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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

「響きの水」5章


 保養所は海のそばの見晴らしのいい丘の上にあった。レアチーズケーキみたいな白い塗り壁、黒い鉄枠の窓、ぶ厚くて全然平らじゃないガラス、逃げ出そうとする建物を地面に繋ぎ止めるように伸び続けるツタ。背が高く大きな門をくぐると広い庭園が迎えてくれる。刈り揃えられた芝の中にレンガの道が伸びている。その先は小さな礼拝堂だ。藤棚に大きなブドウがなっていて、その下には板金を曲げてつくった重そうな椅子が置いてある。大きく派手な麦わら帽子(きっと思い出の品なのだろう)を被ったおばあさんが、宝石みたいなカットのサングラスを掛けて読書をしている。溢れるほどのパンジーが咲き乱れる花壇は誰かが撒いたばかりの水できらきらしている。看護服を着ている人や、点滴を下げた車椅子の人もいるけど、ほとんどは普段着で、アロハシャツの人もいれば、冬服のようなツイードのスーツの人、ピンクのトレーナーの人、女性ならアクセサリーや化粧もしていたし、喫煙も自由で、病院や学校のようなルールに縛られている感じがなかった。各々が最も愛した時間の中に生きているような印象を受けた。遠くに聞こえるピアノのメロディがやさしく陽の光に溶けている。


 昨日アサコは電話に出なかった。教習所に行ってたんだろうか。それとも何かあったのかな。いや、まさかね。離れているときはついそんなふうに物事を悪く悪く考えてしまう。そうだよ、アサコだってよく言うじゃない「トモユキが電話に出ないと、なんかよくないことが起きたんじゃないかって心配しちゃうよ」って。心配じゃなかったら、そもそも電話なんてしないもんな。きっと夕飯の買い物にでも行ってたんだろう。


