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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」13章


「おなか空いたでしょう」
 と言いながらイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は、笑顔で大きなスーパーの袋を持ってやってきた。彼女の荷物はいつだって大きくて重そうだ。
「オムレツ作るよ。卵、大丈夫だったよね」
「うん」
「よかった」
 彼女は袋から材料を取り出し手を洗うと、置いてあった包丁でおもむろに野菜を切り始めた。玉葱はみじん切り、レタスはざっくり、醤油と砂糖とみりんで挽き肉に下味を付けて、卵はボールでかき混ぜる‥。


 僕はつけっ放しのテレビを忘れて、その台所姿を眺めていた。彼女は耳に小さなガラスのピアスを光らせていた。薄手のTシャツに、ホットパンツ、そこからすらりと少年のような足が伸びていて、素足だった。染みだらけの汚い床に立たせておくのがもったいないくらいだ。
「そう言えば、手紙ありがとう」
 思い出したように僕は言った。
「すごくうれしかったよ」
「うん、遊びにおいで。うちのお母さんも待ってるからさ」
「お母さん?」
「うん、ナベちゃんのこと、知ってるんだよ」
「なんて話すの?」
多摩川べりに住んでて、シブヤケイと同じクラスで、背が高くて、眼鏡を掛けてるやさしい人」
「仲いいの? お母さんと」
「うん、友達みたい」
「妹に聞かせたいよ」
「どうして?」
「だって喧嘩して母親のすね蹴っ飛ばして、青あざつくったりしてるからさ」
「そうなの?」
「親父がいなくなったせいもあるんだろうね。まるで中学生だよ。二次性徴期」
「反抗期なの?」
「19だよ」
「あたし反抗期ってなかったんだ」
「一回も?」
「いや、もちろん5才とかそんくらいの時はあったかもしれないけど」
「その後のやつはなかったんだ」
「そうなの」
「オレ、みんなあるもんだとばかり思ってたけど」
「おかしいかなぁ」
「でも、なくても誰も困らないか」
 それを聞いて彼女は笑った。温めたフライパンに卵を落とす音。水分があっという間に蒸発して、手首を上手に使い、フライパンの底にできた膜を薄く広げる。
「帰ってこないねぇ」
 と彼女が言った。
「あいつのこういうとこ、あたしすっげー嫌い」
「ルーズなところ?」
「いくら相手があたしやナベちゃんだからって、待たせていいって話しはないわよね」
「わかんない、それがシブヤさんなりの信頼なのかもしれないよ」
「えー!?」
「違う?」
「ただの甘えだよ」
「そう?」
「だって誰にでもおんなじだもん」
 そう言う彼女はちょっと寂しそうに見えた。シブヤさんがいつ帰ってくるのか。最後に帰ってくるところは本当に自分なのか。可能性の一つでしかないのか。いずれにせよ、信頼なら信頼らしい素振りが欲しいんだろうなと僕は思った。
「でもシブヤさんは口を開けばいつもイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)の話しばかりしてるよ」
 彼女は黙って首を振った。もううんざりって風に。でも現実問題、今シブヤさんの部屋にいるんだよなぁ。それもほかほかの素敵なオムレツまで用意して。
「食べよう先に。待ってるとこっちがやられちゃうよ」
 何に何がやられちゃうのか気になったけど、彼女が台所から両手に持ってやってきたオムレツを見て、僕は思わず歓声をあげた。
 素敵なオムレツだった。黄色くて、小人の幸せを詰め込んだみたいに綺麗に膨らんで、とてもいい匂いがした。僕の大好きなチーズ入りだ。レタスとミニトマトも添えてある。
「こんなオムレツ、オレが先に食べちゃっていいの?」
 僕はそのコンパクトで具体的な幸せを前に、ちょっとたじろいだ。
「食べて、お口に合うかわかりませんけど」
 と彼女は僕の目を見ずに微笑んだ。
「うん、いただきます」
 僕はオムレツを食べた。彼女の人柄がよく出た、やさしい味のするオムレツだった。
「おいしいよ」
「ほんとう?」
 彼女はどうでもよさそうにそう言った。そりゃそうだ。そもそも僕が食べるはずのオムレツじゃなかったんだから。
「シブヤさんが食べれた方がよかったんだろうけど、うん、とてもおいしい」
 そう言うと不格好な沈黙が続いた。いつもひとこと余計なのだ。適当な言葉が出てこなくて、仕方なくつけっぱなしのテレビを映めた。
「時々わからなくなるよ」
 彼女はテーブルの隅を見つめて呟いた。僕は黙っていた。
「この先、就職とかあるでしょ? そうしたらシブヤケイと同じ会社で働く事はたぶんないでしょ? そうなったらさ、いやそうなるしかないんだけど、ちゃんと続いていけるのかなって。学生の今でさえなかなか会えないのに、気持ちを保ち続けていけるのかなって」
 僕はフォークを置いてティッシュで口を拭いた。彼女がそんなストレートな話しを口にするのは初めてだった。
「言ってることはよくわかるよ。でも先の事は誰もわからない。だけどお互いにどうにかしようって気があれば、大抵のことは何とかなるよ」
「ほんと?」
「絶対、ほんとう」
「残りは?」
 僕は腕を組んで難しそうな顔をした。
「月の満干だね」
「何それ」
 冗談が通じなかったので僕は仕方なく自分で笑った。
「いや、つまりタイミングだと思う」
「そっか、なるほど」
「どんな無謀な作戦もタイミングさえ合ってれば、それはちゃんと成功するんだ。それを人は奇跡なんて呼んだりするけど」
「そうじゃないって言いたいのね」




