女に手をあげたのはそのときが初めてだった。
「何があってもそんなことはしちゃいけないのよ、あんたは最低だわ」
と自分の心を代弁するみたいにそんな返事が返ってきた。でも僕は謝らなかった。何だって浮気した恋人に、しかもそれを正当化しようとしている人に謝らなくちゃいけないってんだ。
表は木枯らしで、歩道を黄色いプラタナスの葉が埋めていた。風に揺れてかさかさと悲しげな音を立てる。ひからびた心を踏み潰す音にも聞こえる。やれやれ、もうすぐ二人の記念日だってのに、と僕の気持ちは重かった。
家に帰り、ポストを開けた。請求書と一枚のチラシ以外入っていなかった。僕はエレベーターに乗りながら、何の気なしにそのチラシを眺めた。「出張コンパニオン」。僕はアダルトビデオのジャケットを切り張りして作ったようなそのチラシを一瞥して、5階の僕の部屋の前につくと、丸めてそれを1階の広場に向けて放り投げた。風が強かったせいもある。丸めたチラシはビル風に持ち上げられ、僕の手に帰ってきた。意外な挙動にちょっと笑って、今度は戻ってこないように遠くへ投げた。そして鍵を差し込んだままのドアを開けた。その瞬間ものすごい突風が僕の背中を襲った。爆発したような音を立ててドアが閉まり、部屋全体がびりびりと揺れた。食器棚の中の皿まで揺れた。僕は思わず声を上げて玄関に倒れ込んだ。転ぶのは本当に久しぶりだったが、それよりもまず背中が気になった。何かものすごく重いものが乗っていて、身動きがとれないのだ。首をひねって後ろを見るとそれは同い年くらいの女の子だった。
「いたたたた‥」
水色で細い肩紐のノースリーブのカットソーに、白いホットパンツ。どこをどう間違ってもそこから出た素足や腕は、11月の寒空を歩く姿じゃなかった。
「ど、どいてくれよ」
「ごめんなさい」
狭い玄関で二人は並んだ。
「‥ふう、すごい風」
ぶつけたのか肘をこすりながら、女の子は僕の玄関をきょろきょろと見回した。
「あなたも大丈夫? けがしなかった?」
そう言って立ち上がり、なぜか外へではなく僕の部屋へと上がってゆく。
「え? ちょ、ちょっと!」
僕もあわてて立ち上がり、後を追う。
「何だよ、何勝手にひとんちに上がってんだよ」
「汚い部屋ね、あなた彼女いる?」
質問には答えずに女の子は部屋の真ん中で腕組みをしている。品定めをするかのように。とても線が細くて、柔らかな曲線を持っていた。薄く石鹸だか香水の匂いがした。アップにした髪の首筋あたりを見ていると、軽いめまいがして空間がねじ曲がっていくような気がした。僕は自分を保つためにその後ろ姿をにらみつけたが、意識の両足が床からゆっくりはっきりと離れていくのがわかった。
「ま、私が来たからにはそんなの関係なくなっちゃうけどね」
そう言ってくるりと振り返ると僕に向かってきた。え?と思う間もなく、彼女は両手を広げ、白い指先が僕の顔に迫ってきた。僕は目を丸くしたまま、がっちり顔をホールドされ、親指で瞼をふさがれると言葉を失った。何も言えなくなった。ふわりといい匂いがして、一瞬長いまつげが見えて、口の中に温かい舌が滑り込んできた。僕は宇宙人に捕らわれたみたいに身動きがとれなかった。体の奥底にその舌先で触れられている気がした。溢れてきた涙が頬を伝う。彼女はその涙にも舌を這わせた。僕はふるえた。なぜか、なつかしくて少しうれしかった。
月の光と太陽の光の中で、僕らは何度もぶつかっては混ざり合った。2日目の昼に電話が鳴った。電話を取らずに動き続けた。2回目に鳴ったとき、彼女はソファに手を突き僕に腰を突き出しながら、両手で電話機をつかんで壁に投げつけた。電話は小動物のように死んで泣かなくなった。言葉は要らなかった。誰にも会いたくないし、話したいこともなかった。
ガラスを濡らす夜の空気の中で、壁にもたれて点けっぱなしになっているテレビを眺めた。あれから何日経っただろう。僕は冷蔵庫から牛乳を出して飲んだ。彼女がそれを見上げて「欲しい」という仕草で両手を伸ばした。僕がグラスを向けると彼女は首を振った。目を閉じ唇をすぼめて見せる。僕は伸びた無精ひげをグラスの縁に感じながら、牛乳を口に含んだ。彼女は目を閉じたまま、僕の唇からあふれるミルクを待った。
「何だ、お前。一週間もどこ行ってた」
折れそうに痛む腰を前屈みにしながら学校に行くと、どんと背中を叩かれた。
「どこにも」
「旅行か? 初美ちゃんと」
