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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

ノイズが結ぶ像


買ったばっかのMDレコーダーで録音したスーパーカーのライブを聴き直しながら、相変わらず涙が止まらない毎日です。1500円ぐらいの安っちいピンマイクで隠し録りしたんだけど、その音の割れ具合がいかにもライブって感じで、愛おしい。綺麗な音よりずっと澄んで生き生きと聴こえる。録音されていない部分の音や、そこにある熱く湿った空気や、勢い余った気持ちや汗の滴なんかが、文章で言うところの「行間」から溢れてくる。考えてみれば、僕はぶれた写真に映った笑顔や、構図が切れ気味の歩いている写真、ざらざらなホームビデオ画像にうつった太陽、電話のそばにある誰かの走り書きなんかも大好きなのだった。


その昔、ローリングストーンズがなんとかって曲を作るときに、ギターの音を暴力的に録音したくて、いろんなミキシングを試した結果、一回ラジカセで再生した音を、もう一回録り直すっていう手法で、想像通りの音を実現したんだそうな。


ハードディスクレコーディングやデスクトップパブリッシングが特に珍しくもない現在、音楽にしろ、印刷にしろ、映像にしろ素材にしたオリジナルと同じく品質で、それっぽいコラージュ作品は学生だって作れちゃうわけだけれども、テイトーワがディーライトで有名になった頃(91年頃?)に、ハイファイであることより、どうローファイであるか、その設定に苦労するみたいなことを言ってた、たしか。豪華、精緻、複雑だったりすることは、もう全然簡単だから、ちゃんとテーマを持って演出することや、時にはその演出のために全体をトーンダウンすることも必要で、昔だったらハイファイにすることが技術であり、専門家的な売りだったんだけど、今ではかっこよくローダウンする事が大事なノウハウになっているって話だったかなぁ、あんま覚えてないや。


プレイステーション以降のゲームをしているときにも似たようなことを考える。写実的な画面づくりを売りにしているようなゲームを見ると、最初は「すっげー! コンピューターってかっちょええー」と思うんだけど、数分後には目が飽きてしまう。画面の中で、主役のキャラクターも、遠くの建物の瓦も、足下で風に揺れる草も、全部が同じ密度でぎっしり描かれているせいだからだと思う。


「ノイズ」という言葉がある。目の前にかわいい女の子が(男の子でもいいですけど)歩いていたとして、そこに目がいったら、女の子以外の人物や、建物や、目の前を横切る車の往来やなんかは全部ノイズ。見えてるのにその時々のココロの優先順位が低いために「ないこと」にされるもの。つまんない思い出なんかもこれに入るし、昨日の日記に書くときに削られる部分はまずノイズ。


でも僕が最初に魅力的だと言った「安いマイクの割れた音」「ぶれた写真」「ビデオ画像」なんかには、その本来優先されるべきモノがちゃんと像を結ばないし、むしろノイズを生み出したり増長する為にあるようなもんだ。


それらが魅力的なのは自分なりの完成形を想像や創造力で自由に補てんできる点だ。あるいはそのものだけで自己完結せずにそれを取り巻く様々な関係性(シチュエーションでもいい)を喚起せずにはいられないからだとも思う。考えてみれば、優れたクリエイトって大抵そんなふうにできてるよな、とも思ったのでした。