lovefool

たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) * * * * * * * * *

さよなら、イエティ。


 病院から出ると太陽はいつも私を慰めてくれる。冷たいガラスの自動ドアの向こうは現実世界の色を借りた黄泉の国のようで、ただでさえ好きでない蛍光灯の緑色や、月の表面みたいな色のぺとぺとしたリノリウムの床が、私の精力を爪先から砂時計のように吸い取っていってしまうのを感じる。


 チタンの眼鏡をかけた白衣の死神は言った。
「‥残念なことです。我々としても手は尽くしたのですが‥」


 うやうやしくレントゲンの写真を手に取り、慈悲深い目で私や泣き崩れる妻を見た。そんなことを聞きにわざわざ私は重要な会議をほっぽり投げてこの薄暗い世界にやってきたかと思うと情けなかった。悪い夢ならいい加減にして欲しかった。もっとはっきりすっきりさせて欲しい。普通なら娘は来年小学校に入るだろうし、老夫婦の間の長くできなかったたったひとりの愛娘として、わがままいっぱいに嫁入りまで育ててやるはずだった。あるのは中途半端な金と時間ばかりで、夫婦の間は虚ろだった。娘が生まれたことでそれがどれだけ救われてきたかは今更言うまでもなかった。


「どうにかならないんですか」
 返事はなかった。目を合わせようとしない。
「金ならいくらでも払えるんだ」
 医者の沈黙と妻の嗚咽が白い部屋を重く満たしていった。私は現実を恨めしく思った。




 幸せを司る魔物がいると聞いて、酔っていた私は高らかに笑った。
「そんな、若い娘を相手にしているんじゃないんだから。男同士でそんなロマンチックな話しをしてどうする」
 だけど若手の彼の顔は私の言葉に少しも崩れておらず、むしろ真剣さが増すのだった。
「ある朝、そいつが家の前にいたんですよ」
 私は彼の前のめりな真剣さに少し驚きながらも、それに気づかない振りをしておしぼりで顔を拭いた。
「聞いてくださいよ。ホントにいたんですって!」
「聞いてるさ。魔物だろ?」
「ちゃんとこっちを見て話して下さいよ」
「悪い悪い。でも顔ぐらい拭いたっていいだろ?」
 彼は不満そうだった。目を強く見開いて、私が彼の方をちゃんと向き合うまでそわそわしていた。やれやれ、どうしたってんだ。金曜日の夜だぞ? 楽しくやろうよ。変な薬とかやってんじゃないだろうな。
「で? 魔物がどうしたって?」
 仕方なく私は向き合った。彼とは二つのプロジェクトを共にした付き合いだ。1日という時間で考えたら家族以上に一緒にいる時間が多い。だから彼が嘘を言ったり、何かの例え話をしているわけではないことはわかった。ただそれをまるまる信じられたかと言うと、それもまたむずかしい話だ。私は一通り最後まで彼の話を聞き、程良く回った酔いの中で別れた。大通りでタクシーを拾って、運転手とそいつを肴に馬鹿笑いした。「幸せを司る魔物なんてさ、くだらないCMキャラクターでもあるまいし、な」


 ひとつまえの十字路で降りて、ほろ酔いの足どりでまだ彼を笑っていた。「まったく、馬鹿言うなよ、いい年したオトナをからかうなってんだ」。不意に目の前がさえぎられた気がして、咄嗟に身を固くした。案の定、私は強く誰かにぶつかった。私は弾んで転びそうになったが、長く大きな腕にすっぽりと支えられた。温かく大きなふさふさした誰かにだ。


「す、すみません。ちょっと飲みすぎちゃったかな」


 そう言ってその手を取り、苦笑いした私が見上げて息が止まりそうになった。というより呼吸を忘れてしまった。そこにいたのは雪山のように大きな白い生き物だった。熊のように大きくて、肩幅と腕が異常に大きく、ビーチボール大に膨らんだ肩の間におまけのような頭があるようなそんな生き物。人間の頭なんか軽く一口でかみ砕けるような大きな口とギザギザとした三角の歯。小さくて左右に離れたターコイズの瞳。私は声も出ず、せっかく抱きとめてもらったっていうのにわざわざもう一度転んだ。それからグワングワンする頭で、ただ呆然とその姿を見上げた。


「むーむー」
「‥あ、あうあうあ」
 私はそいつを指差したまま言葉にならない声を発した。白銀灯の中で見るそいつはあまりに得体が知れず、大きすぎた。
「むーむー」
 腰が抜けたまま後ずさりする私にそいつは言った。
「むーむー」
「‥むうむう?」


