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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」6章


 帰国の手続きに3日掛かった。せっかく取れたチケットも気流がどうだとかで正しい時間で飛ばない。半日以上空港で足止めを食った。とにかく落ち着こうと本を開いても読むのは同じページばかりで、煙草の本数は増える一方だった。よくない想像は止まらないし、飛び立ってからも心臓をじんわり痛く感じた。僕は深呼吸して、頭の中から意味のあるものをひとつずつ消していった。アサコのお母さんの声を聞いたときに沸き起こった気持ちだけをしっかり放さずにいようと思った。それでも不安や恐怖は僕の気持ちを揺さぶった。吐き気や腹痛、目眩、頭痛になって僕の体を襲った。顔色を心配したスチュワーデスが熱いスープとパンを一切れ持って来てくれた。それをかじると頭に昇った血がゆっくり下腹に降りてゆき、やがて気持ちのいくつかはコントロールができるようになった。


 成田についたのは夜10時すぎだった。また一日が終わってゆく。いつになったら僕はアサコの声を聞けるのだろう。挨拶らしい挨拶もなしにタマキさんちを出てきたっていうのに。僕はもう一度電話をかけた。
「まだ寝てるんですよ、起こしますか?」
「いえ。起きられたら、僕から電話があったとだけ伝えていただけますか」
 受話器を置いて僕ははっとした。アサコが電話に出たら、まず始めに何を言えばいいのかわからない自分に気付いたからだ。心配したよ? 今帰ってきたんだ? 寂しかったね? どれも嘘に思えた。心配していないわけではないけど、僕は何か別の気持ちで、今ここにいるような気がした。
 成田エキスプレスのシートに身を沈める。びっしりと疲れが覆っていた。窓越しに黒くどろっとした河の流れとそこに浮かぶ木切れや発砲スチロールの破片を見て、何故か目頭が熱くなった。繊維工場の煙りのイオン、遺跡のように並ぶガスタンク、その合間を夜光虫のように縫う車の赤いテイルランプ、視界の左端から右端に流れてゆく。僕は目を閉じて自分の心臓の音に耳を澄ました。飛行機の中よりは幾分穏やかになっているように思えた。大丈夫、まだ大丈夫、と僕は思った。




 大学に入ったばかりの頃、一通の手紙が届いた。最初その手紙を見て僕は何かの勧誘かと思った。ちょっと厚みがあったからだ。紫陽花柄の封筒には宛名には僕の名前が書かれている。見慣れない字だが確かに僕の名前だ。だけど花柄の封書をもらうような相手は思い浮かばなかった。裏返してみても差出人の名前はない。
 

「Hello〜★  お元気ですか。
卒業式以来、と言うよりは卒業コンパ以来かな。
卒業式、出れなかったのは残念だったね。
卒業証書をみんなが受けとって、涙ながら校歌を
歌っているときに、ワタナベ君は英文や数式や古
文とにらめっこしているんだと思うととても不思
議な気分でした。
でも、その甲斐あったよね。大学は楽しいですか?
ワタナベ君の事だから、またおかしなこと言って
周りの人を笑わせているんじゃない?
また、会いたいです。
井の頭公園の新緑が気持ちいいよ。
電話ください。
                   エリ」


 エリって誰だろう。顔が思い浮かばない。高校時代の同級生ってことかな。その手紙はそのまま机の引き出しの奥の方にしまって忘れてしまった。電話も掛けなかった。必要なら向こうから掛けてくるだろう。二通日が来たのは成田から帰った夜だ。


「暑中見舞い申しあげます。5月のおわりにばっさり切った髪
が中途半端にのびてきて“暑さ倍増”って感じです。
エリはこの夏とにかく海に行きたいし、取りたての免許で遠
くの町までドライブしたり、お気に入りの浴衣で花火大会や
縁日とかにも行きたいんだ。
でもバイトもたくさんしないと、学校に通えなくなっちゃう
し、課題のレポートも山積みになっているんだけど。テスト
がようやくすんで“さて夏休みだ。あそぼー”って、思った
ときに、すでに友達は実家に帰った後だったの。
このままだと今年の夏はさびしくなってしまいそう。
せっかくの夏なんだから、やっぱりいい季節にしたいもんね。
まずは海に行きたいかなぁ。ワタナベ君は海きらいって言っ
てたっけ? もし、嫌じゃなかったら行きましょう。でもな
んとなくエリからは「遊ぼうよ」って言いづいから、ワタナ
ベ君が気分転換したくなったら誘って。ナベちゃんはいっも
いそがしそうだってひとづてに聞いたから、その方がいいん
じゃないかって思うの。
みんなに会いたければ、もちろん呼んで集めるし、みんなも
会いたがってたよ。いつでも気軽に声を掛けてください。
ハルカは数学から政経に変えて良くなったって言ってるけど、
英語がきついって泣いてるし、タバタはタバタで“クラスに
かわいい子がいないっ!”って怒ってるし、みんな“相変わ
らず”って感じだよ。(エリも含めてね)
いい夏にしようね。
                         エリ」


