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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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CD「フューチュラマ」スーパーカー


もう12月ですよ。21世紀と誕生日も近いのでなんとなくリニューアル。冬は白バックもいいでしょ?

Futurama

Futurama

スーパーカーの「フューチュラマ」について、そろそろちゃんと文章を書こう。もう毎日5ループは聴いちゃってる。起きている時間のほとんどがもう21世紀って感じですわ。冬の高い空にぴったりなどこまでも澄んだノイズや、丹念に濁らせたドラムのループ、ナカコーの温かく憂鬱な声、すべての音の粒子があらかじめベクトルを持っているような光の強さ。その一つ一つが、今までのアルバムが彼らにとっては単なるエチュード(習作)にすぎなかったことを僕に知らしめる。最初っからでかく派手な絵を書くための画材も技量もなかったから、仕方なく今までは小さく丹念に鉛筆デッサンをしていました。それが今回は色も鮮やかにCGや彫刻のように立体になり、手に触れるような解像度と質感を持って僕を取り囲む。ナカコーがミュージシャンとしてレコードを出す上で僕らに届かせたかった音が初めて詰まっている! それが21世紀になる前に3000円でどこでも手に入れられる状態にあることがもう画期的。ビートルズYMOもすべてをリアルタイムで聴けなかった僕だけど、それと同等かそれ以上の恍惚の中に僕は今いるんだよ。2000年に20代を過ごして彼らと共に生きたことを何よりもうれしく思う。


このアルバムを聴いているとものすごくいろんな思いが駆けめぐる。このCDの帯にはこんなことが書いてある。「あらゆるロック(音楽)のフォーマットをのみ込んだ、光のスピードで進化を遂げた、スーパーカーの今がここに」。あぁ、要するにアレね、サンプリングのループやらリバーヴだらけの節操ないごちゃごちゃした音で溢れて、そのくせ女の子が聴いても何となくお洒落っぽいって感じの軟弱なアレでしょ? そうしたり顔で言われても仕方のないようなしょうもないコピーだと思う。いままでいろんな先人達が試してきた音楽のジャンルの垣根を越えて自由に楽しもうってスタイルを若さにまかせてやっちゃうわけね。それもある観点からすると何となくそうも見えなくない点で不利。何が言いたいかというとこのアルバムには説明の言葉が一切似合わないのだ。なぜなら75分を超える再生時間(幅、空間)の中にこそ、その真意が詰まっているから。テキストによる要約も圧縮も受け付けないのだ。1秒も1音にも無駄がない。それでいながら密室感ではなく開放感に包まれている。そしてそれは大きな始まりのイントロ部分に過ぎないことを感じ、その向こうに広がる怪物の胴体が一体どのくらい大きいのか想像がつかずに、僕は恐怖と希望でわなわなと震えてしまうのだ。


「フューチュラマ」というのはマシンエイジの頃にゼネラルモーターズ社が万博で行った「未来のパビリオン」のことだ。科学の進歩による明るい未来が車(スーパーカー)と共にやってくると信じられていた頃の未来の風景、あるいは予想図、と考えてもらえれば絵解きもずいぶん楽になるかも知れない。このアルバムにはご多分に漏れず、古く懐かしいピコピコ音や、電話のコール音、リバーヴなんかがふんだんに盛り込まれている。でもフリッパーズギターが「ヘッド博士の世界塔」でちりばめたような難解な記号もなければ、スパイラルライフが懐かしく新しい未来のモチーフとして「テレビ」を持ち出していたようなムードとは明らかに違う、フェイクやまやかしじゃない強い意志を持った未来観に裏打ちされている。冷めた若者のカリスマであればあるほど、未来って言うのは「どうでもいいもの」「うそっぽいもの」とうそぶくのが定説だったけれども、退屈だからこそギターを掻き鳴らした彼らは、率先してその未来へ駆け出した。ただ「ついてこい」「こっちが正しい」とは言わないだけの話しだ。自分で振り払った鈍い雲の色の合間から光の存在だけを垣間見せる。


これだけの強度を持ちながら、今回方向性に関するミーティングはなかったとナカコーは言う。やりたいことをちゃんとやってみて、最終的にできあがったものをメンバーが「わけわかんない」と言ったとしても、それでいいと思えるぐらいのことをやった。各メンバーの持っている感覚は信じているけど、アルバムの方向性に関しては少しもまかせなかった。そういう主旨のことを言った。実際、アルバムはナカコーの頭の中で鳴り響いている音をいかに忠実に音源へ置き換えていくかに一番神経を使っているように見えるし、このアルバムのツアーが始まった時に僕のそばで見ていた観客などは「これならナカコーひとりでやればええんちゃうん?」と冗談交じりで言ったくらいだ。確かにライブはアルバムの演奏再現と言えるべき内容で、今まで向かって右側だったナカコーの立ち位置は大きくセンターを陣取り、ドラムはツインになって左右へ散った。ギターよりもたくさんのスイッチをうれしそうに操るその姿は、さながらナカコーの音楽実験室とも言える感じだった。


ともすれば不安になるのが解散への心配。これだけの自信と実力を手にしたナカコーなら、もうひとりになったって全部自分でやっちゃうだろうし、その内なる世界の再現だけを強いられるメンバーの疲労って言うのは、すごい世界を作り出したバンドのメンバーであることの感動を差し引いてもしんどいんじゃないの?と勘ぐってしまうけれども、僕としては解散してもナカコーの音が聴ければいいかなぁって結構呑気に構えていたりして。でもいくつかのインタビューを読んだ限りでは、やっとみんなのやりたかったことに届き始めたので、楽しくて仕方がないみたいに言ってたから、心配は無用なのかな。大げさにではなく、これがまだ「光に向かう途中」でしかなく「光の中で安定したもの」は次で作るつもりだからなんて冷静に言い放つナカコーは、やっぱりただもんじゃない。ナカコーが自分で興奮するような会心の出来の音を、おそらく生きている内に聴けるだろうことに、結婚の約束をした幼稚園児のようなトキメキで待ちかまえてしまう。


インスト2曲を含む、全16曲の中で捨て曲なんてのはないんだけど、最後に4曲続くずっしりと深いバンドサウンドが特に涙が止まりません。それでも時間が足らない人なら最後の2曲でもいいや。あまりに非凡で、あまりに懐の深い表現力が、時と場所構わずに僕の目の裏をびっしりと涙でいっぱいにしてしまう。もうこれ以外何も要らないよって口走りそうになって、慌ててその口を酸っぱくすぼめる。いや、連れてってくれだなんて言わないよ。僕は僕の未来がある。僕には昨日より近づかなきゃいけない場所がある。でもそれがちゃんとそこにあることを教えてくれたスーパーカーはかけがえがないよ、と思った。「ベイビー、今度は寄りかからないで愛そう」。それが唯一アウトプットできる前向きな今の気分。僕がミュージシャンだったらここでデッドエンドだけど、そうじゃなくて良かった。甘えないよ。