出した。
「帰るの?」
「気分が悪いの」
 振り返りもせずにイクタはそう言った。

 
 家に帰ると、ポストにはシブヤさんの彼女から暑中見舞いが届いていた。あのイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうあの彼女だ。


「ナベちゃん、お元気? 私は元気。もう8月も
なかばだね。 どう? いい夏にしてる?
引っ越ししたって言うから、私の家の近所に来
るとばかり思ってたのに、地図で調べたら前と
おんなじじゃないの! せっかく一緒に帰れる
と思ってたのにざーんねん。
ナベちゃん、夏休みの間に遊ぼう。
うちはお母さんが勤めをやめたので、毎日二人
で遊んでいるよ。たのしいよ。
うちにお茶を飲みにおいでと言いつつ、ずっと
来てもらってなくて、このまま卒業になっちゃ
うと嫌なので、本当においで。平日においで。
バイトのない日にゆっくりしよう。
都合のいい日を教えてください。
                 8月4日」


 便箋の余白には彼女の電話番号と家にいる時間が記されていた。僕はうれしかった。イクタでもアサコでもない女の子が僕に会いたいと言っている。手紙を書いてくれる。切手を貼ってポストに入れてくれる。それだけで救われた気になれた。


 僕はその手紙を封筒に戻し引き出しの奥にしまった。電話は掛けないつもりだし、家に行く気もない。行きたくないわけじゃない。どちらかと言えばかなり行きたい。でも行かない。そういう気持ちが文字になってここにあるだけで僕はもう十分だったのだ。そうしていつか気が向いたら返事を書こう。簡潔でやさしい気持ちになれる、無意味な手紙を。彼女はまた返事をくれるだろう。僕にはそれがわかる。そうしてどちらかがもう一方を必要としなくなるまで、あるいは手紙を書くほどの決心ができなくなるまで、この関係は細々と、でもしっかりと続いていくのだ。ジイちゃんといつか結婚しようとすまいときっと。永遠に一番近いのはそういうことかもしれないと僕は思う。


「彼女から暑中見舞いをもらったよ」
「あ、何か言ってたな、そんなこと」
 ジイちゃんは壊れた冷風機に足を乗せ、『東京』と書いてある団扇を動かしながら、そう言った。
「いい手紙だったよ。遊びにおいでって書いてあった」
「へえ、で、いつ行くの?」
「行かないよ、うれしかったけど」
 僕はすぐ脇に置いた氷が溶けてぬるくなった麦茶のコップの位置をずらした。汗を掻いた底面の水滴が床にいびつな形の軌跡を描いた。
「だって行かないよ、普通」
 普通、なんて言葉がどこから出てきたのかわからなかったけど、僕はそう言った。
「変なの」
「お礼を言っといてよ。喜んでたってさ」
「自分で言えばいいじゃん」
「もちろん言うけど、ジイちゃんに会うことのほうが多いだろ?」
「ふー‥ん、ま、いいけどね」
 ジイちゃんは、僕が彼女の話しをしているのがあんまり好きじゃないみたいだ。
「そう言えば、もうずいぶん会ってないよ」
 と僕は言った。麦茶はぬるい。
「あ、そう?」
「多分ね、学食で6月に会ったっきりだよ」
「じゃ、結構経ってるな」
「ねぇ」
「ん?」
「オレとさ、彼女ってそんなに似てる?」
「うん。意識してないとそうでもないけど、似てるんじゃん?」
「じゃ、もし女の子だったりしたら、どうだったろう」
「迷ったりしたかってこと?」
「そう」
「んー、そうねぇ、どうだろう‥」
 彼は鼻先に人差し指をあてて目をきょろきょろと動かした。
「迷いかけて、悩んで悩んで、結局どっちもどうでも良くなっちゃうんじやないかな」
 僕は部屋の隅に置かれた深いブルーグレーのソファーベッドに目をやった。コンペの賞金でそれを手に入れた。『資本主義と私のエコロジー』とかいう、うさん臭い論文のコンペだった。
 あのソファを倒して、と僕は思った。イッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)はこの空気を吸いながらジイちゃんに抱かれてるんだろうか。そう思うとなんか不思議だった。裸になった彼女はきっと透き通った少年のように見えることだろう。大きめのあの唇でフェラチオしたりもするのかな。


「あれ? 例の病気のおじいちゃんはどうなったの?」
「あぁ、なんかいきなり回復して退院しちゃったらしいよ」
「植物人間状態って言わなかったっけ?」
「いや、完全にじゃなくて、自分じゃ動けないってぐらい」
「でも、治るんだ‥」
「治るんだね」
「早く死ねとか言われてたんでしょう?」
「うん、いろいろ。遺産とかね、あるし」
「死ねなんて言われたら、病人じゃなくても元気なくなっちゃうのに。えらいな」
「治ったらまた楽しいことしようって、ずっと幸せなことを考えて頑張ったんじゃないかな」
「いくつだったっけ?」
「96」
「わ、4倍以上生きてるんだ、オレの」
「あぁ、でももう4分の1は終わるんだね」
「何か不安?」
「いや、だって、ピザを食べてたとしたらさ、4分の1って結構大きいぜ。あと4分の3食ったら、空っぽじゃん」
「そりゃ食べればいつかはなくなるよ。増える方が気味悪い」
「ちゃんと、おなかいっぱいになんのかな」
「うーん、それは食べ終わってから考えればいいんじゃない? で、食い足らなかったら化けて出ればいいし」
「そっか」
「そうだよ」