 スギノは日当たりのよい部屋の中で、大きく育った観葉植物の葉を1枚1枚拭いていた。
「おはよう」
 僕が言うと、スギノは昨日よりずっと落ち着いた表情で僕を見た。
「あぁ、呼んでくれれば、門まで迎えに行ったのに」
「ん、だいじょぶだよ」
「迷ったでしょう、何にも標識とかないから」
「でも、来れたよ」
「ひとり?」
「うん、今日はね」
「お茶いれるから、座ってちょっと待ってて」
 そう言ってスギノは部屋を出ていった。僕は上着を脱いで椅子の腰掛けた。高い天井には天窓があり、古い木貼りの床を柔らかな光で照らしている。昔スギノと行ったアトリエにそっくりだ。大きくて頑丈そうな金属のパイプベッドを中心に、大きなベンジャミンと小さな鉢植えが4つ、古く小さな書きもの用の木の机とアルミの読書灯、繰り返し何度も読んだと思われるハードカバーの本が数冊、化粧品の瓶、小さな流木と青いビーズの入った素朴な焼き物の皿、テレビやラジカセのような音がするものはない。
 漆喰の壁には小さな額がたくさん掛けてある。スギノの家族らしい写真、僕の知らない友達の写真、映画のチラシの切抜き、絵葉書、淡彩の風景画、僕の写真も混じっていた。
「コーヒーでいい?」
 スギノが戻って来た。木の皿の上にラスクが乗っている。
「ありがとう」
「あ、写真見たの?」
 スギノが照れ臭そうに言った。
「なつかしいよ。これ現役のときだったよね」
「うん、スイカ割りのとき。覚えてる?」
「あぁ、あの時か」
「みんなでお金集めてさ、公園で花火とビールとカレーとスイカ割りした」
「あの頃の人達と会ったりする?」
「今は会えないけど、うん、時々手紙を書いたりね」
「そっか」
「でも日本にいたとしても、会いたいって感じではないかな」
「そう?」
「うん、なんか」
「会うのいや?」
「ん、そうかも」
 スギノの痩せてしまった首もとや、金色に染めた水気のないぱさぱさした髪、表情が乏しく透き通っていないまなざしを見ていると、彼女が過去の止まった時間の中に生きている気がしてならなかった。前に進めてないんじゃないかと不安だった。
「オレは?」
「ワタナベ君は‥」
「会わないはうが良かった?」
「そんなことない」
「昨日はそんなふうに見えなかったよ」
「いや、びっくりしただけよ、ほんとに」
「そう?」
「どうして?」
「昔のこと思い出してつらくなったのかと思った」
「‥それは、うん、そうかもね」
「傷つけたよね。ごめん」
「だって‥ 仕方ないじゃない、本当の事だったんでしょ」
「わかんない。昨日スギノに会って、オレがスギノをイタリアまで連れて来ちゃったのかなって思った」
「そんなことない」
「なんか、謝りたくなって」
「‥やめて!」
 僕は混乱してる。今更こんなこと言ってなんになるというんだ。あの頃みたいにきらきらと輝いて見えるスギノに僕は会いたかったんだな、と思った。
「オレ、今アサコと付き合っているんだ」
「うん、誰かから聞いたよ」
「すごくいい娘なんだ。僕にはもったいない。とても大事に思っているし、大事にされてると感じる」
 スギノは黙っている。
「こないださ、うちの親が別れたんだ。家もなくなっちゃった。学校ももうちょっとで行けなくなりそうだった。そのときオレはすごく荒れてた。アサコに笑顔を見せたことがなかった。どうにもならないものに向かって不平ばかり漏らしていた。でもアサコは毎日僕を笑顔で抱きしめて、好きだと言ってくれた。そう言われると早くしっかりしなくちゃって思えた。自分を見失わずに済んだ。オレさ、ねぇ、そのとき気付いたんだ」
 僕はスギノの目を見て言った。
「アサコが今、オレにしてくれてるみたいに、なんであの時スギノにやさしくできなかったんだろうって。そしたらスギノだけじゃなくても傷つかずに済んだ人達はたくさんいたし、例え同じようにあの時に別れたとしても、お互いもっとやさしい気持ちになれたに違いないんだ。オレさえしっかりしてたら、スギノがこんな所に来ることもなかったんじゃないかって」
「ワタナベ君、わがまますぎるよ」
 スギノは言った。
「そんなの誰だってそう思うよ。みんなにやさしくなれたらって私も思うよ。でもあの時あの場所のあの言葉は、あの時のワタナベ君にとっては、ワタナベ君に出来る選択の中で想像する、精いっぱいのやさしさだったの。そうでしょう? 意地悪しようと思って言ったんじゃないでしょう? 傷つけたくてそうしたわけじゃないでしょう?」
「そうだけど‥」
「いいの。それでいいの。いちいち全部を振り返って反省、確認してたら、時間がいくらあっても足りないし、これから起こる未来のたくさんの事にきちんと向かい合う余裕がなくなっちゃうの。あの時の私はワタナベ君をとても好きだったし、あの時のワタナベ君はそれに応えないことが一番いいと思った。ただそれだけのこと、もう済んだこと、そこには『もし』なんて可能性はないの、1%もないの。ね、わかるでしょう?」
「振り返って思うことは、ただ後悔するだけじゃなくて、これからのことに生かせってこと?」
「んーん、ちょっと違う。あのね、知ってる? 時間には過去も未来もないんだよ。ずっと今が続いてるだけなの。私たちは『今』っていうほんの一瞬を繰り返し選んでいくことで過去を作り、そこから見える未来を迎えてゆくの。だから一生懸命にならなくちゃいけないのは過去の反省でもなく未来を夢見ることでもなく、ただ『今』を大事にすること。『今』を抜きにして何かを作っていくことなんてできないの。先のことも後のことも考えなくったって今を生きれば勝手にできてゆくの。大事なのは今をちゃんと全力で選ぶ事、それに一生懸命になることなの。嘘をつかないことなの」
「懐かしい日々のことは?」
「過去は過去、思い出は思い出、今は今、そうでしょ?」
 過去の中の止まった時間の中に生きているのは、前に進めずにいるのは、スギノではなく僕の方だった。冷めてしまったコーヒーに手を伸ばした。ソーサーとカップが震えてカタカタ音を立てた。僕は自惚れていたのだ。誰もがまだあの時間の中にいて、僕を必要だと言い続けてくれると思い込んでいた。そうだ、誰ももうあの時間の中になんか生きてはいない。イワシミズがセーラー服の短いスカートをひらひらさせて僕の指先だけをぎゅっと握ったままついて来ることもないし、その僕をタカナカがにらみつけることもないし、ヤマダユリコがあらかじめループしてる問題を僕に突きつけてくることもないのだ。
「何やってんだ、オレ」
 僕は手のひらにべったり汗を掻きながら、スギノの目を見ることができなかった。
「おかしくないよ、ワタナベ君」
 スギノは優しく微笑む。
「だって、なんか悲しいよ」
「やさしいだけよ」
 スギノはそう言ってくれるけど、もちろん逆効果だ。
「人にやさしくしようって思うのはいいことだよ。みんなワタナベ君みたいに、早くその事に気づいたらいいのにって、私も思うよ」
 どんどん暗い気持ちになってきた。スギノってこんな娘だったかなぁ。おかしいな。僕の冗談に素敵な笑顔を見せてくれる、肌の綺麗な女の子じゃなかったっけ。灰色のブレザーの制服に、豚皮のお手製鞄を背負ってトコトコ歩く、キュートな娘じゃなかったっけ。僕を好きだと言って、わんわん泣いたあの娘は誰だっけ。
 誰でもないのだ。全部それは思い出の中に生きてるスギノなんだ。僕だけがちっとも前に進んでいないのだ。止まったままなのだ。そうだ。僕がアサコのうちから帰るときに探していたスギノは、今ここにいるスギノじゃない。19才のスギノであり、あの夏のスギノであり、僕を好きなままのスギノなのだ。僕だけを好きでいるスギノの幻想なんだ。僕はぞっとした。
「オレ、なんかまだスギノのこと好きみたいだ」
 スギノが笑った。言った途端に僕は恥ずかしさにまみれた。
「私も好きよ」
「‥ありがとう」
 と僕は言った。これじゃあべこべだ。


