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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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GBA「メイドインワリオ」

メイド イン ワリオ
メイド イン ワリオ
posted with amazlet at 08.09.18
任天堂 (2003-03-21)
売り上げランキング: 3088

思えばスーパーファミコン末期、プレイステーションぐらいからかな。ゲームがやたらに複雑に、難しくなっていったのは。いろんな見たことのない新しいジャンルが増えたのはよかった。シミュレーションRPGとかアドベンチャーとか育成とか。新鮮だったしのめり込んだんだけど、最後まで遊んだのがいくつあったかと言われれば照れ笑いするしかないって感じ。正直、面倒くさいソフトがどんどん発売されて、どんなにゲーム自身が面白くても生活の中からゲームに向かい合う時間を捻出すること自体が難しくなった。


ハードの性能が上がり、ゲームはどんどん豪華になって、ボタンの数も増え、操作できることも高級になって、マリオもゼルダもFFも気が付けばCGタレントみたい。それはそれで楽しかったんだけど、でもその中で忘れられていったことがある。それはファミコン全盛期の頃にあったゲームとユーザーのカジュアルな距離感。雑貨やお菓子のような誰にでも手にとれて、笑っちゃうようなあの感じ。だって今ではゲームを家族で競い合って順番にやろうなんて気持ち、まず起きないもんね。最近では「太鼓の達人」ぐらいかな。


メイドインワリオ」はミニゲームならぬ、1ゲーム5秒で終わる「プチゲーム」が200本以上入った、ボタンを押す喜びや快感を再認識させてくれるソフトだ。このゲームのいいところを書き連ねると、売れなくなったと最近評判の「ゲーム」という商品が2003年に、求められている距離感というのが分かる気がする。


・好きなときに始められる、好きなときにやめられる
・やったことに対してすぐに成果がわかる
・ルールが単純明快、みたまんまのゲーム性(成果を共有できる)
・一見下らない、でもやり込めるだけの深さはある
・繰り返すと(すぐに)上達する
・見た目がポップで明るく、性別、年齢を問わないデザイン


太鼓の達人」にもそのまま当てはまる。横で見ていれば一瞬でルールを理解し、次には「自分にも出来そう」→「やらせて!」っていうあの感覚。ファミコンが大ヒットしたときってそもそもゲームというメディア自体の目新しさもあったけど、「自分にも出来そう」の部分の割合も多かった気がする。最近のゲームに一番不足しているもののひとつだと思う。


10個以上のボタンをフルに使うゲームも珍しくないこの時代に、十字キーとAボタンだけで、これだけいろんな「感触」を再現できるのだということに改めて驚かされる。任天堂が20年間培ってきた「触れる映像」のカタログにもなっているわけだ。「鼻に指を突っ込む」とか「ステーキをナイフで切る」とか見た目のバカさについつい失笑してしまうけど、その操作感覚だけはホンモノで王道だ。


残念なのは、パッケージとしてリリースする側の迷いがやや感じられるところ。ディスクシステム版「ゼルダの伝説」や「メトロイド」などの歴代名作ゲームがチラッと出てきたり、必要とは思えない長々としたデモがふんだんに入っていたり。切れがいいとは思えないギャグセンスもソニーが「グルーヴ地獄V」とかでやるようには小慣れてなくて中途半端かも。それって「ボタンを押す快感を全面に打ち出した新ゲーム!」って打ち出すだけじゃ弱いって判断だよね? なんとなく間違って買った人にも怒られない程度にそこそこ好かれておこうみたいなそういう感覚、古いよ。


あとこのゲームの元になっている64DDの「ポリゴンスタジオ」内「サウンドボンバー」にはあった次に出てくるゲームの予告、がなくなったのはゲームデザインとして悪くなっている気がする。メイドインワリオだとゲームが始まってから1秒間、そのゲームが何か理解するタイムラグがどうしても発生しちゃうんだよね。


ただこういうソフトが2003年というタイミングに任天堂から出てきたことは画期的だと思うし、同時発売の「ゼルダの伝説 神々のトライフォース4つの剣」を追い抜きそうに売れている(20万本越え)ことを考えれば、任天堂の迷いはけっこう根深いものになるのかなって気がする。ボタンやスティックによるインタラクションの可能性を一番よく知っている任天堂だからこそ、この先に出てくるものでもう一度、家族全員をわくわくさせて欲しいなと思うんだよね。できれば変化球じゃなくて直球勝負で。