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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」14章


 約束の場所にアサコはいなかった。せっかくのローションの匂いも汗と煙草のせいですっかり消えてしまっている。僕は口にガムを放り込んだ。
 夜の熱気と人混みは水族館を思わせる。分厚いガラス越しに見る水槽のように、そこには正しい色と時間が失われている。僕は湖に沈められたスーツケースのような気持ちになる。
 残りの煙草を吸い終えてしまってもアサコは来ない。池袋で待ち合わせしているのだから、この時刻に来ていないということは、おそらく約束の時間にまだ家にいたということだ。僕は何度も腕時計を見た。
 30分が過ぎ、僕は電話ボックスに入った。
「アサコですか?」
 とお母さんは言った。
「ちょっと待ってください‥」
 僕は体を巡っていた力が爪先から染み出してゆくのを感じた。
「‥はい」
 明らかに寝起きの声だ。
「どうしたの?」
「え、どうもしないよ」
「だって来ないから」
「‥あ、ごめん。もうそんな時間?」
「寝てたの?」
「うん」
「調子悪いの?」
「ん、ちょっと疲れてただけ、大丈夫」
「どうする?」
「え?」
「今日」
「あ、そっか」
「会うのなし?」
「ん、行くよ」
「だって寝起きでしょ?」
「急いで支度する」
「じゃ、待ってるよ」
「うん、ごめん。後でね」
 受話器を置いて溜め息をついた。アサコが来たのはそれから一時間近く後のことだ。時計は9時を回っていた。
「おまたせー」
 相変わらずの笑顔だ。僕の顔色をうかがういたずらっ子の目。胸を揺さぶられながらも僕はそれに気付かない振りをする。
「怒ってんの?」
「怒ってないよ」
 と僕は言う。でも口調は完全に駄々っ子だ。
「ごめん、ほんとに調子悪くって」
「疲れるようなことしたの?」
「うん、ちょっと」
「なに?」
「いろいろ」
「看病?」
「ちがう」
 僕のこめかみはきりきりと痛んだ。煙草を吸い過ぎたせいだと自分に言い聞かせる。
「ねぇ、どうする今日」
 何事もなかったみたいにアサコはにこにこしている。耐えられないなと思う。
「わからない」
「何がしたい? おなかは?」
「あんまり」
「じゃあ、映画? それとも散歩しよっか?」
「セックスしたい」
 と僕は言った。途端にアサコは嫌な顔をした。
「‥やだ」
「どうして?」
「だって、今あたし工事中だもん」
「じゃあ、添い寝してくれるだけでもいい。キスをして抱きしめたい」
「どこで?」
「どこだっていいよ」


 ホテルに入ってから何かがおかしいと思った。すべてが少しずつずれていて、何かにそっくり似ているのだ。そこはイクタと入った部屋だった。モンドリアンの絵とひびの入ったテレビのリモコンに見覚えがあった。
 ベッドの上でアサコを抱きしめた。アサコの体はいつもより熱かった。アサコは僕の背をやさしく撫でた。耳の奥に流れる血液の音。
 僕らはまだお互いを取り戻せずにいる。それは手の届く距離にきっとあるはずだ。だけど僕らはそれにちゃんと気付けるだろうか。見つけられずに通り過ぎてしまわないだろうか。
 こうしてアサコのそばにいるのは何ヶ月ぶりだろう。肌や匂いや温度が恋しかった。八王子のマンションで抱き合った日々は、もう思い出せないくらいに遠くにあった。
 丹念に繋ぎ止めた真珠の一つ一つを測り直すような気持ちでキスをした。まぶた、おでこ、鼻の頭、頬、耳、下唇、上唇。しかしどの部分にも僕は正確にくちづけることができなかった。イメージのアサコと本物のアサコは、ぴったりと重なることがなかった。僕には違いがわからないほど精巧でリアルなのに、印刷の版ずれのように何一つ正しい像を結んではいなかった。イクタと混ざってしまっているのだろうか。僕は初めてのキスのようにぎくしゃくした。それはほんのちょっと遠かったり、思いの他近くにあったりした。


