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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 


給料日の前日です。財布の中には600円。銀行には0円(正確には¥-34,000)。夕飯用にカップヌードルをカバンに詰めて行ったら、朝の電車が事故とかでめちゃ込み。あまりの圧力にオエーってなって途中下車するわ、カップラーメンつぶれてるわで、非常に良い出だしの月曜日でございます。


おはスタを見たら、オープニングからさっそく流行語大賞の話題だった。「おはスタからじゃなくて、サタスマから出ちゃったけど、慎吾ママおめでとう」って寂しそうに言ってた。こっちはもう3年も「おーはー」って毎朝言ってるわけですからね。挨拶ぐらい行ってやれよ、慎吾ママ、礼儀だろう。


今日のメールマガジン、一緒についていたコメントがぴりっとしてます。

『明日は何とかなる、と思うのは馬鹿者だ。今日でさえ遅すぎる。昨日のうちにすましてしまっているのが賢者だ。』(クーリー)

コメント:ある意味、明日はずっとこないですからね。


スティーブン・キングの「オンライン断筆」から考える電子ブックの問題点

 消費者は何かが(1)かなり良いか,(2)かなり安いか,(3)望ましくはその両方でなければ,旧来のものから移行するようなことはしない。現実を見据えよう。ペーパーバックは完璧に近いテクノロジーだ。その「機能」について考えてみれば,電子ブックメーカーが超えなければならないことも分かってくる。
 価格:ペーパーバックの値段はほんの5ドルくらい。だが,電子ブックリーダーは130ドル以上だ。
 耐久性:玄関先で落っことしても,コーヒーをこぼしても,ペーパーバックは完璧に機能する。
 出版物の豊富さ:本のフォーマットで入手できる出版物は何? すべてだ。電子ブックフォーマットではほんの数千しか入手できないことと対照的だ

 んなもん流行る訳ないじゃん、とか言っちゃうのは簡単なんだけれども、紙のメモ帳よりもずっと劣る電子手帳やらPDAを使っている人も多いからねぇ。焦らずにそこに置かれている本当の価値と値段を比べてみるべきだ。材質や付加的な性能なんかのフェティッシュではなく。


引き続きゲームの話。昨日のを要約すると「ゲームの面白さはボタンを押した時のインタラクションに詰まっている。だから長大で豪華なゲームは散漫に見えるし、作り手→受け手のコミュニケーションとしても、ビジネスとしても効率が悪い。アクションそのものに快感を感じるようなシンプルな作りのゲームこそ、テレビゲームがブームになった頃の、マニアックじゃない「大きなエンターテインメント性」が詰まっているし、そこをもっかい見直すべき、という話でした。それを実証してくれたのが70万本を越えて今なお売れつづけている「マリオテニス64」ですよってことです。


で、今日はその条件を満たしながら、ものすごく異端の存在である「風来のシレン2」の話をします。このゲームを知らない人に説明するのはとても難しい。今までのいろんなゲームの面白さがふんだんに詰まっているからです。アクションゲームのような即時的なハラハラ感、シミュレーションゲームのような戦略性、ボードゲームのような乱数に振り回される意外性、ロールプレイングのような成長やカスタマイズ、パズルゲームのようなシンプルさと麻薬性。ま、一言で言うと「おもろい」ってことなんですけど。でもその面白さが全然シンプルじゃない。


プレイヤーはいつもレベル1の状態からゲームを始める。食料も武器も防具も現地調達の冒険を始める。その場所は行くたびに地形が変化していて、覚えるということが出来ない。無数のモンスターたちがプレイヤーを狙っている。お互いの動きや体力の変化、武器やアイテムによる効果をすべて予測しながら、ヒトコマずつ冒険を進める。着実に慎重にプレイしていれば、どんどん先に進める。でもちょっとでもいいかげんな気持ちになると即座にゲームオーバー。せっかく強くなった体力や武器や豊富なアイテムは全部失われて、裸一貫で最初の村に戻される。すべて水の泡だ。「ゲームは時間の無駄」って口を酸っぱくして言う母なんかの顔がずーんと浮かびあがる感じ。でもまたすぐに再チャレンジする自分がいる。まるでインベーダーやブロック崩しにそう向かい合っていたように。


アクションゲームの瞬間風速的な緊張感ってあるじゃないですか。スーパーマリオで一ブロック分しかない地面に向かってジャンプする時や音楽ゲームで流れてくる楽譜に対してジャストのタイミングでボタンを押す時なんかがそうですけど、ああいう緊張感が30分とか延々続くイメージって想像つきますか? もちろん、その合間合間には弛緩と呼べそうな省略できる時間があって、ビデオテープのCMを早送りするような操作ができたりもするんだけれども、全体を包むムードはまさしく緊張。喉の奥までいつもからからになってしまいます。


その理由はゲームの中でキャラクターの性能が上がることではなく、ゲームのこっち側の知識が増えることでその上達具合を計れる点にあるんだと思う。敵キャラクターのいやな習性を覚えて、それを回避する方法を考える。アイテムのここぞと言う使い方を覚える。追いつめられたら、最後の一撃を食らう前に「退く」タイミングを覚える。その知識が財産になって、まったく同じ条件で始まるにも関わらず、前より先へ先へ進めるようになる。その充実感が何ともステキ。だってそれってインベーダーやブロック崩しはもちろんルービックキューブが大流行したのとおんなじドキドキじゃん!って思うわけですよ。シロウトとマニアが同じ所から始めて、プレイ時間に何倍も差が出来たように、テクニックと知識が、プログラムや乱数から読み取った「人間的な観察力」に培われている部分が、何ともアナログ的なヨロコビに繋がっているんだと思うのね。アナログの世界に無いヨロコビをデジタルで表現しても、一部の尖った人がわぁわぁ言うだけですよ。エンターテインメントとは言いにくい。やっぱり、みんなが一度でも体験したわくわくやドキドキを上手に置き換えて追体験させることが、ゲームにおける大きな共感なのだと思う。「風来のシレン2」は、その恐るべきバランスの妙でもって、緊張感を長く長く持続させることに到達しながら、「経験することが財産」という人生のシンプルな法則を、ヨロコビとして表現した傑作なんだと思います。


あ、6日は僕の誕生日だ。金目のものカモンカモン。