 終バスで家に帰ると、アサコから二度電話があったと知らされた。
「あ、アサコ? オレだけど」
「トモユキ? ちょっと待っててね」
 とアサコは受話器を保留して子機の方に移った。
「もしもし」
「もしもし」
「はぁ、暑いね」
「暑い、べたべたする」
「明日さ、空いてる?」
「明日?」
「何か用事ある? バイト?」
「うん、あ、でも早番だから4時半までだけど。その後でもよければ」
「会わない?」
「もちろん」
「もちろんって?」
「もちろんだから、会いたい、だよ」
「会いたい?」
「すごく」
「じゃ、あたし行くよ、予備校まで」
「え?」
 とつい僕は声に出して言ってしまった。
「あ、そか」
 アサコは空気を重くしないように、明るめに言った。あ、そか、トクシマさんとイクタさんがいるんだもんね、あたしが行ったら困るよね、という意味だ。
「ごめん」
「いいよ、待ってるから電話して」
「うん、必ずするよ」




 夏期講習最終日。十日間通いつめた教室の、きちんと並べられた白い長机に問題と解答用紙を配り終えた。窓を開けてみる。陽射しの鋭さは失せたものの、アスファルトの焼ける匂いにまだ夏が感じられる。トクシマさんは来なかった。僕は生徒に夏の間身に付けた学力を総動員してがんばれと言って教室を出た。入試並みのレベルに合わせてあり問題数もいつもよりちょっと多めだ。


 カフェテラスを望む吹き抜けに出て、煙草に火を点けた。そしてこの二週間で起こった事を思い返した。アサコが交通事故に遭った、そのとき僕はそばにいなかった。僕はイクタと抱き合い、アサコはトクシマさんと抱き合っていた。


 まだ途中なんだろうなと思った。真っ直ぐに続くシンプルな道の、たくさんの立体交差の数に混乱してるだけなんだ。いつかずっと先から振り返って見れば、それらがどういう位置関係で重なっていた立体交差なのか知ることができる。そしてそのほとんどがねじれの位置にある、僕が歩く道とは無関係な交差で迷っていたことに笑い出してしまうだろう。