 私はあっけにとられながら、オウム返しになった。モップで作ったおばけみたいなやつだ。ふうふうと白く湯気の立つ息を吐き、動物園のような獣臭い匂いまでして、つくりもんだとすれば、大変な凝りようだ。だらりと音が聞こえるみたいによだれが垂れてる。そいつが気にしているのは私の手に吊るされた寿司折だった。腹が減っているのか? 私は混乱する自分を抑えながら、この弁当を与えれば、その隙に安全なところへ避難できるかも知れないと考えた。


 弁当を開ける。
「‥ほ、ほら、おいしいぞ。お前に全部やるから、ゆっくりしてけ、な」
 思った通り、そいつは大人しく私の動きを目で追っている。腰が抜けているので、最大限手を伸ばしてやさしく弁当を放る。巨大な体がぐらりと動いて、弁当に向かってゆく。私は慌てて奴とは逆の方向へ逃げ出そうとする。足腰が全く立たないので、両腕で力いっぱい下半身を引きずる。匍匐前進だ。慣れない動きのあまりの遅さに涙が溢れてくる。やばい、喰われる。ひいひい言いながら、涙とか鼻水とかよだれでぐしゃぐしゃになる。こんなにつらい目に遭ったのは久しぶりだ。こんなことなら昨日のうちに香住さんに会っておくんだった。給料日前だったから昨日ならいつもよりやさしくしてくれたかもしれない。目の前に差し出された白いハンカチを手に取る。ありがたい。かっこわるいついでに思い切り鼻をかむ。鼻水のはみ出したハンカチをかまわず「ありがとう」と返そうとすると、返事はうなり声だった。顔を上げる。そこにはさっきの魔物がいた。ちょっぴり首を傾げて私の様子を伺っていた。私は古いテレビが消えるみたいにぷつりと気を失った。




 目が覚めると普通の朝だった。私はなんだ夢かと胸を撫で下ろした。当たり前だ。そんな現実があってたまるか。窓からはやさしい日曜日の日差しが、台所から子供たちの声と朝らしい卵やトーストの匂いがして、まるで平和な数年前のようだ。やっぱり家族はいいなぁと思った。今日あたりどこかに連れ出して遊んでやるのも悪くない。ポストから朝刊を取り、食卓へ向かう。


「おはよう、パパ」
 娘がそう言いながらパジャマ姿の私の足に抱きついてきた。甘いミルクのような匂いが鼻先を撫でる。私はうれしく思いながら、元気な娘の姿を見て、なんだこれはまだ夢の中じゃないかと思った。私の娘は昨日も今日も病院でたくさんの管につながれて、呼吸さえ機械で行わなければならないはずだ。くそ。夢なら夢で構うもんか。覚めなければいいんだ。現実の娘は白いシーツの上でしわくちゃになって、日に日に体は小さくなって‥
「ははは、おはよう」
 そう言って抱きかかえてやると、テーブルに見知らぬ影があった。私は持っていた新聞を落としてしまった。
「むーむー」
 大きな体を持て余すように私の席に座っている。
「あら、あなた、おはよう。ほら、はい、むーむー、ちょっと手をどけてね」
 妻や娘は昨日までもそうだったみたいに、食卓にそいつの分の皿も並べている。
「な、なんでこんなに寒くしているんだ?」
 私はエアコンが最低の温度に設定されているのに驚き、ブルルっと震えた。送風口の真下に平然とした顔で座っているそいつをいぶかしげににらんだ。よく見ると氷を浸したたらいに両足を突っ込んでいて、扇風機まで2台も回している。雪男? そう思うと、確かに息まで白いような気がする。
「ねぇ、パパ、今日遊んでくれる?」
 愛らしく娘は笑う。当たり前のようにボア付きの赤いジャンバーを着込んでいる。生え替わる前歯のぽっかり空いた間抜けな空間。
「‥え、うん。そうだな、ど、どこに出かけようか」
 寒さにかじかみながら、そいつから目が離せずに上の空に答えた。
「むーむー!」
「はいはい、慌てないの。今できますからね」
 毛糸の帽子にマフラーの妻がうれしそうにそんな風に言ってる。ハムエッグのあげる白い湯気。みずみずしいサラダ。でもちょっと寒すぎる。おかしな夢だ。
「パパ」
 私は朝食の皿に夢中なそいつを呆然と見る。
「ねぇ、パパ、聞いてる? 私、動物園がいい」
「‥ん? あ、ああ」
「ね。動物園、キリンさん見たいの」
「‥キリン? あ、あぁ、わかった」
 娘が元気でいることさえおかしいのに、昨日の夜道から私は酔いが冷めていないみたいだ。でも頭痛なんか少しもない。頭の中はどこまでもクリアで、冷たい水で顔なんか洗うまでもない。この寒さで酔い続けろという方が不可能だろう。鏡の中の自分を見る。頬をつねった。かじかんでいるから余計に痛い。でもこの痛みが夢でないなんて一体誰が証明できる?


