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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

寂しさと温かさの間


検索ワード「舟盛道楽」 で毎日数人が訪れるサイト「ラヴフール」へようこそ。ロボット式検索エンジンに載る頃には、過去の記事はとっくに消えてます。残念でした。記事はナマモノだからね。ちなみに「takanabe」で飛んでくる人も毎日一人ぐらい必ずいるのだった。そんなに気になる単語か? 不思議だな。


昨日は美大時代の同級生アーティスト宇田敦子さんというか宇田の、映像発表会&トークショウに行ってきたよ。美大を出た後、もう一つ大学を出て、映像作家になったんだそうな。その在学中から作りためて、いろんな賞を総なめしている連作「福田さん」(mafじゃないです)を上映。DVで友達や家族との日常を撮影した丁寧な作りの作品だった。


その映像を見ながら考えたことは、僕の世代(72年生まれ)の空気感というのはやっぱりディスコミュニケーションの上に成り立っているんだということの再確認。愛想笑いした後の沈黙、何かをしたくてアクションを起こすまでの沈黙、友達が帰った後のテーブルの上の湯飲み、蛍光灯を消した後の部屋の暗がり、「結局すべてをわかりあえっこない」「でも確実に何かが伝わっている」、寂しさと温かさの間の絶妙なグレーゾーン。そういう感覚が無限のループのように丹念につづられていく。


愛すべき友人やコイビトや家族と言葉を交わす。でもそういう時に伝わっていることは言葉に乗った情報だけじゃない。親しければ親しいほど尚そうだ。食事をする時に栄養だけを考えて献立を立てたりメニューを選んだりはしないのと一緒だ。匂いも色も食感も喉越しも温度も楽しんでる。繰り返し食べたい味がある。体には毒かもしれなくても忘れられない味がある。コミュニケーションにも同じことが言える。


宇田の作った映像にストーリー(あらすじや要約)を求めても意味がない。描かれた日常について語ることにも意味がない。それは言葉について言葉で論じるのと一緒だ。脳みそが脳みそのことを考えている時みたいだ。


毎日、誰かと関わる。言葉だけじゃなく、仕草や目線もかすかにお互いの気持ちを揺らしている。揺らした気持ちがまた他の誰かに作用する。その振動がwebのように絡み合って社会が出来てる。名前のない気持ち、でも確実に触れたことのある気持ち。感情が0から1に至るまでの、無から有が生れるそういう瞬間を、宇田の視線は的確に捉えている。その視線やテーマはきっと100年経っても古くならない。そしてその頃にはそろそろ名前がある感情になっていると少しうれしいかな、と思った。蛇足だけど、女性が日常をテーマにしたものの中では自意識がニュートラルなところ(変に特別ぶっていないところ)も好感触でした。


映像の後は宇田のホームページでも発表されているwebドラマシリーズをスクリーンに投影し、製作の裏話などを交えて見ることが出来た。「福田さん」という映像作品が、映画的な時間軸を持っていたのに対し、こちらはその表現したいコアの部分、言ってみれば、寂しさと温かさの間の絶妙なグレーゾーンを瞬間で切り取り、マウスを近づけて反応を確かめることで、映像や被写体とのコミュニケーションを実現させ、その繰り返す仕草や反応の中で映像そのものを例えば楽器のように扱っている。インタラクティブという危うい言葉の意味を、まるで僕がゲームに夢見ているもののようにシンプルで楽しく表現している。非常にスマートで、説明のいらない、ステキな作品だった。


個人的に知り合ったと言うホフディランの雄飛とのコラボレート作品群「LIFE LAB」の新作発表もあり、その表現力も相当に完成されたものになっていた。公開された時は是非体験してみるべきでしょう。なんかしらの感情の揺さぶりが起こることは僕が保証します。なんだかうれしくて笑ってしまったもの。


最後の雄飛と宇田のトークショーがあり、ふたりが出会った経緯や作品に対する姿勢なんかを語った。そこで感じたのは宇田は、そのちっこい体と目で、自分にしか見えないもの、みんなにも感じられること、という表現の大原則をかっちり捉えてカタチにしているんだなぁということ。偉くなったのに全然飾るところがなくて、目の前に現れたチャンスを、自分のできる限りの最大限の努力とそれに協力してくれた人への感謝で、全部ものにしているんだなぁってこと。うらやましいし、僕もがんばなくちゃいけないってそういう当たり前の勇気を授かったような気がした雨の日でした。チャンスはそれがチャンスであることにまず気づけることが才能だとは思うけれども。