 保養所の周りを一緒に歩いた。スギノが育てたブドウを食べて、日系のおばあさんの死に別れた恋人の話を聞いたり、熊みたいに大きなセントバーナードをこわごわなでたりした。
「遺跡を掘ってるとね。いろんなものが出てくるでしょう? 壺や骨や花粉や火山灰とか囲炉裏とか。あれってね、どんなものが出てきても、もう新しい発見なんてほとんどないんだって」
「でも新聞とかによく載ってたりするじゃない、国宝級の錆びた銅の剣とかさ」
「いや、あれもそんなにすごいことじゃないらしいの。いままでたくさん出たうちの、比較的損傷の少ないものとかその程度なの。歴史を塗り替える大発見なんてないんだって。じゃあなんで掘り続けて壊れた壺を修復したり、何万枚も写真を撮って溜めこんでるのかって言うと、やっぱり人を説得するためなの。そうしないと国からお金を出してもらえないからなの。こんなに大変で大事な事をやってるんだからお金がもっと必要です、足りないんですって言い続けないと、文化的に本当に大事な研究ができないからなの」
 スギノは海を見つめたまま話し続ける。
「本当に大事な研究っていうのは、どの時代のどの流行のどの辺に位置するのか系統的にマッピングしていったり、革新的な人が作ったオリジナルなのか、下手な人がその真似をしたものなのか見分けたり、隣りの村の文明との混ざり具合の比率や順序を測ったり、いつが終わりともわからないそういう類いの研究なの」
「ものではなく関係ってこと?」
「関係、そう、まさにそうなの。でも、それじゃあ誰もお金をくれないの。成果として形になりにくいの。だから、現地の作業をたくさん増やして請求額を水増しするんだけど、そのとき私が思ったのはね」
 スギノは海から目を離さずに喉に手を当てて、声が出やすいか確認した。
「幸せっていうのはものや人ではなくて、その関係に含まれているんじゃないかってこと」
 スギノは続ける。
「壺なんていくら掘ったって、そんなのただの壺でしかないの。家の戸棚にある何気ないお茶碗や湯のみと同じで、単体ではたいした意味も価値もないの。大事なのはそれがどの時代の文化から現れて、それが他のものの中でどういう役割や位置を占めていたのか。あるいはその周辺から掘り出したすべてのものから浮かび上がってくる当時の気候なり食生活なり信仰心の方が、考古学としてはむしろ重要なのよ」
「目に見えにくい部分だ」
「そうなの」
「その信仰心や生活に当たるのがスギノの言う幸せなんだ」
「現実的なかけらを集めて、しかもそのものじゃないものをイメージすることでしか構築できないっていう意味で、すごくそう思ったんだ。だって考えてよ。そんな時間の層が私たちの生まれる前からずっとずっと積み重なっていくつもいくつも土の中に眠っているんだよ? 昨日の次に必ず今日という日が来て、今日の次に明日が積み重なって、その順番は絶対に間違うことがないでしょ? 縄文式土器の下に不発弾は埋もれてないでしょ? その絶対の中の点と点をつなぎ合わせて、きっとどこかにある真実を探し求めてる考古学者っていうのは、きっと私たちが幸せになりたい、幸せってなんだろうって考えてる気持ちに、とても近いんじゃないかな」
 順番が変わらないってことは、と僕は言った。
「やっぱり不都合が多いかな」
「始めから、全部が全部決まってんじゃないかって思う時もあるよ。それこそ宇宙的な意味で」
「こうしてスギノに会えたことも?」
「そうだね、決まってたのかもね」
「あらかじめ決まった何かの中でしか、幸せって手に入らないのかな」
「実態はないかもしれないけど、なんとなくの輪郭はみんなの共通の意識やルールとしてしっかりあるような気がする」
「運命みたいなものも含めて?」
「うん、時間はやっぱり偉いと思うよ」
「オレ、よくわからないよ」
「だって思い出を水に流すのも、傷穴をやさしく覆うのも、より一層思いを募らせるのも、すべて時間だもん」
「逆らえない?」
「逆らう、逆らわないっていう問題じゃないよ。そんな選択肢はあらかじめないんじゃない? だって誰にも抗えないもん。違う? あ、でもスーパーマンは地球を逆回しにして好きな人助けたんだっけ」
 僕は水平線を見つめながら、この海のずっと向こうにはちゃんとアサコがいるのかなぁと不安になった。ひょっとしたらもう地球上のどこにもいないような気がした。僕が知らないだけで、数秒前の八王子に核爆弾が落ちていて、アサコは粒子になってしまっているかもしれない。
 スギノはそっとそばに近づいて僕の頬にキスをした。大丈夫だよと囁いた。
「ワタナベ君なら、きっと大丈夫だから。ね?」
 それは何だか意味がわからないキスだった。あの夏の新宿の時みたいなやさしい石鹸の匂いもしなかった。スギノはにこにこして僕の横顔を見ている。僕は黙って海を見続けた。




