lovefool

たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

「響きの水」11章


 あの時と同じ砂浜を僕らは逆行してゆく。爪先から行く手には真っ黒な影が伸びて、首の付け根が焼かれてゆくのがわかる。


 逆光の中でアサコは難しい顔をしている。その表情は昔、美術で習ったマーブリングを思い出させる。たくさんの淡い色がけして交じり合うことなく複雑に隣りあっているあの感じ。


 積み上げられたテトラポットの上を僕は歩いた。赤い髪の男がウェットスーツの女子高生に声を掛けている。僕は一番海に近い側に座って足をぶらりとさせた。アサコは僕の後ろの一段高くなったところに座った。


「こっちにおいでよ」
 僕がそう言うと、アサコは目を反らした。
「遠くて話しができないよ」
 そう言うとアサコはしぶしぶ立ち上がり、僕が示した位置からまた少し離れたところにやっと腰を降ろした。
「暑い、ね」


 アサコは声を出してくれない。OKと僕は思った。OK、そこから始めよう。ちゃんと元通りにしてみせる。時間はたっぶりある。チャンスだってたくさんある。ちゃんと元通りにしてみせる。
 僕は左手を伸ばした。アサコはそれを無視した。
「ずっと会いたかったよ。イタリアに行ってたときも、事故と知って帰って来てからも」
 僕は胸のポケットから手紙を取り出した。イタリアでしたためた例の手紙だった。
「読んでくれる?」


 アサコは手を伸ばし、表情を1ミリも変えないまま便箋を広げ、僕の書いた古い手紙を読んだ。読むというより便箋のデザイン案を確認してもらっているような目付きと手つきだった。そこに書いてある字が僕のものであることぐらいは伝わったんだと思う。読み終えて言った。


「‥これ、もらっていいの?」
「もちろん」
 と僕は言った。アサコは便箋を丁寧に折り畳んで足のそばに置いた。そして溜め息をつき、さっきと同じようにはしゃぐ子供達に目を向けた。その仕種は僕の時間をちょっとだけ巻き戻したみたいな気にさせた。すべてが数分前のままで、伝えたかった僕の気持ちだけがぽっかりと宙吊りになった。
「どうだった?」
 たまらなくなって僕は聞いた。
「何が?」
 新聞のチラシでも見てたみたいな口調でアサコは言う。
「ん、だから、手紙」
「あぁ、うん、いい手紙だった」
「伝わるかな」
「え?」
「ちゃんとさ」
「‥わかんない」


 沖でたゆとうウインドサーフィンが水辺に集まった蝶のように見える。透明のビニールを貼ったところはアオスジアゲハの模様によく似ている。ほら、あれ蝶に見えない?と言おうとして、アサコが極度の蝶嫌いだということを思い出した。長い長い沈黙が続いた。波が何度も寄せては返した。波打ち際では3才くらいの女の子がプラスチックの熊手で、貝殻やガラスの破片を集めている。その手前には家事と育児に疲れたお母さんが白くむくんだ背中を太陽にさらしている。