 押し入れから卒業アルバムを引っ張り出した。クラス写真でイクタエリは先生のすぐ隣りにいた。おかっぱのようなショートヘアで、フリルのついた大きな襟のブラウスに、黒いカーディガンを着ていた。スカートの長さは膝上、真っ白なハイソックス。つぶらな瞳はまっすぐにカメラのレンズの中心に向けられ、両手をぴっちり揃えた膝の上に乗せ、あまり得意じゃないのか、申し訳なさそうな笑顔で首をかしげていた。
 少しずつ思い出してきた。彼女とはおそらく席が隣同士だったのだ。休み時間に彼女は宿題の答えをいつも写させてくれた。イクタはあの学校で貴重とも言えるくらい真面目で優秀な生徒だった。成績表は美術と体育を除けばオール5。わかりやすい模範生だった。


 留守中の手紙はもう一つあった。予備校からの手紙だった。夏期講習の後期日程に講師が足らないのでバイトをしませんか。時給は今ここでは言えませんが、けして悪いようにはしません、のような手紙だ。7月28日までに是非連絡が欲しいと隅にボールペンで走り書きがあり、カレンダーを見るとそれは今日だった。
 僕は何より先にまず、アサコんちに電話を掛けた。そろそろ連終が取れないと置き去りにしたジイちゃんやタマキさんに申し訳がない。受話器を取ったのはまたお母さんだった。
「アサコね、今、病院に検査しに行っちゃってるんですよ」
 申し訳なさそうにそう言った。
 アサコのお母さんはアサコに感じが似ている。動物で言うと子熊やビーバーとかの、ふさふさと毛が生えていて、目がつぶらな感じに近い。以前実家に伺った時、庭の手入れをしていて、そのとき被っていた白いハイキング帽がとてもよく似合っていた。その日に摘んだアスパラガスを茹でて、ベーコンとホワイトソースのスパゲッティも作ってくれた。将来アサコが年をとっても、こんな風に老けてゆくなら素晴らしい。少なくとも僕にはそう思えた。
 だけど僕にはその時、自分にもう何度も電話を掛け続ける気力がないことを知った。何度もコールを聞いて、お母さんの声を聞いて、そうですかと受話器を置く度に、あの電話を初めて聞いたときの衝動や、やるせなさや、使命感は途切れた電話線の向こうに散っていった。いま自分が誰の為にこうしてここにいるのか、見失ってしまいそうだった。僕はいけないいけないと頭を強く振り、まず池袋にまで出てみることにした。予備校に行くのもあるけど、実際のアサコに会えば、すべてが伝わるだろう。お互いに救われるだろう。安心できるだろう。電車を待っていると、ただ立っているだけだというのに、額に汗がにじんで流れて落ちた。まっすぐに伸びたレールの向こうには、いつもの駅が海底のワカメみたいに揺らいで見える。