 OKと私は思った。これは現実だ。それでいいじゃないか。たったひとり昨日より獣の家族が増えて、部屋が寒いのを我慢するくらいですべてが片づくなら、この方がずっとずっとずっとずっと幸せだ。ずっとずっと。




 後ろの座席で娘と妻とそいつはNHKの子供向けのテープに合わせて歌っている。ドライブスルーでマクドナルドをたくさん買い込んで、マックフライポテトにケチャップをつけながらドライブ。笑い声、たどたどしい歌、子供の匂い、幸せの指針。娘はそのでかい獣の膝の上に乗って、外から見ればそれは気の利いた子供用の座席にも見えた。
「むー!むー!」
「あら、まだ足らなかったかしら、困ったわね」
 妻は12個目のフィレ・オ・フィッシュを剥いてやりながら、次のマクドナルドが見えてこないか窓の外を探している。娘は歌い疲れ、満腹になったせいか、すうすう寝息を立ててそいつの胸の上に抱かれている。幸せそうな寝顔だ。思えばいつも帰りが遅いせいですれ違いばかりだった。私はバックミラー越しに優しい顔になっている自分に気がついた。
「むー!むー!」
「しー! な? ちょっとだけ我慢してくれ」
 冷房を少しずつ弱めていたせいもあって、そいつはかなり機嫌が悪くなっていた。娘を起こしてしまわぬように新しい食べ物を用意する必要があった。慌てて車を停め、国道沿いのスーパーに駆け込む。魚肉ソーセージを棚にあるだけ買ってきた。
「むぅー」
 そいつはちょっとだけ不満そうだったけど、魚から作られたものだったら、どうやら何でもいいみたいだった。娘は音と振動でちょっとだけ薄目を開けて、うまそうにソーセージを頬張るそいつをうれしそうに見上げた。




「うわーい!」
 動物園に着くと娘は大はしゃぎだった。肩車されて、娘の指さす方にむーむーは歩いていった。
「きりんさん、きりんさん、パパママ見てー!」
 娘が大きく手を振り、元気な声が弾ける。私はそれに答えて手を振る。あまりのまぶしさに目を細めずにはいられない。ぼんやりとしたシアワセの中で、つい口を付くその言葉。
「なぁ」
「はい?」
「‥夢、なんかじゃないよな」
 言ってからじんわりと自分の言った言葉が意味をなし、重くのしかかってくるのがわかった。いくら待っていても妻からの返事はなかった。小声で言ったせいだろうか。
「聞こえたか?」
 そう言うと妻は黙って首を横に振った。やはり聞こえていたのだ。何かを振り払うように、悲しそうな仕草だった。それを見ると何も言い返すことができなかった。私にはそれが「もちろん、夢なんかじゃないわ」という意味ではなく「よしましょう、その話しは」という風に見えたからだ。その先を追求する勇気が萎えてしまった。




「あれが象だ。大きいな。一日にお前の体重より多くの食事をする」
「あれは猿だ。大きくて風格のあるのがボス猿」
ラクダ、砂漠を長く旅するのに背中に水が入っている」
「ライオンだ。狩りをするのはお母さんの方だ。お父さんは家で威張っている」
「バクだ。夢を食べると言われている」
「夢?」
「そう、夢」
「私の夢も食べてくれるかな」
「夢? どんな夢?」
「寂しい、夢」
「寂しい夢?」
「うん、いつかみんながね、いなくなっちゃう夢」
 私は笑って見せた。
「だいじょうぶ。誰もいなくなったりしない。もし何かの間違いでみんないなくなってしまうときが来たとしても、パパとママは必ずそばにいるよ。離れない」
 娘の前にかがみ込み、肩に両手を回してそう強く言った。だからお前がおびえる事なんて何一つないよ。
「そうだよね」
 それを聞いても娘の顔は晴れなかった。
「そうさ」と私は言った。
「何があったってだいじょうぶだよ」
 さらに強い声でそう断定する。
 娘はうつむいてしまい、小声でうんとだけ言った。




 電撃が走る。真っ暗な中に流れ落ちる滝。水は彼方高くから落ち、どこまでも落ちていくので音がない。その中空にゆっくりと降りてくるものがある。よく目を凝らすとそれは病院のベッドであり、たくさんの機械につながれた娘が、額に汗を浮かべている。金属を切り裂くような音と赤ん坊が泣き叫ぶような声が果てしなく思える空間の中を反響している。私は駆け寄り、そのベッドの着地を受け止めようとする。しかしすり抜ける。つかめない。自由落下速度でベッドは私の体をかすめて落ちる。どんどん小さくなって行く。泣き叫ぶ声、声、声。耳鳴り。
「お前をひとりになんかさせないよ」
 力が抜けて跪く。
「させるもんか」
 涙がこぼれて膝の上に落ちる。それ以外の涙はやはり虚空の彼方へ落ちてゆく。