「アサコがいないと」
 と僕は言った。
「どうしていいかわからなくなる」
 自分の言ったことを反芻して続けた。
「女の子なら誰でもよくなっちゃうときがある」
「だからキス?」
 アサコが初めて僕の目を見た。
「あのときはキスがしたくてたまらなかった。会いたくてもアサコがいなかった。気持ちを通じさせる自信がなかった」
「だから?」
「そばにいたイクタさんとキスをした」
「トモユキ、その人のことを好き?」
「わからない」
「大事にしてあげられる?」
「自信がない」
「でも、キスしたんだ」
「うん」
 僕はいたたまれない気持ちになって白状した。
「でも、キスだけじゃない」
「え?」
 アサコの顔色が変わっていくのが見えた。
「キスだけじゃないって言ったんだ」
 アサコはもうどうしようもないという笑いを浮かべた。
「セックスした。2回」
 僕はきっぱりと言った。
「彼女の体はとても綺麗なんだ。今まで見たことないくらいに。彼女は僕に好意を持っていた。僕も彼女を見て好意を持った。そんな女の子とするのはとても素敵なはずだと思った」
 僕は縛られたまま腕の中で踊る、あの白く細い体を思い出した。
「でも楽しくなかった。実際にはアサコのことばかり思い浮かべていた」
 僕は頭を振った。何を言っているのか自分でよくわからなかった。
「悲しい」
 としばらくの沈黙のあと、アサコは言った。
「男の子がどんな気持ちでしちゃうのかなんてわかんないけど、でもなんか、それって悲しい」
 アサコは指先でコンクリートの上の砂を落としている。
「悲しいよ」
「‥うん」
「でもしなきゃそれ、わからなかったんだよね?」
 イクタが遠い異国の人のように思えてきてしまった。でもおとといのことなんだよなぁと思い直した。
「でもね‥ 私も、したんだ」
 と夕立のようにアサコは言った。僕はそれがどういう意味だかよくわからなかった。
「したって?」
「だから、セックス」
 アサコはうつむいたまま、さっきの僕みたいな口調で話し続けた。
「トモユキがいない間にある人から手紙をもらったの。何気ない、元気? みたいな短い手紙」
 僕の頭はぐるぐる回った。ありとあらゆる引き出しを開けて、すべてのファイルを確認する必要があった。
「うれしかったの。その手紙をもらった私はとてもはしゃいでた。病気の時、クラスの子が給食のパンとプリントを持って来てくれたでしょう。あのときみたいに自分が誰かの気に掛かっているんだって感じられて、なんか内容とは無関係に、私にとって特別な手紙だったのね。と言うか、ホントのこと言うと、あの人どうしてるかなって思ってたら、ちょうど手紙が来ちゃっただけのことなんだけど」
 アサコはうれしそうに、また恥ずかしそうにそのできごとを話した。まるで酒の席で若い頃の話しをしているみたいに。「そしてお礼の電話をしたの。便箋の端に携帯の番号が書いてあったからそこにかけて。そしたら今度の休みを取るから久し振りに会わないかって言うから、懐かしくて私も会いたいって言った。それで何度か電話しあって、休みが取れたからどこ行きたい? そうだ、プールに行こうっていうことになったの。押し入れから水着を出して、近くていいプールを探して」


 僕は黙ったままだ。なんて言っていいのか、言葉が出てこないのだ。蛇ににらまれたネズミみたいに僕には人格も権利も与えられていないんだという気になった。
「でも約束した日にはそのプールはお休みだったの。だから私たちは行くところをなくして、ただその市営のプールの前に立って、困ったなぁ、どうしよう、じゃあバイクでとりあえずどこかへ走ろうかってことになったの。あてもなく交差点に来たらじゃんけんで進む方向を決めて、ただ走った。そのままバイクは熱海の方まで行っちゃったの。ずいぶん飛ばしたしすごく疲れたけど、天気はよくてとても楽しかった。ヘルメットを被っているから乗っている間は大して話さなかったのに、二人を過ぎてった風が全部会話だったみたいで。そうだ温泉に入ろうって言い出して、民宿を見つけてお風呂だけを借りたの。それで浴衣で少し濡れたアスファルトの上を散歩して、その下を流れる川を眺めて昔の予備校の話しなんかをした。ずいぶんたくさんの時間が経っているんだなと思った。それでまっすぐ帰ってきたの。帰りは道が空いてて駅に着いたのはまだ夕方の4時で、もう帰る?って聞くから、まだ明るいしせっかくだからもう少しだけ一緒にいたいって言った。じゃあうちで夕飯を食べようよって話しになって、そのまままたバイクに乗ったの。でも着いたのはその人のうちじゃなくて、その、車で入る、汚いホテルで」
「そこで、したの?」
「‥うん。でも私はそのときちょっと怒ったの。だって夕飯は買い物に行って、私が特製スパゲッティを作る約束をしていたし、走りながらその作り方を耳元で大声で説明していたのに、ホテルなんかに入ったから」
「それで?」
 僕は仕方なく先を促した。
「でも結局は逆らえなかった。だってそんなこと本当はわかってたはずだもん。知らないでここまで無理やり連れてこられたってわけじゃないもん。離れていてもお互い密かに求めあってたことはわかっていたしね。でも行為そのものはとてもあっさりしてた。とくに感じたわけでもない、始まりがあって終りのある普通のセックスだった。
 でもしてしまった後はなんだかほっとしたの。借し合っていた本を返したみたいに。なんて言うのかな、ちょうどドローになった気がしたの。大地震を起こした大陸のプレートが元通りになるみたいに、また明日からいつものお互いの生活に帰るんだなって、わかり合ってたはずだった」


