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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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癒し


テレビのこととかね、口にするだけで同じ土俵に立ってしまいそうでやなんですけど、アレよ。もう言わずにいられないよ。「癒し」ブームってやつよ。


坂本龍一」のシングルCDがインストゥルメンタルなのにかなり長い間チャートの一位だったり、武者小路実篤もびっくりな路上詩人が街に溢れていたり、ぐったりしているキャラクター「たれぱんだ」がもてはやされたり、15分や30分で手早く疲れをとってくれる「クイックマッサージ」がオフィス街の雑居ビルの隙間にどんどん増えていったり、まぁそんなこんな。


でも、そういう流れはもう80年代の終わり頃からずーっとあって、ここじゃないどこか(あっち側)を感じるための「アンビエント・ミュージック」「トランス・ミュージック」、90年代始めの「水」や「ニアウォーター」ブーム、海のヒューマンであり人間よりかずっと高等かも知れないイルカブーム、チベット死者の書や布施英人の死体論なんかで問い直された「死生観」、新世紀エヴァンゲリオンもののけ姫では「生きることの価値」が社会的な世界に生きる主人公としてではなく、自分を取り巻く世界との関わり方として描かれていたことがまだ記憶に新しい。僕的にはそういう文化の当たり前すぎる延長(それもかなり退屈な)として、現在の「癒し」ブームが来ていると思っていて、それ自体には別に感想も不満もないのですが、要はアレよ。癒しって簡単に言うけど、ちゃんと意味わかってんのかよってことよ。


つーか僕も知らないので、今調べてみたよ。


癒す:病気や傷をなおす。飢えや心の悩みなどを解消する。地蔵十輪経元慶点「疾を癒イヤスこと良医の如し」。「渇を―・す」「時が悲しみを―・す」(広辞苑


‥やばい。想像とは違った定義が出てきたぞ。えーと、なんかね。僕は簡単に「癒しされたい」とかって言う響きが嫌いなのね。筑紫哲也が「癒し癒しって言うけど、疲労回復とどう違うのか」と言っていて、それにはすごい共感した。「やさしくしてー」とか「疲れたー」って言葉で簡単に置き換えられちゃうようなことをわめき散らすのは、なんか聞き分けのないコドモとかわんないってことよ。それを言うだけならともかく「癒して」って言葉の中に脅迫的に無自覚な無責任さを突きつける響きを感じる。


先に挙げた80年代後半から90年代前半の流れの中にはそういう無責任さよりも、自分を取り巻く世界をもっとちゃんと受け入れていこう、誰にでも平等に訪れるイベントである生や死についてもう少し真剣に(自分なりに)考えてみよう、っていう自覚的自発的な響きがあったよ。何千年もの間、脈々と培われてきた観念世界や何十億年もの歴史を刻んだ自分の体の仕組み、それを司るルーツを、例え断片的につまみ食いするだけだとしても、自分でもっかい計り直すって気持ちがあっていいと思った。思ってみれば、そういうクリエイティヴでどこにも根っこを持たない新しい個人主義が少しずつ根付いていく過程そのものだったんだろう。岡崎京子の「リバーズエッジ」なんかはその金字塔のひとつだと思う。


でも結果的に末端に届くのは上っ面な「癒し」イコール「疲れている自分に優しくして」っていう響きだけ。サラリーマンやおばさんのルーチンワークによる慢性的な疲れやその辺の若者達が暇を持て余して「だりー」って言うみたいにしか聞こえない。路上詩人に色紙をもらって目の前に光が射すのもいいけど、もう少し自分で考えたり自分の感覚を信じたりできないもんですか?


そういうのは個人主義(意志の尊重)じゃなくて単なるわがままと区別が付かない。だって意志があらかじめないんだもん。それが悲しくてやりきれない。受動態で一方的に埋まるほど、僕らに空いた大きな穴や痛みや疲れはけして簡単なものじゃない。生まれながらにして与えられた世界はあまりにも精巧に出来過ぎていて、その分虚ろに映るだろう。でも歩き始めないことには何も始まらない。得られない。


余談だけど99年という時間にスーパーカーが生み出すロックがやけにリアルに響くのは、そんな虚ろを暴くだけにとどまらず、そこから歩き始めようとする原点そのものの座標をしっかりと認識している彼らの感覚の鋭さにある。


それでも世界はこれからどんどん受動的なサービスを強い売り物にしていくだろう。何億円も掛けて製作される映画やテレビーゲームソフト、コンパクトにパッケージ化された旅行を始めとするいくつかの体験、仕組みをわからずに使うたくさんのテクノロジー、シアワセのカタチはどんどん区画整理されて、いくつかのパターンの中に人生そのものが落ち着く日が来るかも知れない。そんな中で不平や不満を言わずに、自分の地面を両足で踏みしめるのはおそらくめちゃくちゃ難しい。時には「癒して」の一言だって言いたくなるかも知れない。だけど歩き出す。方向を決めてなくたって、とりあえず自分の五感を信じる。全部受け止める。前より痛くて悲しくてつらいかも知れないけど、自分をカンペキに癒す力はそんな意志の中にある小さな光と、それに共感してくれる数少ない人たちにしか存在しない。そこで得られるものはどこにもないオリジナルなものだし、あなたに100%カスタマイズされたばっちりな「癒し」のはず。僕はそう思うのです。