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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

体温の巻


仕事や会社が嫌いってわけじゃないんだけど、いっそカレンダーから月曜日をなくしてみませんか?


体温について今日は書こう。昨日、同期を中心に何か最近とってもいい感じなページをいくつか紹介しましたが、そこにある外せない主軸としては「体温」、というテーマがあったわけですわ。そのことをちょっと意識してspinn寺本くんのページに書き込んだらこんな返答があった。

そうだねー。体温は意図的に避けてきたかもなんだよね。
というか、僕から自立して遠くなればなるほど、体温下がれば下がるほど、
日記じゃなくてコラムとして(僕のことなんて知らない)誰にでも
読んでもらえるものになるのかなーなんて思ったりしていました。
最初にホームページとか始めた頃から。


最近はちょっと変わってきていて、ちょっとはプライベートなことも
書いちゃって良いのでは?とか思うようになっています。


それと、句読点の数増やして、ややスピード下げたりしています。
タカナベさんがラヴフールで、僕の文章が「やさしくなった」って書いてくれていたけど、
そう感じられてたらOK〜って感じですよ。

うわー、いい!! あなたは私のコイビトですか?っつうぐらいの理解力&伝達力。なんでそんなに伝わるのよ。世界中のみんながspinnだったら世の中もっとずっときっと幸せなのになー(特にオレが)。


引用した後に、自分の思っている事を無理矢理繋げて、あたかも関連したことのように見せていくといういやらしい手法で続けていきますけど、例えばねー、そうだなぁ、僕は90年代前半を美大で過ごしていたんですけど、ちょうどその頃ブームだったのがシブヤ系の音楽や、コンテンポラリープロダクションのデザインや、ハウスにトランスね。なんかお洒落っぽくて、からっとして、体温低めのがとても流行っていました。仮想敵国としては多分フォークソングっぽい日本古来の湿っぽさや、努力じゃなく才能(センス)至上主義があったんだと思います。


80年代は溢れかえった才能や情報量をコンパクトにぎゅっと詰め込んで、カタログのようにきらびやかに見せるっていう手法がかっこよかった気がしたけど、90年代のバブル崩壊以降っていうのは、お金さえあればどんな情報も感動も手に入るっていうような幻想はなくなっていて、ちょっと覚めたようなニュートラルな視点で語られる表現が増えたと思います。物質的な欲求ではなく、精神の絶対的なリアルに対する欲求として「死」や「痛み」を取り上げるようになってきたのもこの頃で、そうした中で感情や汗を切り捨てる表現がかっこいいようなムードが培われてきたんだけど、中立だったり冷静な視点でいればいるほど、そこには感動や共感が薄れてしまうことにみんな少しずつ気づいてきたと思うのね。


そん時に僕は切り捨てられた方の湿り気や体温の方が、これからいろんなモノや魅力が良くも悪くも数値化されていくだろう極近未来において、すんげえ大事なものに映った。ほどよい湿り気や地味さ、使い古されてたイメージなのに思い切りつんのめってる感じとか、アナログを突き詰めた末の精緻な感じとかね。ぶうこという概念が生まれたのもこの頃だ。どれだけそれを尖らせたかではなく、先が無様に曲がっていること、その愛くるしい曲がり具合にひたむきになるっていう変な情熱。


冷静さと感動の薄さの矛盾にピークがやってきたのが多分98年頃。その反動がまさかのフォークブームや、共闘を掲げるラップっていう、最初に一番恥ずかしかったはずの表現に一気に来てしまったんだと思うのね。あまりの寂しさについ「共感しようぜ」って口に出して言っちゃったっていう表現上の降参だと思うね、アレは。


spinnって聞いたところによるとwebの世界ではものすごくエポックな人で、ホームページ作りみたいな言葉がまだ一般的じゃなく、日本語のサイトがまだ100もなかった頃に一番おもしろいサイト!って言われていた伝説の人らしいですよ。その文体は完成されているし、密度が高いし、例えば、ネット接続に対する電話代ぐらいの元は取りたい/取らせてあげたい、っていう考え方からすると、ものすごく書籍に近いような品の高さがあったよ。でももう2000年になったからかどうかは知んないけど、ホームページ作りは一般化したし、有名人が原稿料も取らずに発信する情報も見切れないほどあるし、書籍じゃできない何かが、新しい表現の根っこのように広がっているかも知れない今日という日に「あえて」一般的にありふれた日記的なスタイルをspinnを始めとしたみんなが、普通に選びなおしたことが、何とも言えない感動なのね、僕にとって。それが中学、高校の同級生のやることだったら、あーそー流行ってるしね、みたいにしか受け取れないんだけど、デザインやものづくりの現場で第一線を激走中のみんなが、それほどあるはずのない時間の中で、ビビッドなテキストなり、思いを、ものすごい鮮度とやさしさで紡いでいる今日という時代が、あー、ステキだーって思うですよ。


この特別選び抜いた訳でもないフォントでつづられ対外化された、ニュートラルな温度の「気持ち」っていうのに対して、匂い、体温、汗をそぎ落としていくっていうのがスマートって言うようなスタンスや姿勢は、今あんまりクールじゃないような気がする。いくらかっこいいデザインでも、フラッシュ多用の力作インタラクションが詰まっていても、なかなか更新されない思いには何度も触れたいと思わない。同じ内容だと単純に飽きるっていうのもあるけど、よそいきの発信はよそいきの気持ちしか揺さぶらないからだ、と今現在は強く思う。個対不特定多数だと思っていたwebっていう場所は、実際には個と個が無限に数珠のように繋がっていて、その口調は与える→与えられるっていう図式から外れたものが正しいはず、会話や雑談じゃなくて対話。そう思ったときに「よそいき」の姿勢やスタイルは意思の疎通に邪魔なんだ。そんな冷静さを借りなきゃ気持ちを伝えられないなら、原稿用紙に書いて本でやりゃあいいんだ。今はとにかく無様なりに加速していくような、そういう熱量と密度でここしばらくはがんばりたいし、そんな共感を得られる人たちを応援したい感じ。考えてみりゃあ、実生活だってそういう人の方が人気あるし、一緒にいて楽しいもんな。