 保養所から帰ってくると、シブヤさんとタマキさんはセックスをしていた。僕は口笛を吹きながら、呑気に合鍵で玄関のドアを開けて、もう少しでただいまーと元気に言ってしまいそうになった。いつも開いてる居間の扉が閉めてあって、そのガラス越しにシブヤさんの顔が見えた。僕は「今日は早いんだ」と思い扉に手を伸ばしかけた瞬間、その表情からすべてが同時に理解できた。僕は抜き足差し足で外に出たけど、多分ばれてたと思う。やっぱりタマキさんはシブヤさんと昔、何かあったんだ。何百分の1秒かわからないけど、ちらっと見えたタマキさんは、両足を天井に突き出して、やっぱりオンナの顔をしてた。心を許した人にしか見せない表情だ。タマキさんのそんな顔を見たのは初めてだ。知人のセックスを見たのももちろん初めてだったけど。


 自転車を借りて海に行った。砂浜に自転車を倒して靴と靴下を放り投げ、ジーンズのままバシャバシャ海に入る。冷たい海水と砂の粒が足の指の間を抜けてゆく。こめかみのあたりまでざわざわしたものが昇ってきて、星のように弾ける。大声で叫んでみた。気持ちがいい。バカヤローとも言ってみた。防波堤にいた何人かがこっちを向いた。僕は笑った。すっきりした。僕は思いつく限りの言葉を片っ端から全部叫んでみた。砂浜でジーンズが乾くのを待った。太陽が沈み始めていたので乾くのには時間が掛かりそうだった。待っていると無意味に勃起した。そうか今日でもう8日もアサコとしてないんだなぁと思った。アサコの言葉を思い出す。
「何で、これ、覚えて、らんないん、だろう」
 腰を使いながら、全部覚えてたら他のことが手に付かなくなっちゃうだろ、と僕は言った。アサコは朦朧として息を荒げていた。僕が再び深く腰を沈めると、短い悲鳴のような声をあげて抱きついてきた。
 アサコの夢中な顔は何度見てもいい。上気した肌に触るのも好きだ。アサコはみんなと比べると全然美人じゃない、背も低いし、胸だって小さくて固い。持ち物の趣味だってけしていい方じゃないし、人付き合いも下手だ。でも僕といる時のアサコは他の誰にも代え難い。肌を合わせていると、朝露の中で羽化したばかりのように透きとおって、危なげでどうしようもなく「本当」をむき出しにした無防備な生き物が、僕の腕の中で踊る。僕が守ってやらなきゃなぁと思わせる。実際アサコにそういう気持ちを抱く男は少なくない。かつてタカナカがそうであったように、ジイちゃんもイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだか)の次にアサコを愛してるなーなんて軽々しく言う。


 辺りはもう暗くなっている。セックスはもう済んだかな。僕は自転車を起こして、道路まで押して行った。チェーンについた砂が嫌な音を立てた。水平線の向こうに沈んだ太陽が、海面にオレンジ色のヘアラインを作っている。あんな綺麗な曲線を、あんな綺麗な色で光らせてしまったら、どんな絵の具も勝ち目がない。僕は『ルパン三世』のエンディングの歌を歌いながら、タマキさんちに帰った。