「だからどこにも行ってないよ。ずっと家にいたんだ」
「病気でもしたのか? そういや、顔色よくないな」
「ちょっと疲れてるだけだよ」
食堂で久しぶりに食事らしい食事をした。動き続けながら宅配ピザを食べたり、風呂で冷たいそばを食べたり、シロップ漬けの桃を口移ししたり、ずっとそんなのばっかりだったからだ。脳味噌が乾いて小さくなって、頭の中でカラカラ音を立てているのがわかる。胡桃みたいに縮まった固まりが耳からぽろりと落ちなきゃいいけど、と僕はまずさの懐かしいカレーを口いっぱいに頬張った。
目の前に誰かが座った音がして、顔を上げると初美だった。僕は驚いたのを悟られないようにもうひとさじカレーを頬張った。
「‥こないだは、ごめんなさい」
伏し目がちに初美はそう言った。
「一週間考えたの。あなたのこと、あの人のこと、あたしのこと、これからのこと」
僕は黙ってそれを聞いた。
「ごめんなさい、あのとき私どうにかしてた。ひっぱたかれて気づいたの。すごく傷ついたけど、でもその分考えた。でね。私にはやっぱりあなたが大事」
それから数分間、初美の独白は続いた。でもそれはどこをどう要約したって「浮気相手に遊ばれていたことに気づいたので、元のさやに収まってもらえませんか」ってことを繰り返しているようにしか聞こえなかった。僕はカレーを食べ終え、ナプキンで口の周りを拭き、生ぬるい水を飲み干した。首の後ろのところをぽりぽりと掻いた。前髪の具合をなおした。その間、初美は雨に濡れた犬のように向いの椅子の上で小さくなっていた。僕は少し考えさせて欲しい、と言い、初美を置いて席を立った。
家に帰るとあいつは僕のTシャツを着て、ソファの上で毛の長い猫のように丸くなっていた。握りしめているテレビのリモコンを取り、テレビを消し、僕はその頬にキスをした。魔法が解けたみたいに彼女は目を覚まし、僕を見るとうれしそうに微笑んだ。僕は胸がちょっと痛んだ。初美とやり直すからもうどこかへ消えてくれないか。とてもそんなことを言えるような笑顔じゃなかった。彼女は姿勢を直し、僕をソファに座らせると、靴下とズボンを脱がして抱きついてきた。まだ上着だって脱いでないのにお構いなしだった。やさしく彼女の舌が這い、腹の上にぬくもりを感じ、僕はあっと言う間に官能の渦の中へ落ちていった。言葉のない世界で僕は小さな光を探した。
「おいおい、どうしたんだよ。またずっと空けたりしてさ」
そう言う友達に僕ははっと顔を上げた。
「今、お前なんて言った?」
夜更かしの疲れが重なりぼーっとしていたのだ。僕はそいつの目をじっと凝らした。
「ずっと空けたりしてって言ったんだ。お前出席日数足りなくても知らないからな?」
「ずっと? 何言ってんだよ、昨日来たばっかじゃないか」
僕はカレーの味を思い出し、そう言った。
「昨日? お前頭おかしくなったのか? お前が来たのは先週の金曜日だぜ?」
「じゃあ、今日は?」
「火曜日じゃないか」
僕は呆然とした。電話機だってつなぎなおしたし、先週みたいに狂ったセックスをしてたわけでもない。窓の外に1回以上の太陽や月を見たなら誰の目にだってわかりそうなものだ。でも、それは事実だった。出席簿を確かめると、僕の項目には先週の金曜を境に前後何日間も×がついていた。
「どうなってんだ」
僕はあわてて走り出した。恋人のいる教室を目指した。いったい何が起こっている? 僕にはわからなかった。
「初美は?」
「あ、初美? ねぇ、今日、初美はぁ?」
どうでも良さそうに初美のクラスメートは言った。
「帰った」
「帰ったって」
「いつ?」
「いつー?」
「さっきー」
「さっきだって」
僕は学バス乗り場に駆けてゆき、閉まりかけてたドアを開けてもらい乗り込んだ。
「す、すみません」
はぁはぁと息を荒げながら、カラカラののどで、初美を探した。
「‥初美? 初美、いる?」
返事はなかったが、代わりに耳慣れた笑い声が聞こえた。人をかき分けて後ろの座席に向かうと、そこにいたのはやはり初美だった。見慣れない男と腕を絡めて楽しそうに笑っていた。ニキビ面で短い髪の毛をワックスでとがらせたいやな感じの男だった。
「初美」
と僕は呼んだ。
「あら」
とあどけない笑顔を浮かべたまま、初美は僕を見上げた。
「話があるんだ」
「話? なんの?」
それを聞いて男は怪訝な顔をした。もちろん僕だっていい気はしなかった。でも仕方ない。
「大事な話だ。ちょっとつきあって欲しいんだ。時間とれるか?」