 誰かの大げさなよがり声が天井から落ちてきた。驚いて僕らは顔を見合わせた。
「気持ちいい?」
 天井に向かってアサコは首を傾げてみせた。僕はその頬に手を差し延べた。
「ねぇ」
 アサコが僕の手を取った。
「シャワー、浴びてきたい」
 アサコは冷めている。僕だけの熱気が彼女の体にとぐろを巻いている。
「いいでしょ?」
 黙って僕がうなずくと、逃げ出すみたいにアサコはバスルームに駆けていった。衣擦れの音、ガラスの扉を閉める音、シャワーのバルブをひねって温度を調節する音が順序よく聞こえた。僕はガラス戸を打つシャワーの音を聞いた。
 声はまだ続いている。壊れたテレビのような音量だ。僕はその声から抱かれている女の姿を想像した。とっている体位は騎乗位から崩した対面座位だ。細いウエストに乗った腹筋の中心にある窪みが汗で濡れている。彼女は両足を開き陰毛をあらわにしてのけ反り、後ろ手をついて、男の動きに答えようとする。新しい踊りを踊っているみたいにシーツの上で体をくねらせて、目を閉じては声を上げる。闇の中で男の顔はだんだん僕に似てゆき、女はアサコやイクタやイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか)のようになっていった。女の声は頭の中で複雑に重なり響き合った。僕は誰と寝たいんだろう。一番誰が好きなんだろう。わかっているはずでも、どこかつかみ損ねているような気になった。
 目の前に白いバスタオルを巻いたアサコが立っていた。アサコはもう何秒も前からそこにいたような感じだった。
「ごめん、ちょっとウトウトしちゃった」
 僕はまぶたを擦って大袈裟に目をしばしばさせる。彼女の前髪から落ちる雫が、絨毯に黒い染みをつくってゆく。
「終わったみたい」
 子供のようにアサコはそう言った。それが生理の事を言っているのだと理解するのに、ちょっと時間が掛かった。僕は笑ってみせた。アサコは直立したままだ。
「おいで」
 僕は微笑み、ベッドの上から手を差し出した。アサコはおさえていたバスタオルの胸元から手を離して、僕と手を重ねた。僕は彼女をベッドの上に導き、アサコを抱きしめた。それが本物のアサコであることを確かめながら僕はもう少しで涙が出そうになった。キスをする。やさしい、ゆっくりした気持ちのこもったキスを。大丈夫と僕は自分に言い聞かせた。大丈夫きっと伝わるよ。
「電気」
 とアサコが言った。キスをしながら伸ばした指先のパネルのボタンが、弱気な音を立てて部屋を暗くしていった。
 バスタオルを外す。肌の匂いと体の白さが浮かび上がる。ゆっくりと体を寝かせる。首筋は熱く甘い匂いを発している。アサコは僕を見て微笑み、目を閉じる。僕はアサコの全身に舌を這わす。指、手首、耳の下、肩、下腹、内股、くるぶし、足の指‥。アサコは体をくねらせて何かを小さく呟いている。聞き取れない。僕はその顔を眺める。目を閉じ顎を上げて、唇と他の何かを噛みしめている。
 アサコが声を上げる。いつもより反応が大きいように思える。でもそれが僕の気持ちのせいなのか、アサコの体調のせいなのかわからない。体をよじってのけ反り、シーツの端を握り締め、口元に言葉にならない言葉を探す。
「舐めさせて」
 とアサコは言った。やはりどこかが少し以前のアサコと違うみたいだ。僕はとてもつらい気持ちになる。アサコは瞬間瞬間に僕以外の顔を思い出しているに違いなかった。それは彼女を暗い闇へと追い込んでしまうだろう。アサコは激しく頭を動かし続ける。僕は快感が痛みに変わってゆくような気になった。トクシマさんにもこんなことをすすんでしたんだろうか。だとしたらとても悲しかった。
「アサコ、もういいよ」
「よくない?」
「いや、気持ちよすぎて」
「よくないんでしょ?」
「そうじゃないよ。よすぎて、なんか痛いんだ」
 アサコは悲しそうに見える。
「キスしよう?」
 もう一度深くてやさしいキスをした。脳味噌の中に何かが染み出してゆくのを感じる。全身でつながりたいと強く願う。アサコの両足をゆっくり開いてゆく。アサコが薄目を開けて僕を見た。何かに怖がっているような顔だ。初めてしたときだってそんな顔をしなかったのに、どうしてそんな‥。
 大丈夫と僕が言う。大丈夫きっと元通りになると僕が僕に言う。
「いい?」
 と僕は聞いた。こくりとアサコがうなずいた。


「安心するよ、こうしていると」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ、一番安心する。落ち着く」
「あたしが?」
「誰よりもね」
 と僕は言った。
「なんか、懐かしいくらいだ」
「会えなかったね」
「長かったよ」


