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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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投げっぱなしジャーマンの巻


缶コーヒーFireのCDは、五木ひろしのひとり勝ちってことでいいですね?


週刊ビッグコミックスピリッツにずーっと連載されていて、もはやマンネリを通り越してどこへ向かうつもりだろうと思われていた江川達也の「東京大学物語」が今すごい。主人公の村上君(東大生)とヒロインの遙ちゃんが単行本で言うと30数巻分の回り道を経て初めてセックスしたのが先々週。今までの欠落分を取り戻すかのように三日三晩ぶっとおしで抱き合いながら、カメラが遙ちゃんの胎内へ向かい、数億匹の精子が競い合って卵子に受精したのが先週、今週は最初から最後まで受精卵の細胞分裂やDNAのコピーの過程なんかをずーっと描写していた。マクロ視点を一度も離れずにセリフの中だけで状況の変化や、日常の世界を同時に進行させる。実家のお母さんと世間話をしている最中も、胎内では細胞分裂が進む。これアレだね。下手すると登場人物を外側から一度も書かずに出産までを単行本1冊にしかねないね。っていうかするでしょ。すっげ! 連載開始当時から「この物語の主人公は実は村上君じゃなくて遙ちゃんなんです。ストーリーは妊娠して出産するところまで描きたいと思っている」と言っていたので、実は今まさにクライマックスを迎えていると考えていいんだろう。期待しちゃってていいのかも、って思った。彼の計算づくなところはあんまり好きじゃないんだけど、これを週刊連載でやるところがすごくアナーキーで気持ちいい。


実は僕、メールが嫌い。いや、受け取るのは好き。すごく好き。返事が嫌い。僕の書いたメールを一通でも持っている人はアレだよ。オレに好かれてるよ。だってヒトツキに書くメールってほんの何通かだもん。昨日は割とちゃんと書いたメールの返事を受け取って、その内容にがっくりした。そのがっくり具合の中で、あぁ、僕の書く文章っていうのは相手をある答えに先導するためにしか書かれていないんだなってことに改めて気づかされて、更にがっくり。僕の文章はとてもいやらしい。後ろ髪引くような一文をそっと混ぜたり、ほどほどにぼやかしたり、核心に触れる部分には関心のない振りしたり、テンポを意図的に乱して特に見て欲しいところに抑揚をつけたり。だから読み返すと字面はいいんだけど自分の気分が悪い。ポスターを作っているみたい。そしてたちが悪いのは、相手がそれに強く響いてくれないと、ルールを守らないでゲームする奴を見るように非常に腹が立つってとこだ。うわー。できればこのままメールの返事なんか書かずに生きていたいような気がしてきた。投げっぱなしジャーマンな人生でもいいか。いくねぇよな、やっぱ。


10代の真ん中らへんで味覚って大きく変わりませんか? 僕は子供の頃、梅ガムとかグレープジュースとかのすっぱい系のものや、メントスみたいなミントキャンディが好きで、一日に何箱も空けてしまったり、運動した後は炭酸を1リットル平気で飲み干したりしてたのに、今はどれもしたくないなぁと思った。一年に1回でも多いような感じ。逆にゴウヤとか塩辛とかあん肝とかひじきとかね、子供の感覚からすると美味しくもなんとないはずのものが、なんか普通においしいのでは?と思ったり、なんなのかね。味覚を感じるセンサーの数を比べると子供の方が50代ぐらいの人の倍以上数があるって前に聞いた。懐石料理よりカレーライスが美味しいって言う子供の感覚は生物学的には事実かもよ、っていうちょっとにやけた感じのコラムだったんだけど、妙に覚えているなぁ。子供と大人って言うのはイモムシと蝶ぐらい、別の生き物なのかもしんない。どっちが優れているとかではなく。でも未だにビールのうまさはちゃんとわかってなかったりすんだよな、オレ。枝豆は大人子供関係なくおいしいね。


読みたい本がなかったので店頭でいい感じに古くなっているラキノンジャペンなんか買ってみた。元ブランキーベンジー(Vo.G)のインタビューが泣けた。「凄い3人が集まって凄い音楽をやっとるぞって感じなんだけど、ある言い方をすると、俺の全て、俺のエネルギーは出しきれてない、出せれない場所」とブランキー時代のことを総括していて「そんなに行きたいと思わなくなった。ブランキーの世界に。俺はもう自分の音楽を100%出すために生きる。生きるっちゅうかそういう音楽をやっていく」と言っていた。やっぱり僕がラストアルバム「ハーレムジェッツ」に向かうまでの3枚のアルバムに感じていた、3人が3人やりたいことがもうはっきりしていて、例えお互いがお互いを愛し合っていようが別々の道を歩まざるを得ない状況っていうのははっきりと存在していたんだなと、強く再認識した。自分達だけの完全な王国であったはずの「ジェットシティ」という未来の架空都市から、創造主そのものが辛くなっていなくなってしまう悲しさ。自分で作った法律にがんじがらめになるくらいなら、ここで別れて各々の町をつくりなおそうぜって話なんだろうな。「俺は所詮音楽を届けたいだけだから。発信地はとりあえず小さくていい」。そんなものづくりの原点に帰ってきて、ふと顔を上げて辺りを見渡した時の世界の広さっていうのは、格別なもんだろうなって思ったよ。何にもないけど何でもできる大きな荒野。そういうのを手に入れる感じ。


スーパーカーのナカコーのインタビューもよかった。たった2年の間に4枚ものアルバムを発表し、高い評価を得ながらもそのすべての楽曲が、デビュー前の高校生時代に書いた「遠い過去の作品群」でしかないことに、彼は感覚のずれを感じていた。「時間さえあればいくらでも曲が浮かんできた時期だった」と言い、「デビュー以来一曲も曲を書いていない、書く気にならない」が口癖だった。過去のストックを焼き直す「思い出アルバム作り」のような作業は早く終わらせて「今」や「次」へ行きたいんだっていう焦りと、他のメンバーや聞き手が必ずしもそれを求めている訳ではないっていう軋轢の中で、ちょっとだけ周りの意見を振り切った感じに届けられた新曲が、発売前から最高傑作の呼び声の高い「WHITE SURF style.5」なのだった。アルバム制作の中で「今一番足りないのは光のようなもの」として今年の夏に産み落とされた最後の曲(つまり最新作!)だと言う。たった43秒の視聴盤を聴いても、そこには今までのスーパーカーのすべてのエッセンスと、これから向かうべき方向性を示すベクトルが、ものすごく伸びやかに現れている。それはジャケットデザインにも表されている「光」のような映像でもいいし「未来」でも「自由」という言葉でもいい。退屈を抱えたニュートラルグレイの先に、いつもほんの一瞬だけ見え隠れしていた「それ」がついに手を伸ばせるところまで近づいた。「なんか、まばゆい光っつうか。光はみんなわかりやすいから、パーっとしたものは。今の段階はいわゆる光がパーっと見えて‥  なんていうの?  自分の‥  自分の中で光が見えて、その光に向かっている途中ぐらいのアルバムを作りたい。その先の光の中で安定したものは次のアルバムで作りたいので、今回はドヨドヨしたものは脱出だー!って」。


そりゃ、ついていくだろ!って思うわけよ。例え、命綱を切り離したってさ。