「あ、おかえりー」
 二人はもう裸ではなく、タマキさんがカレーを作って待っていてくれた。グリーンサラダに缶詰のアスパラがのっている。病人のちんちんみたいだ。あとは白ワイン、ゆで卵をスライスしたもの。僕をずっと待っていたのか、氷水を入れたピッチャーも汗を掻いている。
「会えた? 昨日の彼女」
 シブヤさんは、さっきまで二人のベッドの代わりになってたテレビの前のソファで野球を見ながら、タマキさんは髪をアップにまとめたエプロン姿で、カレーをよそりながら僕を迎えた。
「ん、あぁ、元気だったよ。ブドウを御馳走になったよ」
 僕はしゃべると二人になんか余計なことを言ってしまいそうで、よそってもらったカレーを間髪入れずに口に頬張った。目線もなるべく合わせず、テレビに夢中な振りをした。シブヤさんは、呆れたような顔で僕を見ていた。その目線が僕には「わかりやすすぎんだよなぁ、ナベの反応は」という声で聞こえた。僕は昔から隠しごとが下手なのだ。


 今日こそアサコの声を聞こう。僕はそう決心した。日本はいま朝の5時だ。時差は8時間ある。僕は腕時計とにらめっこしてあと3時間待つことにした。バルコニーに出て煙草を吸い、昨日スーパーで買ってきた新しい長編小説を読んだ。テレビでは『ロボコップ』をやっている。僕が見たことのない場面をやっているので、きっと続編なのだろう。日系の悪役が走り回る後ろで、叫び声や爆発音が続く。
 本を読み終えても1時間以上が余ったままでいた。『ロボコップ』はもう終わって、49ersフットボールをしていた。
 もう一度煙草を吸いにバルコニーヘ出て、それからアサコに手紙を書こうと思った。お気に入りの万年筆を持ってきていたから、手紙を書くのに使いたかったのだ。




「  アサコヘ

 これから僕はアサコんちに電話を掛けようと思う。もうすぐこっち
は夜の12時だよ。そっちは朝の8時になるはずだけど、いつものお迎え
よりちょっと早いかな。
 免許はどう? 進んでる? 僕は今イタリアにいるんだよ。何か不
思議だね。ジイちゃんもすごい元気だし、食事がうまいよ。いつもの
倍くらい食べちゃってる気がする。今日はシーフードカレーだった。
暑くてビールばかり飲んでるよ。
 昨日、丘の上から海を見ていたら、この海の端っこはちゃんとアサ
コのところまで続いてるのかなと思ったよ。僕がいない家はどう?
僕はアサコがいなくて毎日じたばたしているよ。一緒に来れたらよか
ったのにね。
 離れているといろんな事がわかるよ。おとといの夜パーティーをし
たときは、飲み過ぎて心臓がバクバクいって寝れなくなったんだけど、
そんときはほんとに背中と胸を擦ってほしかったよ。アサコの手や体
温や匂いがとても必要だと思った。アサコにもそういう日や時がある
のかな。
 あと22日で東京に帰ります。あそんでね。


                         トモユキ 」




 時計を見ると12時を回っていた。僕は受話器を取った。募る気持ちを確かめるみたいに慎重に慎重に番号を押してゆき、回線が海を渡ってゆくのを待った。朝の8時だもんな。今日こそきっと話せるよ。トゥルルルルルルー‥ トゥルルルルルルー‥。1コール、2コール、3コール、4コール。朝だよアサコ。5コール、6コール。低血圧なのはわかってる。一声だけでいいから聞かせてよ。7コール、8コール。顔に血が昇ってゆくのがわかる。9コール。喉がひりひりしてきた。受話器を置いて番号を確かめながらもう一度かけ直した。結果は同じだった。眠ってるのかな。友達のうち? でも泊まりなんて。あ、と僕は声をあげた。池袋の実家! アドレス帳を走って取りにゆき、慌てて番号を押していった。
「はいクドウです」
 出たのはお母さんだ。さすがに遠くて、声ががさがさする。
「朝はやくから申し訳ございません。ワタナベと申しますけど、アサコさんはそちらにいらっしゃいますでしょうか?」
 僕の心臓はもう飛び出しそうだ。
「あぁ、アサコねぇ、いますけど、今ずっと寝てるんですよ。あの、おととい教習所行くときにね、交差点で車に自転車引っ掛けられて地面に頭ぶつけちゃってね…」