 話しはそこで終わらなかった。僕はただでさえ混乱しているのに、それを聞いて頭の中に小さな火花が散ってゆくのを感じた。目が熱くなった。
「でも、それは一日で済ます出来事の量としてはちょっと多すぎたみたい。許容量を越えてたと思うの。しちゃいけないところまでいってたの。だからそうなっちゃったと思うの。私はもちろんぐったりだったし、彼も働いている身だから疲れが溜まってた。気がつくともう私たちは対向車線を走ってた。それがどういう事なのか、次に何が起きようとしているのか考える暇なんてなかった。赤い軽自動車を運転してた女の人の顔が、向かって来る私たちに驚いていく過程がビデオのコマ送りみたいに見えて、あー人の顔っておもしろいなって思ったら二人とも空を飛んでた。私の方がひどい姿勢だった。頭から地面に向かっていたから、ほんとだったらそのまま死んでたと思うの。でも彼がかばってくれたからそれできっと和らいだの。まだちょっとは痛むけどね」


 アサコは後頭部に触れた。そこにはもうガーゼも絆創膏もなかった。いびつに盛り上がった赤い髪があるだけだ。僕はその髪が血でべっとり濡れたときのことを思い浮かべようとした。でも僕が描くのは映画に出てくるケチャップのような血糊だけだった。僕はいつもと変わらない気持ちでいた自分をとても情けなく思った。


「救急車で運ばれた病院がたまたま家の近くで、私はだらだら血を流しながら何より先に親に知られるのが怖いって言ったの。おかしいよね。死んだり、体が麻痺して動かなくなったりするより、そういうことの方がリアルって言うか、とにかく大事に思えたの。事故の責任はオレがなんとかするからって彼も動けない体で言ったわ。警察の人も来たし、車の女の人も来たし、たくさんの人が私たちのところに来たわ。もう絶体絶命だって思ったけど、運転してたせいなのかな、彼の方にその人達は行っていることが多かったの。そして結局、親のいるときに会うことは1度だってなかったの。だから‥」
「自転車で事故を起こしたって嘘ついたんだ」
「そうなの」
 歴史を証言するような口調でアサコは言った。
「それで私はすぐに退院して池袋の実家で休んだの。事故は偶然向こうが信号無視してたせいもあってお金は全部出たし、家まで謝りにも来てくれたから親はすっかり信じたみたい。それから何度か病院に行く度に彼の世話を手伝って、汗をふいたり、果物をむいたり、体を起こしてあげたりして、話し相手になったの。彼は一人暮らしだから付き添う人がいなくて、ちょっと心細くなっていたのね。だから私みたいにそばにいられる人が必要だったし、私もそうしたいと思ったの。ほら、体を動かせないと人間って‥」
「背骨を折ったんだろ? その彼」
 際限なく話し続けるアサコを僕は制した。
「‥うん」
 僕だけが無知で僕だけが孤独だった。
「トクシマさん」
「そう」


 ほんとうに悲しい時は涙も出ないんだとそのとき知った。体中の水分が干上がってしまったみたいに、どこからもどんな液体も出てこなかった。こんなのありかよと思った。僕は震えていた。目を引きつらせて、喉の奥をひりひりさせて、イクタと最後の夜のアサコの裸を目の裏側でちかちかと瞬かせて、僕は激しい吐き気を覚え、むせ返った。
「トモユキ!」
 アサコは僕の背中を擦ってくれた。そのぬくもりはいつもと変わらないアサコの手に思えた。
「ねぇ、トモユキ!」
 僕の咳は止まらない。空っぽの胃が跳ね上がり、目の端には脂汗みたいな涙がにじんできた。手のひらにかいた汗がいやに冷たい。
「くるしい」
 咳の合間に僕は言った。そばにいた高校生たちがこっちを気にするのが見えた。女の子の笑い声。夏なのに勿体ないと言うイケガミの声も聞こえる。
「大丈夫!トモユキ、ね? 大丈夫だから」
 アサコは叫ぶようにそう言った。僕は何を言っているのかよくわからなかった。大丈夫? 大丈夫って何が? 涙を浮かべながら、それが僕の体調のことを言っているのか、これからの僕のことを言っているのか、それとも二人のことを指しているのかわからなかった。
「‥大丈夫?」
 と僕は言った。吐き気を飲み込みながらやっとだ。
「ここにいるから」
 とアサコは言った。
「トモユキのそばに」
「僕のそばに」
「‥うん」
 僕はまだ何度かむせ返りながら、呼吸を整えて言った。
「‥何で? 言ってる意味がわからない」
 アサコは視線を反らした。そして眉を寄せた。自分の中で抑えつけてる何かと葛藤している顔だと僕は思った。
「もう、いいの」
 とアサコは言った。ますますよくわからない。咳のしすぎで鼻の奥がつーんとする。
「いいの。今はトモユキといたいの。ね?」
 何でこんな簡単な言葉がわからないのという顔でアサコは言った。怒っているようにさえ僕には見えた。僕は何にアサコがそんな気持ちを抱いているのか、さっぱりわからなかった。お互いにそんな遠い心を持っていたっけと心配になった。僕の知ってるアサコには、とても思えなかった。
「オレが苦しそうにしているから?」
 と僕は言った。
「そう言えば、治ることを知っているから?」
 余計なことを言うと、アサコは絶望的な顛をした。
「違う!」
「だって、わかんないよ」
「なんでそんなこといちいち言わせるの?」
「いちいちって?」
「そんなのトモユキの方が好きだからに決まっているじゃない」