「ね、パパ? パパ?」
 ふと我に返ると娘がのぞき込んでいる。
「サクランボもらってもいい?」
 私の前のメロンソーダに手を伸ばす。
「あ、いいよ、どれ、よし、取ってやろう」
 長いスプーンでグラスの底のサクランボをすくう。がらんと広いパステル調のレストラン。カラフルな座席には私と娘しかいない。妻やあいつはどこへ行った? 白っぽくて広い広いレストランだった。
「ねぇ、まだ? パパ」
 氷が多いせいか、うまくすくえない。
「ん、元気がいいな、このサクランボは」
 そんな風に笑って見せるけど、ちょっと焦る。手がかじかんでいるせいだろうか。 
「ほら、見ろ、もう少しだ」
「ねー、取れた?」
「うん、もうすぐだよ、すぐ取れるから」
 かちゃかちゃ音がするばかりで、スプーンは同じところをぐるぐる回っている。
「早く、ねぇ急いで」
 焦れば焦るほど、サクランボはすべって転がる。何かのリハビリをさせられているような気になってくる。視界が狭く、汗がにじみ、慎重になろうとすればするほど手元が震えて、定まらない。一体何を間違った? なんでこんな事になる?
「いいよ、パパ。ありがとう」
 椅子を立った音がして、はっとして顔を上げる。娘がいたはずの席に誰もいない。
「パパ、わたしもう行くね」
 私は立ち上がった。行く? 行くってどこに? 妻は? あいつはどうした? いつからここにいないんだ?
「さよなら、パパ」
 娘の体は透き通ってゆく。霞のように淡く、はっきりとした形を失い、どんどんと存在をあやふやなものにしていく。私はそれをどうしようもなく見守ることしかできない。
「待て、待ってくれ」
 言葉はうわずり、情けない声になる。
「どうして‥」
 私は霧のようなその気体を抱きしめて、腕から虚空へ散ってしまう温度を感じる。私は力なく膝をついた。音もなくぼろぼろと涙がこぼれてきた。夢の中とは違って、そこにはぺとぺとした古い床があり、涙は熱く、私は私の体重と体温を地面を感じていた。ここは現実で、私は、確かに今ここに存在しているんだ。そう思った。
「むー、むー」
 窓の外を見るとあいつがいて、私に手を振っていた。
「‥行くのか」
 私は私を混乱させていた獣がもう2度と自分の前には現れないだろうと感じた。彼の腕には光の繭のようなものが抱かれ、それがもう命そのものへと還元しつつある娘の姿だと言うことに不思議と何の疑いも持たなかった。
「ありがとう」
 私は立ち上がり、ガラス板一枚を隔てた外の世界にそう告げた。
「ありがとう、ありがとう」
 短い奇跡を呼んでくれたすばらしい獣。私は言葉を覚えたばかりの子供みたいに、何度も何度も繰り返した。獣は輝き始め、光の繭そのもののようになり、まばゆく辺りのすべてを照らし無色の白に返すと、窓の外には深い森だけが残った。音がない、人のいないレストランで、私はカラフルなテーブルに囲まれて、ひとりだった。




 娘が病院で息を引き取ったのはその夜のことだった。静かに静かに、砂が落ちてなくなるようにその小さな命は消えていった。偶然か、都合のいい思い込みだ言うかもしれないが、娘はうれしそうな顔のまま、ベッドで静かに冷たくなっていった。私は妻と顔を見合わせ、手を取り、ただうなずいて何も言葉を交わさなかった。




 半年も経っただろうか、以前、私に「幸せを司る魔物」の話をしてくれた部下と飲む機会があった。
「そうなんだよ。あのとき君が言っていた魔物に、あのあと私は会ったんだ」
 彼は飲みすぎていたせいか、あるいは忘れてしまっているのか、笑って相手にしてくれなかった。
「若い者に話しなんか合わせなくても大丈夫です、部長! 僕はそんな部長にずっと付いていきますから」
 そんな風に下品に笑って私の肩を叩いた。まぁいい。私はあの獣に会って小さく素敵な奇跡を授かった。それを信じることは誰のためでもなかった。溢れる感謝を誰かに受け止めてもらいたかっただけだった。想いは胸に留めよう。




 やがて私たちは二人目の子供を設けることだろう。あの光の繭が月のない夜にそっと帰ってくるのを感じるだろう。宿った光は必ず受け止める。10ヶ月を距てて、生まれてくるその子を見て、私たちはきっとお帰りと言うのだろう。そう思った。