 アサコの実家は目白台だ。僕はお見舞いにCDと絵本を持ってきた。この音楽を聴けばきっと気持ちがやさしくなるし、絵本なら頭が痛くても読めるはずと思った。アサコも読みたいと言いそうなイラストだった。もう帰ってきたかな。
 アサコんちに久し振りに来て、こんなに大きかったっけなぁと思った。5年前に建て直したばかりなのでまだ新しい。小さな庭の奥にはもう水の出ない井戸のポンプが赤く錆びている。お母さんの家庭菜園にはナスとトマトが植えてある。アサコの部屋は二階の真ん中の部屋で南向きだった。見上げるとレースのカーテンが閉じてあった。庭の洗濯物が白く反射していて、軒先に吊した風鈴が鳴っている。木の葉をざわざわと揺らして大きな風が吹いた。僕はガレージの方へ回ってみた。アサコの黒い自転車がなかった。事故は本当に起こったんだ、夢じゃないんだと思った。僕はチャイムを押そうと思って手を伸ばしたけど、指先が届く前に、それ以上何もできなかった。僕は公衆電話を探した。電話にはなかなか出てもらえなかった。あの静かな家で僕の鳴らした電話はアサコを呼び続けた。出たのは耳が遠くなった80過ぎのおばあちゃんだった。
「はい、クドウです」
「あ、ワタナベと申しますけど、アサコさんは御在宅でしょうか?」
 返事をしながら僕は驚いた。アサコのおばあちゃんは耳が遠いし、足が悪いから、家にいても電話に出なくていいことになっていると聞かされていたからだ。
「は? 誰さん?」
「あ、あの、ワ、タ、ナ、べって言いますけど、アサコさんはいらっしゃいますか?」
「ターカ‥ナベさん? アサコ? アサコね。 おーい、アサコーアサコー。 ‥ちょっと待っててくださいね」
 置き去りにされた受話器から、階段の下からおばあちゃんが「アサコー、アサコやー」と呼び続ける声が聞こえた。おばあちゃんは階段を登れないのだ。悪いことした。冷たい廊下をペたペたとスリッパで戻ってくる足音が聞こえて、アサコねぇ、まだ帰ってきてないみたいです、と言った。
 電話を切ってから、アサコはほんとはもう帰ってきているような気がした。疲れてぐっすり寝てしまっているのだ。レントゲンや、CTスキャンや、心電図を取る度に、あの黒くて固いソファの上で何分も何分も待たされて、こんな消毒薬臭くて冷たい廊下から、はやく帰って暖かいベッドで眠りたいと思っただろう。そんな気がした。僕はアサコの眠りを邪魔したくなかった。起きるまでただ待てばいいだけの話しだ。僕はアサコの寝顔を思い出した。京都の夜、青い闇の中ですぐそばにあった寝顔。それは悪くなかった。


 僕は腕時計を見て、予備校に行くことに決めた。
 予備校は様替わりしていた。新館が2つもできたせいで教務室や受付がどこにあるかわからなかった。生徒も自分がいた二年前とは違った。長髪や、ブリーチや、ブギーパンツや、舌ピアスや、入れ墨。女の子ならへそを出していたり、胸を暴力的な形に変えるワイヤー入りのブラジャー、アクリルのヒールがついたサンダル、どピンクの口紅、透明のビニールの鞄に、タオル地のだぶだぶした靴下を糊で止めていた。
 久し振りに会ったトクシマ先生だけは相変わらずだ。青いサングラスと伸ばした髭と木彫り怪しい首飾りと、ラスタカラーの派手なファッションで、これなら生徒にも負けっこないと吹き出してしまった。
「そんで、いつから来れるわけ」
 いきなり本題から入るのもトクシマさんならではだ。よく見るとこの人も携帯をベルトから下げている。
「どんな感じかなと、様子を見に来ました」
「時給もさ、一応2000出すって言うし、悪くない話しだと思うよ」
 事務椅子にどっかと腰掛け、顎髭を撫でながら、どうでもよさそうに言う。
「でも僕なんかでいいんですか?」
「あぁ、大丈夫だよ。まだ夏期講習はそんなにウエイト大きくないしさ、徐々に感じさえつかんでくれれば、この先ほんと、なんとかなるから」
 トクシマさんは非常勤講師にリストアップされている大学生の名簿のコピーを左手でひらひらさせている。必ずしも予備校卒の成績優秀者に声を掛けているというわけではないようだ。備考欄には英語がしゃべれるとか、代ゼミで講師経験ありとかが書いてある。
「やってね、もし駄目だったら駄目でいいんだけど、肌に合ったらさ、常勤にもなれるわけ。そしたら時給ニーゴーだよ。いい話しだと思わない? 車とかマッキントッシュとかスキーとかセックスとか、やりたい盛りじゃん。やっぱ金いるでしょ?」
「そうですねぇ‥」
 それくらいあれば、母が楽になるかもな、とは思った。
「いいと思うよ」
 僕は名簿をもう一度のぞき込んだ。僕の他に赤いマジックで斜線を引かれている人が何人かいて、僕のすぐ上でキムラの名前が消されていた。きっと「人に教える余裕があるくらいなら、オレは大学になんか行かない」とかなんとか言って拒んだのだろう。僕がその代わりというわけだ。丸をつけられた方のメンバーを見た。
『法政大学 イケガミキョウタロウ』、『中央大学 ミハラユタカ』、『早稲田大学シバタマリ』、『T大学 ワタナベトモユキ』、『多摩大学 ヤスダケイジ』、『学習院大学 イクタエリ』
 僕は自分の目を疑った。イクタエリ? あの手紙の?
「あの、このイクタエリさんて‥」
「ん? あぁあぁ、なんか知り合いなんだって? そうなんだよ。この春からずっと入ってもらってるんだけど、彼女優秀でさぁ。この夏講師に誰呼ぼうかってときに、真っ先にお前の名前が出てきたんだよね。ワタナベならオレも知ってるし、じゃあそうしようってことになったんだけどさ、話し聞いてなかった?」
「いや、暑中見舞いはもらったんですけど、そんなことは全然」
「あ、そう。頼んどいたんだけどな」
「びっくりしました」
「人気あるんだぜー、教務室でも彼女倍率たけーんだから」
「そうなんですか? オレ高校以来会ってないから」
「バッカだなー。女は19、20で脱皮すんだよ。高校のイメージで判断してたらお前損するぞ」
「はぁ」
「ん、まぁ、いいや。とにかく早めに結論出して連絡してくれよ。オレ毎日ここ来てるからさ。あさってくらいまでに決められるだろ?」
「あ、はい」
「うん、オレ今から授業だからさ、また今度な」
 イクタエリの推薦? どうりでおかしな話しだと思った。大学に受かったことが教務室中の話題にのぼってしまうくらい成績の悪かった僕が、講師をしてみませんかなんて誘われるはずがないのだ。ブサイクな女ほど「モデルになりませんか」という誘いに引っ掛かりやすいという話しを思い出して、腹が立ってきた。時給2000円は惜しい気もしたけど、僕はこの話を断る事に決めた。


