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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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ゲームの完成

takanabe2004-09-15



ゲームっていつ完成するのかはっきり言える人っているのかな。例えば料理だったら最終形ってかなり明確な気がする。決まった材料を決まった調理法で作り、最良の温度で食卓へ届ける。たいていの料理は1日も掛からないし、想像から大きく外れたものが出来上がったりもしない。でも小説や音楽だったら、料理ほど明確じゃない気がする。作った人が「これで完成です」って言えたら完成だろうし、逆に編集者やレコード会社側から「いやいや!これじゃあ売れないんでもっとがんばって」って言われることもあるかもしれない。つまり絶対的な完成が存在しない。完成基準を数字で表せないから、なのかな。


ゲームを作るのと、ゲームを構成する部品を作る時間は分けてないといけない。そこが料理と違うところかも。大作ゲームが2年とか3年とか4年とかかかって出来上がることがある。ゲームジャンル自体が迷走して時間を費やしていることがある。でも料理だったらカレーのつもりで作ったものが途中からラーメンになることはない、はず。部品を作ることに3年掛かったとする。でもそれは演劇で言ったら舞台装置と衣装とキャスティングを丁寧に決めているだけで、物語として演出がされたものではない。(もちろん想定はしながら決めるんだけど)


ゲームが完成を迎えられるかどうかを決める指針を僕は3つに限定して考える。
「基礎となる動詞がある。それが確実に気持ちいい」
「その動詞が楽しく発展する」
「楽しい発展の数をステージ数として数えたときにゲームの値段に見合うだけある」


いや、僕はRPGもシューティングもパズルもシミュレーションもスポーツも、というかほとんどのゲームを作ったことがないので、なんとなくアクション性のあるゲームを例えに言っちゃったけど、僕はその3つがないと作ってて不安。ない場合は要素が増えれば増えるだけ完成が遠くなる気がする。逆に3つがきちんと実現されてる状態なら完成は間近かなと思う。


物語が進むのが楽しいなら小説や映画に任せたいし、ボタンやスティックも触らない方が楽ちん。でもわざわざそれらの何倍も出して買ってもらって、しかもかなりがんばって参加してもらわないと中身を見てもらえないメディアなのだから、作る側にも遊んでもらう側にも見合うボリュームとバランスって言うのが自然に見えてくる。喜ばれる量が同じなら、手数は少ない方が表現としてえらいと思うんだよね。


最近のゲームが恐ろしいのは、ゲーム機が進化していろんな表現手段が選べるようになった結果、ゲームとして完成してなくても豪華や派手に見えるだけでなんとなくうれしくなったりするところ。本来満たしたかった欲求と別の部分が反応しているのに、豪華だし丁寧にできてるから、これはたぶん楽しいって事で!って、自分の中の誰かが耳元で囁いてるところ。でも誰も作ってるゲームの明確な完成がどこなのかは誰も言えない。プレイしてストレスを感じる部分は修正を加えるし、なんか地味なところは派手な表現になる。そうして不満は確実に減っていくし、派手なエフェクトやサウンドは足されてそれなりに盛り上がるけど、面白さの本質は言葉や数字にならないので実はずっとうやむやなままだ。マイナスを削るのと設計を磨くのは似ているようで違う。それはゲームデザインではなくてただのお化粧。本質的なブスはそれでは治らないのね。


完成の定義をこれに当てはめると、主軸と言える部分の楽しさが設計理論値に達して、それが営業までを含めた内部メンバーの理解に繋がったときがまぁ完成なのかと。でもこれって1本につき1回しか迎えられないんだよね。10年やっても1本に2年掛かったら5回しか体験できない。気が遠くなるね。


そんな意味で、今一番やりたいことと言えばファミコンレベルの表現しかできないゲームを作りたい。グラフィックとサウンドとプログラムの準備を1ヶ月で済ませて、ゲームデザインの部分だけ1ヶ月とか掛けて作りたい。だから合計2ヶ月。正直、部品が全部揃ってからの時間しか、ゲーム製作に掛かった時間に換算したくないんだよな(商品は仕方ないけど)。キャラクターとか正方形とかでいいから、アイディアが実現するための材料が揃うまでの時間を1日でも1時間でも短くしたい。料理みたいに、もうこれしかないね、これが最高だねって思える瞬間を、もっと数多く体験しないと、部品の合わせとか、ブス隠しのお化粧だけで人生が終わっちゃう気がする。がんばろ。