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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

ゲームらしさの作法


ピクミンのバッドエンディングを見てすんげぇブルーになったたかなべです。何がシアワセかなんて本人以外誰にも判断できねいよ、と思った。集めた部品は17個。最後の二日間はピクニックって感じに過ごしました。それがまた「ムジュラの仮面」のゲームオーバー(世界の終わりの前のお祭り)みたいにしんどくって、ああぁ。


最近の任天堂のソフトを遊んでいると不思議な気持ちになる。「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」「ルイージマンション」「ピクミン」。どれもが新規タイトル(システム)で(売るのが難しい)、同時に傑作との評価を受けている。新しい遊びの提案をしながら、アイディアの実験(投げっぱなし)に終わらない、ゲームとしての落とし所や完成度の高さを見せてくれる。楽しいし、わくわくする。続編ばっかり出している他の会社には見習って欲しいと思う。でもそれと同時に2つめの感情が湧き起こる。「これってゲームにしなきゃいけなかったのかなぁ」。


バックグラウンドを説明をしましょう。テレビゲームに限らず、ゲームというものは一定のシンプルなルールで、ある現実世界の情報を整理して、その中の魅力だけを大きく増幅するものだと思います。例えばトランプの「大富豪」というゲームは、大貧民が大富豪に税金を納めることで、ゲームの中の貧富の差を表現して、同時に上昇欲を誘います。でも税金が細かく分かれていたりはしないし、計算の必要もないし、職業の差もなければ、大富豪と大貧民以上の差が「カード2枚分」以上開くこともありません。それがシンプルにお金のやりとりだけを楽しくするためのルールだから。お金をモチーフにした見栄の張り合いという殺伐としたテーマながら、家族で楽しく遊べるように出来ています。例えばオセロは土地の取り合いや戦争の占領のようなものを模しながら、水平垂直45度のどれかで相手のコマを挟むとその挟んだ相手のコマの分だけ、自分の陣地になるというシンプルなルールで出来ています。一回にヒトコマしか置けないし、置ける場所も回数も限られています。その中で工夫をしてたくさんのコマをひっくり返せるように、あるいはひっくり返されないようにします。目の前のコマをたくさんひっくり返す時にうれしそうな顔になる人はいても「あ、自分の兵隊がこれだけ死んだ」とか「私の祖国を汚した」と思う人はあんまりいない気がします。そしてこの二つのゲームはトランプの53枚のカードがなくなるか、64コマの正方形が全部埋まることでゲームオーバー→結果判定となります。つまりゲームには必ず終わりがあって、その終わりまでにいかに頭をひねっていい結果を残すかってことに夢中になる訳です。いい結果を残したくなる理由(快感)があって、それがある限定されたフィールドであればあるほど、工夫には意味が出てきます。今度は負けないからもう一回勝負して!って気持ちになるのです。


テレビゲームもそういう枠の中から始まって、シンプルなルールの中のトライ&エラー、そして学習効果(工夫)よる達成、という快感法則の中で進歩していったと思います。ブロック崩しインベーダーゲームは、大抵の人なら繰り返すほどに上達します。で、反射速度を上げていくことで、エラーが何度か目になった時にゲームオーバー、同じ条件の中で破壊したブロックの数が結果判定となります。ボールを3つ落としてしまったら、とか、インベーダーに戦闘機を破壊されたり、自分の陣地に踏み込まれるミスを3回犯したら、という限定を条件に、次はもっとたくさんのブロックやインベーダーを効率よく破壊してやろうと思う訳です。この手法はファミコンからスーパーファミコンあたりまでの時代まで全盛になり、今なお、ある条件下において、条件を満たせないことがゲームを終わらせるきっかけになっています。


ところがニンテンドウ64などの3次元空間を摸したものが表現できるようになると、それまでは「例え」や「つもり」であったゲームのコマに、命や時間、空気のようなものが宿るようになりました。ゲームの中で日が暮れるという表現は2次元表現の「ドラゴンクエスト3」にもありましたが、決められた視点で描かれた、自分では見るはずのない上空からの俯瞰視点でした。画面の向こう側の出来事だったのです。ところが三次元表現の代表作「ゼルダの伝説 時のオカリナ」では、自分の好きな方角を向いて、夕暮れの空気や朝もやの空気を感じられるようになりました。ストーリーには直接関係のない場所に昇って街を俯瞰したり、高い塔を見上げたりというだけで、うっとりしたりする感覚が訪れます。好きな時に流れている川を泳ぎ、好きな時に馬を呼んで平原を疾駆します。その間も時間は流れ、世界の色をその世界の空気で塗り替えていきます。自分は画面の向こう側にいるキャラクターに憑依して、手元のレバーやボタンを押しているだけなのに、馬の尻をむちで叩いている気持ちになったり、自分が仕掛けた爆弾の爆風に巻き込まれた気になったり、固くて切れないものに刀を突き立てて腕がじんじんした気になったりします。