「今日で終りね」
 振り返るとイクタが壁際で腕を組んでいた。
「あっという間だったね」
「ホント」
「オレ、なんか心配だよ」
「心配って何が?」
 イクタもそばに来て同じように下をのぞき込んだ。
「いや、何にも教えられなかったなと思ってさ、生徒に」
「生徒だった頃、先生に何か教えてもらったの?」
 僕はとぼけてみた。
「うん、だってたくさんお金払ったよ?」
「先生に? この建物に?」
「‥あ、そうか。友達か」
「そうじゃないの?」
「そうだね。友達が一番の先生だったかもね」
「私たちはただのきっかけ、答えは始めから全部生徒の中にあるよ」
「まだうまく言えないけどって?」
「私たちは、生徒たちがもつそれぞれのベクトルに、ちょっとだけ手を貸すことしか出来ないんだと思う。私たちの力で引っ張るんじゃないの。成長ってそういうものでしょ?」
「そんな風に守られながら自分の価値観に気付くのかもしれないね」
美大の友達が言ってたよ。デッサンに似てるんだって。ひとつのモチーフをそれぞれの視点から解釈、比較しあって、磨かれてゆくんだって」
「イクタは?」
「私はやさしさが欲しい。それもこう、突き刺さるようなやさしさ」
「突き刺さる?」
「お金で買える情報の中には存在しないやさしさ、マニュアルのない、私にしかできないやさしさ」
「なるほど」
「私は、私を取り囲むすべての人にやさしくありたいの。例え嘘をついてでも、私と過ごす以上は幸せでいてほしいの」
「幸せかどうか、イクタにはわかる?」
「わかるよ。だって、そうでなきゃそんな事できないじゃない」
「正しく?」
「わかるよ。そうね ‥少なくとも、ワタナベ君はいま幸せじゃないかな」
 挑戦的な目線でそう言い放つイクタに、僕は言葉を詰まらせた。
「‥どうして?」
「だって顔に書いてある。迷ってるって」
「何を迷ってんだろう」
「さぁ、見当もつかないけど」
 嫌な感じにイクタは笑った。やっぱりまだ怒っているのだ。まぁ当然か。
「迷ってなんかいないよ」
 と僕は言った。
「すまないとは思っているけど、もう迷ってなんかいない」
 僕の言葉にイクタは細い目をして、
「どうせ、今日でもう会わなくて済むしね」
 と言った。
「いや、そんなことじゃない。会いたくなればいつだって会いに行くよ。でも僕にはイクタより大事な人がいる。それに」
 と僕は目を伏せて、
「イクタとは関係なく、もうこの予備校にに来たくないんだ」
 彼女は笑った。
「トクシマさんだ」
 僕はイクタを見た。
「知ってたのか」
「知ってた。クドウさんと付き合ってることも、トクシマさんを看病してることも」
「それで、オレに?」
「それこそ無関係よ。ただ、ずっと好きだっただけ。そういうのって理由にならない?」
「いや‥」
「チャンスだとは思ったんだ。そんなときなら、横取りなんて簡単だしね」
 僕は黙っていた。
「でも、もう駄目、だね」
 イクタが笑顔を浮かべてそう言った。
「わからない」
 と僕は言った。
「イクタのこと今でも好きだよ。でもアサコのことは「大事」なんだ。比べようがないんだ」
「私としたセックスは?」
「え?」
「よかった?」
「‥うん、素敵だったと思う」


 イクタは手摺の上に重ねた腕の中に静かに顔を埋めた。耳を真っ赤にしてそのままじっと動かなかった。体の底から吹き上げて来る何かに耐えているんだと思った。肩が小刻みに震え始め、すすり泣くような声が聞こえた。芝居掛かっていると言えばその通りにも見えたけど、それでも良かった。きっとそういう方法でしか自分を表現できない女の子なのだ。
「ごめん」
 イクタの背中を触りたかったけど、触れなかった。そもそも今の僕にはとてもそんな資格なんてないのだ。揺らめきと薄っペらい感情の中、こわばった指先が汗ばんだジーンズの上でもどかしかった。
「‥もう、会えない?」
 鼻声でイクタは言った。
「会えるよ、きっと」
「いいの?」
「イクタさえよければね」
「ほんとう?」
「うん」
 たまらなくなって、僕はイクタの背中を擦った。体がいつもよりずっと熱かった。
「‥今日、が最後、じゃないよね」
「うん」
「ねぇ‥ 今日‥」
 とイクタは言った。
「お願い‥」
 いいよと言い掛けて、アサコの約束を思い出した。イクタは両目で僕を見ていた。全然自信のないイクタはイクタじゃないみたいだった。僕は「ほんの少しだけなら」と言った。