 ジジイは天井を見ながら、子供のように目をきょろきょろと動かしている。同じように彼の頭の中も細かく配置換えをしているのだろう。そういう他愛のないことをぼんやり話していると、僕の気持ちはぐんぐん軽くなった。無意味で非生産的な会話が僕の生活の大半を支えているんだと思った。


 ジイちゃんはアンビエントのCDを掛けた。ジイちゃんのCDライブラリーは半分以上ジャケット買いと衝動買いなので、一貫性とか、脈絡とか、ポリシーとかいうものがない。彼にとってはその場その時の欲求こそがすべてであり、真実なのだ。そういうのって確かに楽しいし、時にはかっこいいかも知れないけど、大事な人を一番傷つける生き方なんだと、事あるごとに僕は言った。しかし「オレは他人を傷つけないで生きるなんてできないし、そんなことを気にした生き方なんてまっぴらだ」と言うのがジイちゃんの言い分だった。僕は気にくわなかった。彼女の涙はいつだってジイちゃんの知らないところで流されていたからだ。


「あ、オレちょっと出掛けてきていいかな」
 とジイちゃんが言った。
「もちろんいいけど、オレここにいていいの?」
「うん、MOを近所の友達に届けるだけだからそんなかかんない。それにだって、今日飲むだろ?」
 と当然のように言うので思わず言ってしまう。
「馬鹿、聞くなよ、決まってんだろ?」
「じゃ、適当にのんびりしててよ」
「OK」


 ジイちゃんがいなくなった後の部屋は、謎の失踪を遂げた天才エンジニアの部屋みたいに散らかっていた。積まれた本の間からスケッチや図面が飛び出して、脱ぎ散らかした服の下からはペンチやドリルがのぞいてるし、机の脇にあるコルクボードには何通ものエアメールが画鋲で止めてあるし、走り書きした誰かの電話番号や、新聞の切抜き、彼女の写真、SFの文庫本、プラモデル、自作の楽器。今ではもう懐かしいPCエンジンがテレビの前にあったので、手に取ってみると異常に軽く、中身はすぐそばで分解されて何か別の部品と接続されていた。


 僕は窓から体を乗り出して煙草を吸った。日が暮れてしまってもジイちゃんは帰ってこなかった。相変わらずだなと思った。僕はその間に3杯の紅茶を飲み、勝手に音楽を聴き、8本の煙草を吸った。こういう目に遭わされると、自分が女の子じゃなく、ジイちゃんに恋しなくて済んだことがとても幸福に思える。彼のそばにいる人はいつだって笑って見えるけど、本当に彼のことを待っている人にとっては、身を切られるような思いが続く。人が人を呼んでなかなか戻ってこないからだ。


 ファックスつきの留守番電話が鳴り出した。夕方の6畳一間で鳴る人のうちの電話はやけに大きな音に聞こえる。無視しようとしたが、もしかしたらジイちゃんかも知れないと思い、結局5コール目に受話器を上げた。


「はい、シブヤですが」
「あ、あれ?」
 受話器の向こうから戸惑った若い女の子の声がした。ほんの一瞬のやり取りでもその娘がシブヤさんに強い好意を持っていることがわかった。やはりひとんちの電話になんか出るべきではないのだ。
「‥シブヤ、さん?」
 シルエット・クイズをしているような口調でその人は言った。
「いえ、違います。シブヤさんは出掛けていて、僕は留守番です」
「あれ!?」
 と突然声色が変わった。
「‥ナベちゃん、だよね?」
 親しげに話し掛けて来る声に、僕は首を傾げた。
「あ、シブヤさんの‥」
 と言い掛けてイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか名前がわからなかった。
「シブヤさん、オレのこと置き去りにしたまま、もう3時間も帰ってこないんだよ」
「ひどーい、どこに行ったの?」
「なんか近所の友達のうちにMOを届けるだけって言ってたんだけどな」
「あ、そうなんだ。じゃあ、そこで遊んでんだね」
「今、どこ? 外でしょ?」
「うん、すぐそばまで来てるんだけど、どうしようかなぁ」
「いくらなんでももうそろそろ帰ってくるとは思うけど ‥ひょっとして約束してたの? 今日」
「ううん、そんな事ないよ。えーと、じゃ行くよ、そっち。お話ししよう」
「迎えに行こうか?」
「大丈夫、心配しないで」


 僕は自分ちに女の子を呼ぶような気になってばたばたした。散らばった本を正したり、窓の外でクッションの挨をはたいたり、ちじれっ毛を拾ったり、台所を片付けたり(口紅のついたマグがあったのだ)、床の服を押し入れに押し込んだり。


 しばらくするとチャイムの壊れたドアをこんこんとノックする音が聞こえた。