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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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根拠のない高揚感


急に寒くなったりして、朝の布団のぬくもりが恋しい毎日です。風邪などひいてないですか。ビックリマン2000チョコのキラキラステッカーは何枚集まりましたか?(答え:3枚)


暑がり、寒がりで言うとかなりの割合で暑がりな僕は、寒いの大好きです。だってマフラーとか手袋とかブーツとか重ね着とかさ、ステキじゃんか。夏のTシャツも好きだけども、東京の夏はムシムシベタベタして息苦しいしどうもあかんわ。冬生まれで、更にカナヅチってのも夏嫌いに拍車を掛けてるね。海は夏より冬に行く回数の方がダントツ多いです。僕の冬のイメージは昔から寒い砂浜を白い息を吐きながら、がんがん走っていくイメージ。息が切れるまで走って、馬鹿馬鹿しさに大笑いしたあとにポケットに入れておいた温かい缶コーヒーを半分つ。目線の先にはなんか厳しめに叩きつける波とかあるとなお良しですね。僕の「まるで大事なことを考えてそうな横顔」にぐっと密度が上がってきます。まぁー、寒いからどんなにかっこうつけても、すぐトイレに行きたくなっちゃうんだけどさ。


話は変わって、今日「ぴあ」をぱらぱらめくっていたら、90年代の名盤100選みたいのが載ってて、ふーんとか思ったんだけど、スピッツの「名前をつけてやる」、ブランキージェットシティの「幸せの鐘が鳴り響き、僕はただ悲しい振りをする」とかまでちゃんと入っていて、ちょっとうれしかった。この2枚は無人島に持ってく5枚のアルバムに僕なんか入れちゃってたからね。それだけならまだしも岡村靖幸の「家庭教師」も90年発表ってことでぎりぎり滑り込んでいてショックがでかかった(これもすごい名盤)。それはもとより、そこから宇多田ヒカルスーパーカーまで10年経ってないんだって事実にものすごく時間の密度を感じたよ。コンセプチュアル・アルバムっていう、広告で言うとコピーライター全盛の密室の構成主義な感じの時代から、ビジュアルはいたずら書きなんだけど、広告の紙質だけでぞぞぞって感じさせちゃうような、わりと無色というか、無個性を装った強い個性、あるいは根を持たない無自覚な才能が自然にスターダムとして受け入れられる時代になったなぁ、とかね。それに10年掛からなかったことが画期的な時代だったと思った。


2000年ぐらいからは明るい未来への倦怠も冷めて「根拠のない高揚感」がキーワードとして来るって、5年ぐらい前から思ってますが、漠然としてながらもちゃんとピントが合ってる気がします。肩に力を入れずにバーって強い光が射す感じ? 叫び声や筋肉のいらない「北斗の拳」みたいな強さ? それに対して本人が無自覚な感じが下の世代からは強く感じるなぁ。意志表示をしていくことの使命感とか同世代論的な余計な気負いが全然ない。でもものすごい密度のアウトプットが立て続けにできちゃう。それがかっこいい。


想像力を簡単にアウトプットするためのツールが増えていくたびに、センスは努力してなんとかなるような浅いものじゃないってことが、どんどんはっきりしてきて、失望しちゃう人も増えるかもしんないな。でもそんなときにあせって追いつきたくてツールの勉強に時間を費やすのだけはやめたい。ツールは実現したいイメージについてくるものだからね。それに彼らと同じ視線で何かを受け止めていくのは現実問題不可能だし、またその感覚を「理解」しようとした時点で、それは「感じた」ことにはほど遠くなってしまう。もっと最悪なのはわかった振りをして、若い者に全部任せてみましょうなんていうおじさんとかね。立場を利用した責任逃れだろ、それは。


生きた時間が違う人と感覚を曲げたり、すりあわせいてくのは不可能だし、世代間の溝は今も昔もあったんだって考えると、新しい古いはさておき、ちゃんと意見をぶつけ合っていくって言うのが一番建設的な道だと気がする。経験者だからって自分の知っている上手なまとめ方だけで、新しいモノ(物・者)を無駄にスポイルして行っちゃいかんね。埋められない溝があることを前提に、ちゃんとお互いを説明し合うことが共同作業という現場ではいいモノづくりの第一歩だと思います。それってまさに恋愛といっしょだ。僕はそう思う。