 もう一度駅の方まで戻って、アサコに電話を掛けた。時計は5時を回っていた。トゥルルルルルルー‥、ガチャリ。
「はいクドウです」
 出たのはアサコ本人だった。
「え? ‥あ、ワタナベですけど」
 僕は混乱した。どうせ、また出ないと思っていたから、何にも心の準備がなかったのだ。
「あ、トモユキ? ちょっと待ってくださいね」
 アサコはそう言って保留ボタンを押した。二週間ぶりの肉声だった。きっと親がそばにいない子機の方へ移動しているのだ。オルゴールの『禁じられた遊び』が鳴ってる。
「はい、もしもし」
「アサコ? オレだよ」
「あー、トモユキだー」
「頭ぶつけちゃったんだって?」
「うん、教習所に遅刻しててね、急いで行こうとしてたら、十字路でね、単に自転車の後ろを突き飛ばされたの、で、転んで、頭うっちゃって」
「強く?」
「うん、多分。何かね、うわー、死ぬかもーっていう感じは覚えてるんだけど、直接の痛みとかね、どんな風に転んだかとか、ちょっと記憶がない」
「‥そっか」
「トモユキ、イタリアから帰ってきちゃったの?」
「2日に電話して知ったんだけど、どうしてもこんなに遅くなっちゃった。ごめんね」
「もうね、だいぶ落ち着いたよ」
「まだ、痛む?」
「さすがにねー。血もたくさん出たし、外には出掛けちゃいけないって言われてるんだ」
「CTは?」
「うん、たくさん撮ったけど、はっきりと異常ないって言えないんだって。脳障害とかさ、目に見える部分じゃないから、おそらく大丈夫でしょうとは言ってくれたけど、今から1年間は何が起きてもおかしくはないって」
「怖かったろうね」
「怖いよー。頭なんか打つから、怖い夢ばっかり見るんだ。黒くてとぐろ巻いてるでっかいのが、天井を何匹も這ってるようなやつとか、多摩動物園の昆虫館に置き去りにされるのとか」
 アサコは昆虫が大の苦手なのだ。僕は言った。
「大丈夫、虫なんていないよ、怖くないよ」
「蝶がね、たくさんたくさん飛んで来て、手とか肩とかにとまろうとするんだよ?」
「もう、とまらないよ」
「ほんとう?」
「ほんとうだよ」
「よかった」
「ねぇ、お見舞いに行くよ」
「え、今?」
「あ、今じゃなくても、そうだな、明日にでもさ」
「ん、うーん、私すごいかっこしてるし」
「怪我人はかっこなんて気にするなよ」
「だってぇ」
「駄目?」
「‥うん、お母さんもみんないるし」
「そう」
「会いたいけどね」
「ほんとう?」
「イタリアから帰ってきてくれたんだもんね」
「うん、遅くなってほんとにごめん」
「うれしかったよ」
「また今度?」
「うん」
 話の内容とは裏腹に、アサコの声は元気のない小さな声になっていった。何かを隠しているときの口調にそっくりだったけど、怪我人を問い詰めるための電話ではないので黙っていた。
「それじゃ、また電話する」
「バイバイ」
 アサコはブツリと電話を切った。何週間かぶりの恋人の声なのに余韻が感じられなかった。僕はいつまでも受話器を手から放せずにいた。僕は4日間何をしていたのだろう。誰にどんな気持ちを渡したくって何万キロも飛んできたと言うのだろう。自分でもよくわからなかった。やっぱりバイトしてみようかなぁと思った。