 僕は悲しかった。今日、聞きたかったはずの言葉を聞いたにも関わらず、振られてしまったような気になった。排水口に消えるシャンプーの泡のようにたくさんの僕が、渦に巻かれて暗闇の中に消えていった。




 その日から、僕はアサコに素直になれなくなった。仲直りという意味合いなのか、あの後ふたりで食べに行った中華粥もちっとも喉を通らなかった。
「トクシマさんとはもう会わないの?」
 と僕が聞くと
「うん、まだ病院にいるし、世話も必要だからわかんないけど、たぶん、もう」
 と言った。僕はあまり納得できなかった。かと言って僕だってイクタとの関係をはっきりさせてるわけでもないのだ。


 トクシマさんが来ると言った8月8日、僕は予備校を休んだ。本当はそのままアルバイトを辞めてしまいたかったけど、残りはあと10日を切っていたし、それまでにトクシマさんが完全復帰することも有り得なかった。


 イクタは2日間休んだだけで、ちゃんと仕事を続けていた。「おはよう」と言うと同じくらいのボリュームでちゃんと「おはよう」と返ってきた。でも僕の目を見てくれることは一度もなかった。彼女は特に落ち込んでいる様子もなく、怒っている風でもなかったけど、そこにはいつも息を詰まらせる空気があった。同じ教務室にいることを1秒でも縮めようとしているみたいだった。急ぎ足で次の講義に向かっていった。


「今度は喧嘩?」
 ミハラは鼠みたいにやってきて囁いた。
「んー? 違うよ、生理かなんかじゃない?」
 僕はミハラの方を見ずに書類の整理を続けた。ミハラはつまらなそうな顔をして、ちぇっと舌打ちをした。
「あ、おい、なぁ」
 といなくなろうとするミハラを僕は呼び止めて、
「トクシマさん来たって?」
 と聞いた。
「あ、昨日、来たたよ。一瞬だけど」
「どんな感じだった?」
「なんか見たことのない人に付き添われてタクシーで来たんだけど、教務室まで来て、元気ー?なんて言って、すぐ帰っちゃったよ」
「何それ」
「うん、オレもよくわからない」
「背骨折ったんだろ?」
「うん、そうだってな。でももう退院して自家静養するみたいよ。 ‥あれ? え、でもなんでワタナベそれ知ってんの?」
「ん、いやそこで生徒に聞いてさ」
「ふうん」
「で、付き添いの人って?」
「うん、なんか背の低い‥」
「女の子?」
「いや、筋肉質の男。女の子じゃトクシマさんを連れて歩けないよ」
「そっか、そうだな」
「ま、何して折った骨だか知んないけどさ」
 口を歪ませてミハラはそう言った。


 講義はいつになくすんなり進んだ。よからぬ考えごとをしているときには、何かしら手や頭を動かしていた方がいいのだとよくわかった。そうして気持ちにすきを作らないようにしていないと、背後霊みたいな憂鬱にたちまち元気を吸い取られてしまう。食事も取らずに溜め息ばかりついていたら、誰だって病気になってしまう。


 いつもこのくらいの感じで教えられたら、と生徒の反応を見て僕は思った。僕は本気で教師を目指していたかもしれない。声は通るし、洒落は冴えるし、黒板に挙げた例題も明解だった。
「先生‥」
 講義が終わったあと集めたプリントをまとめて黒坂からマグネットを外していると、帰らずに残っている生徒がいた。短く揃えた前髪で、そばかすの多い、おとなしそうな女の子だ。
「相談があるんですけど」
 僕は顔には出さなかったもののつい苦笑した。悩んでいる人はどうしてわざわざ悩んでいる人を選んで引きつけられるのだろう。どうして今の僕が解決してくれそうに思えるのだろう。
 僕は興味本位に、実は先生も相談があるんだ、聞いてもらってもいいかな、と言いそうになったけど、
「あぁ、聞くよ。言ってごらん」
 なんてにこやかに笑って、理解のある先生の顔をしていた。