 教室を出て行く生徒ひとりひとりに握手をした。さようなら、頑張ってね、よくやったな、だいじょうぶさ‥。肩に手をやったり、頭をなでたり。ありがとうございましたなんてお世辞にも言われてしまうと、急に何歳も老けたような気になった。


 幾つかの手紙と細長い箱に入った小さなプレゼントをもらった。1通は簡単なお礼の手紙で、1通は電話番号を書いただけのもの、もう1通はラブレターだった。うれしかったけど溜め息が出た。先生に恋しちゃうなんて切なすぎるよ。断言したっていい、そんなのまやかしなんだよ。頼りになる年上の異性、隅々まで手の届くやさしさ、仕事じゃないときに見せる素顔。全部、先生対生徒っていう約束事の中でしか成立しない幻想じゃないか。


 僕はアサコがどうしてそんな安っぽいマジックに引っ掛かってしまったのか理解できなかった。今アサコが立っている場所を外側からはっきりと見せてあげたかった。


「終わったね」
 とイクタが言った。小さなバーの中だ。
「終わったらいいのに」
 紫色の甘ったるいカクテルを傾けて、僕は言った。とても上の空だ。
「ねぇ」
 イクタが体ごと僕の方に向いて、膝をぶつけながら僕の足を揺する。
「んー?」
「んー? じゃないよ、もう‥。聞いてる? さっきから」
「聞いてるよ」
「じゃあ、何の話しした?」
「だから、夏期講習が終わったねって話しでしょ? お疲れ様」
「その前は?」
 彼女を慰めるために今ここにいるはずなのに、どうしてもその気が起きない。アサコのことが頭から離れなかった。分厚いガラス越しに灰色の世界を見下していると、なぜわざわざこの無限に広がる可能性の中で、僕はアサコだけを愛してるなんて言い切れるのだろうと思った。何故もうほかを探さなくていいと思えるんだろう。自分以外の男に抱かれた女をどうしてわざわざもう一度好きと言わなくちゃならないんだろう。目の前にいる綺麗な女の子になんで乗り換えたいと思わないんだろう。
「ねぇ」
 と僕は言った。
「イクタは悲しい目に遭ったことある?」
「例えば?」
「だから、オレみたいにさ、かっこ悪い目」
「あるよ、何度も」
「どうやって乗り越えたの?」
「その人より幸せになってやろうと思って、実際なってみせた」
「なるほど、シンプルだ」
「でも」
 とイクタは言った。
「そうする度に、すぐまた別の悲しい目に遭わされたりしてね」
 イクタはどうしようもないという顔で笑った。
「それでも続けたい?」
「だって、前より前に進みたいもん」
「そうだよね」
 ウェイターがトム・コリンズを持ってきて、目の前の空のグラスと替えた。炭酸の泡が弾けてゆくのをぼんやりと眺めた。
「取り戻せそう?」
 とイクタが言った。
「わからないよ」
 と僕は言った。的確すぎる言葉が悲しくて吹き出してしまった。
「どうして笑うの?」
「だって、慰められてる」
 僕は起き上がってイクタの顔を見た。イクタは困っていた。
「‥悲しそうにするから」
「ごめん、ごめん」
 そう言って、僕はうつむいてしまったイクタの手を取った。イクタはもっと深くうつむいた。
「オレ駄目なんだよ。とてもたくさんのことなんて考えられない」
「大事、なんだもんね」
 大事な気持ちをしめ殺すような声でイクタが言った。
「うん」
 と僕も言った。
「でも、私も大事なんだよ? ワタナベ君のこと」
「うん」
「わかる?」
「わかるよ」
「何でもしたいの。ワタナベ君が安らぐことなら何でもしてあげたいの。一生懸命になれるの。そうしている自分も好き。本当ならワタナベ君がクドウさんのことをとても大事に思ってる気持ちだって、応援してあげたいくらいなの」
 僕はイクタの脆さをとても愛しく思った。でもかけてあげる言葉がなかった。
「でも、それはできない。悲しいから」
 イクタはカウンターの黒い天板に向かってそう言った。二人のグラスと二人の顔が逆さまに映り込んでいる。像はぼんやりとして、泣きながら見た鏡のようだった。