 ホテルを出ると11時を回っていた。アサコは改札まで僕を送ってくれた。
「夏休みももう終りだね」
「学校で毎日会えるよ」
「イタリア、行くの? また」
「うん、わからないけど、行くことになると思う、多分」
「大丈夫、だよね」
 何が? と言えない。僕らはうまく踊れたのだろうか。
「大丈夫、僕はアサコのそばにいる」
 アサコは汚れた床のタイルに目線を落としたまま、何度も小さくうなずいた。
「また、来る」
「ほんとう?」
 僕は仕方なく笑って見せる。
「ほんとうだよ、会いにくる」
「もっと好きになれるよね?」
 アサコはお父さんを見上げるような顔で僕を見る。
「今も昔もずっと好きだよ、たぶんこれからも」
 笑って僕は言う。
「学校が始まったら、またあのマンションに行くよ。一緒にルパン三世を見よう」
 それを聞いてアサコは微笑む。でもそれはガラス越しに見せるような笑顔だ。
「何もなかったようにっていうのは無理だと思うんだ」
 真剣なはっきりした口調で、確信を持って続ける。
「つらくても現実を受け入れながらじゃないと、とてもやっていけないよ。今までとは違う部分で、同じくらいかそれ以上好きって言えたら最高だと思う」
「痛みと共存してゆくの?」
「共存‥ ん、まぁそれが一番近い言葉かな。自分に嘘はつけないし、ついても苦しくなるときが必ずくるからさ」
「そばに置いておくんだ」
「そうだね、目障りだとは思うけど。でもそれについてちゃんと喧嘩できるってことの方が大事じゃない?」
「時間かかる?」
「かかるだろうね。でもそれでいい。今日明日だけの話しをしているわけじやないから」
「私、ちゃんと喧嘩できるかな」
「あせることないよ、ゆっくり考えよう。オレだってまだちゃんと落ちついているわけじゃないし」
 それを聞いて、アサコはちょっとうつむいた。
「ふたりで考えようという気持ちと、それに割く時間があれば、道は自然に開けると思うよ」
「‥そうだよ、ね」
「大丈夫、できるよ!」
 僕はめいっぱい笑って見せた。アサコも笑った。
「がんばろうね」
 そうして軽いキスをして別れた。ちゃんといい力がみなぎっていたと思う。振り返ってアサコを見たとき、悲しいようには見えなかった。アサコはそこにいて、ちゃんと僕を待っていたんだ。僕が帰ってくるのを。




 再びイタリアに渡り、僕は生徒の前で校長の紹介を受けた。サムライの国から来た優秀な男だ、とかそんな感じだったと思う。僕は習いたてのイタリア語で短い自己紹介をした。
 30分刻みの接待のようなスケジュールをこなし、夜にはドライブやパーティーがあり、その合間を縫ってアサコに何通かの手紙を書いた。ほとんど毎日欠かさなかった。瞬く間の二週間だった。8時間向こうの世界では夏休みが終り、後期の授業が始まっていた。僕は日本が待ち遠しかった。
 空港に着くと、僕は大きな手荷物のまま八王子のマンションに寄ることにした。電話は掛けない。アサコが驚いて喜ぶ顔を見たいからだ。
 懐かしい匂いのする階段を昇りながら、おかえりと言うアサコを想像した。アサコは僕の顔を見て抱きついてくるかもしれない。旅の疲れも忘れて僕はにやにやした。キスの嵐が襲って来たら、ちゃんと後でお返しをしよう。
 チャイムを押す。返事がない。出掛けているのだろうか。夜の11時だ。もう一度押す。何かが違う。何かがおかしい。決定的な何かが足りない。落ち着け、整理しよう。アサコは出掛けているんじゃない。それだけが直観的に理解できた。
 荷物を床に置いてドアに近づき、チャイムに耳を澄ます。もえぎ色のドアは死んだように冷たい。何度押したってそこには電気なんて通っていない。まるで石になった象を撫でているみたいに音や時間が欠けている。そこには生命の記憶はあっても水がない。ひとかけらだってないのだ。水、命の水。僕は僕てて辺りを見回す。台所の窓は鍵が掛けられていて、擦りガラス越しに見えるはずのディズニーのグラスやふたりの歯ブラシが見えない。新聞受けは裏からガムテープか何かで止めてある。ドアの脇のプレートに目をやる。クドウアサコの表札はもうなかった。