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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

写真


写真を全然撮らなくなった。一眼もデジカメもニコンの結構いいやつ持ってんのになぁ。実はカメラ自体はけっこうよく持ち歩いている。そして感覚を鋭敏にして「すきあらば激写!」って思ってんだけど、実際は鞄の中から出ても来ない。


高校生、大学生の頃はフィルムが何本あっても足らなかった。それこそ今の女子高生並みに様々な日常をファインダーで切り取っていた。モノクローム・フィルムなんか手っ取り早く雰囲気が出るんでウキウキした。そうして外化した「自分だけの瞬間」や「視点そのもの」を客観視して、即席な絵画や物語としてなんかわかったような気になっていた。意味のない、断片から組み上げる逆説的な日常。状況証拠ばかりのパーソナリティー。なんか今思えばテーマのないホームページみたいだったかも。


だけど、それももうやらない。特にスナップ写真を撮らない。なんか近い未来に「今」という過去を思い出すために小奇麗なしおりをせっせと作っているみたいでやるせない。例えば大好きな作家が新しい本を出したら、静かで落ち着ける場所でゆっくりとその物語を噛み締めたいじゃない? 間違っても満員電車の中で蛍光ペンや付箋を片手に「お、ここ使える!」とかって読み方はしたくない。素材を切り刻んだり再編成するのは自分の中で消化、熟成してからっていう意識もある。それよりもまず五感で楽しみたい。嫌な気持ちと言うのはその作業によって二度と来ない「今」が損なわれてしまう気がするからだと思う。僕らは「今」以外の時間を生きる事はできないし、大事にできるのは「今」以外ないからだと思う。


だから、最近の僕や僕の友達が写っている写真っていうのは、その時一緒にいた人が気まぐれで撮ってくれたものだ。笑っているもの、つまらなそうなもの、眠そうなものさまざま。そこに写っているものを眺めていると途端にその日の事が溢れ出してくる。テーブルの上の紅茶の味や、雨の匂い、あるいは伝えきれなかった想いなんかも。


写真にはそういった気持ちの部分までは写りにくい。「写りにくい」と言うのは関係者以外に直感的に伝わりにくいってこと。しかし印画紙に焼き付いたたくさんの光は「事実」を記録しているので、時には気持ちとすり代わってしまうこともある。それもなんかちょっと悲しい。


だから小奇麗なしおりを作る暇があったら、まず目の前の現実を印画紙やファインダーじゃなく、ココロやカラダに直に焼き付けたい。額縁に収めた程よい客観視じゃなくて、少々の勘違いでも思い切り主観でいいと思うのね。それをちゃんと受け止めて、溢れ返ったそれらが何かに向かって収束を始めたときに、僕はまたカメラを手に取るんだろうなぁと思った。