「何よ、急に。これから出掛けるのよ? やぶからぼうに何を言い出すのよ」
「おい、初美。頼むよ。オレがこう言っているんだぜ?」
「うぬぼれないでよ。何様のつもりよ。自分の都合いいときばかりそんな風に言って。私の気持ちなんか少しも考えてくれないのね」
「初美‥」
僕はとたんに体の力が抜けてゆくのを感じた。バスの中は混雑していて、自分が注目されているのがわかった。ささやき声はざわざわと波のように僕の足下に押し寄せては引いてゆく。あれからどれくらい時間が経ったというのだろう。僕は彼女とどんな時間の中を過ごしていたんだろう。
「何度も電話したし、家にも行ったのよ。なのに何よ。いつも出掛けてていなかったじゃない。私があなたを必要だっていう気持ちには一切答えてくれなかったじゃない。好きって言ってくれなかったじゃない」
初美の目は強くて、僕にはそれが真実なのだとわかった。そんな気持ちを思うと胸が苦しかった。もう二度と元になんか戻れないかも知れない。
「初美‥、オレ、どうしちゃたんだろう」
「何言ってんのよ。ぜんぜんわかんない」
「オレもわからないんだ。食堂で会ったのって昨日じゃなかったか?」
「どうしてそんなことが言えるの? 頭おかしいの? 病院なら私のところじゃなくて駅の向こうに行くべきよ。まったく、どうしたらそんなことがぬけぬけと言えるのよ」
泣きだし体を乗り出そうとする初美を、男は慰めながら抑えていた。僕はホントにどうにかなってしまいそうだった。
家に帰ると、彼女は夕飯をつくっていた。大好きなトマトのやさしい匂いが部屋いっぱいに広がっている。
「ミネストローネつくったの。飲む?」
僕は返事もしないで腐ってやつれた顔のまま、食卓に着いた。さっそく湯気の立ち上る素敵なスープが運ばれてきた。でも僕にはスプーンを取る力もなかった。
「あれ、食べないの?」
僕はどこでもないテーブルの一点を見つめたまま動かなかった。
「熱いもの飲んで一息つきなよ。それとも食べさしてあげよっか?」
頬や首筋にキスをしながら、彼女は笑って言った。
「どうしちゃったの?」
「なぁ‥」
「え?」
「オレここで何してたんだ?」
「何って?」
「何日も何日も抱き合ってたのか? 大した物も食わずに3日も4日も気づかずに」
そう言うと照れたみたいに彼女は笑った。
「そうよ?」
「そうって、どうだよ」
「退屈なときは長いけど、楽しい時間は短いでしょ?」
小学校の先生みたいに彼女は笑う。
「そんなこと聞いてないよ。なんで、何日も経っていることに気づかずにそんな風にしてられたのか、自分でわからないんだ」
「ねぇ、スープ冷えちゃうよ」
「それどころじゃないよ!」
「‥せっかくつくって待ってたのに」
「だいたいお前なんなんだよ」
「なんなんだって?」
「ひとんちに上がり込んで、ずっとずっと抱き合ってばっかりで、なんでそんなこと続けてられるんだよ。一体どっから来たんだ」
「あなたが呼んだんじゃない」
「オレが? 誰を?」
「もういいわよ、邪魔になったんでしょう。私はね、都合のいいようにできてるの。どうせ、想像の中の産物だもの」
僕は目を丸くしてその顔を見上げた。
「帰るわよ、いなくなればせいせいするんでしょ?」
床の上でしわくちゃになったホットパンツとカットソーを着て、彼女はすぐに出ていってしまった。靴を履いたかどうかもわからないスピードだった。彼女が現れたときと同じように乱暴にドアが閉まり、部屋中が揺れて、食器棚の皿が音を立てた。その瞬間、すべての物から色が褪せた。柔らかいベッドも、温かいスープも、昨日までの二人のかけらも、僕までも。からからのかさかさになって、頭の中が真っ白になった。
翌朝、(という言い方が正しいかどうかわからないが)学校に行くと、そこには僕の知っている人たちは一人もいなかった。僕の名前も知っている講師や教授も誰もいなかった。僕はもう驚くこともなかった。悲しむことだってなかった。僕はそんな脳味噌で初美のことを思った。丸めて投げたチラシのことを思った。
やがて、向こうの坂から乳母車を押している若夫婦がやってきた。僕は目を合わせなかった。二人目を身ごもり、おなかを膨らました女の人は初美に違いなかった。僕は自分がここにいる事実を認めたくなかった。笑い声が聞こえた。赤ん坊の泣き声が聞こえた。僕は目を合わせなかった。どこまでも平坦な坂道が僕の前に広がっていた。