それでも「ゼルダの伝説」は勧善懲悪のオハナシなので、いくつかの謎を解くごとに終わりに近付きます。諸悪の根元であるガノンを倒してしまうと、ハッピーエンドを迎えます。世界の危機を忘れて、平原をはしゃぎながら走っていると、耳元で妖精が「はやく○○に行かなきゃ!」って急かしてくれたりするぐらい、本編以外の点が充実しています。でもまぁ、勇者になりたくて始めたはずのゲームですから、世界の平和も一応取り替えしてみたりもします。そうやって自分で導いたハッピーなゲームオーバーが「満足」ではなく「満了」なんだなぁってことになんかちょっとだけ寂しくなったりもするのです。


ところが、これが勧善懲悪じゃないお話しになると話しは別です。面白い動作や仕組みを考えて、コントローラと画面表現で新しい感覚を揺さぶるものが出来たとしましょう。それをパッケージにして6000円ぐらいの定価で売りたいとしましょう。でもゲームにはルールや始まりや終わりがあって初めてゲームということになっています。そこだけを無責任に売る訳にはいかないな、なんて思ったりします。ところが3次元空間を効果的に使えば使うほどゲームオーバーになる理由が見つからなくなってしまうのです。


その原因は動作自体に楽しさが込められている点に尽きます。3次元空間では「ものに触れる」ということが、2次元表現の何倍もの強い意味を持ちます。コントローラは画面の向こう側に「触れる」(触れた気にさせる)為の翻訳機です。2次元空間では書き割りの「コマ」や「記号」でしかなかったものでも、3次元になった途端、空間的に様々な反応を与えることが出来ます。柔らかく巨大な豆腐のようなものがあった時、2次元表現では構図を固定して、それに触れた後の画面をあらかじめ描いて用意しておく必要があります。ボタンが押されたことをコンピューターが確認してその絵とさっと差し替えるのです。へこんだ豆腐の絵に変わります。へこませたのは自分の操作なんだとわかるという仕組みです。ただし、へこませる場所は用意した絵の数で決まります。でも3次元表現の場合、好きな角度からそれに触れ、異なった反応(フィードバック)を計算上で得ることが出来ます。引っ張ったりへこませたり、蹴飛ばして床で弾む感じを確かめたり。計算の式を入れておけば、様々な反応を自由に楽しむことが出来ます。水面に石を投げて波紋が出来ます。波紋に波紋をぶつけて複雑な波を起こさせることも3次元表現なら可能です。


その「柔らかく巨大なものにコントローラで触れること」が多くの人にとってすごくたのしいことだと仮定して、ゲームオーバーになる条件や何かを達成してクリアだと判断する条件がみつからないのです。その中の一つの答えが「時間制限」です。ある気持ちのよい動作を使った作業を、一定時間のうちに効率よく終えないとゲームオーバーという手法。「ゼルダの伝説 ムジュラの仮面」などがそうです。「3日間」という限られた時間の中で決められた謎を解かないと、月が地上に落ちてきて世界が破滅するという、大変せっぱ詰まった内容になっています。気持ちのいいことは、数が限られているから気持ちがいいという考え方もあるでしょう。でも動作だけに浸っていたい人には大きなお世話だし、ゲームの為のゲームシステムを強要されているようでなんだかイライラします。同じ「時間制限」でも「巨人のドシン」では意味合いが大きく異なります。プレイヤーは巨人になり、地面を引っ張って盛り上げたり、ジャンプして地面をへこませたりという動作の「泥遊び」的な楽しさの軸に、終わるきっかけを見つけられなくなるから、という程度で30分目に「今日は日が暮れた」という区切りが発生します。ただし、ゲームオーバーではなく、きりがないのでここで一息入れてみたら?という程度のものです。何日が過ぎようともゲームオーバーは訪れず、やった方がいいことという程度の目的はあっても、決められたノルマはありません。好きなだけゲームルール上生産性のない泥遊びに興じることが出来ます。


どうぶつの森」にはゲームオーバーどころかクリアの概念もありません。様々なアイテムを交換したり集めたりしながら、自分なりのゴールを目指したり、親しいつもりだったどうぶつが引っ越してあえなくなってしまったから、勝手にゲームオーバーだと思ったりします。実時間と同じ時間とカレンダーの上で、春夏秋冬や朝昼晩を画面の中でも体験します。夜遅くにしか遊べないサラリーマンは、あんまり村のどうぶつとは仲良くなれないし、昼間にしか登場しない種類の虫や魚を捕まえることは出来ません。しかも仮にすべての虫や魚や家具を集めることが出来ても、それによって何かが起こったりすることもありません。ストーリーさえありません。そういう「場所」と「道具」だけが与えられているだけで、使い方、楽しみ方は個人で考えるのです。穴を掘って宝物として家具を埋めておいて誰かが掘り出すのを楽しみに待つ。トリッキーな内装で自分の部屋に訪れた人を笑わす。アイテムには目もくれず、一日中魚釣りに没頭する。ネットワークゲームとして始まった企画だったせいもあり、快適な空間と、その世界でしか通用しない道具を作って置いておいた、というのが正直なところでしょう。そしてそれは成功しています。


さて、目的もなくそのゲームのコアになるアクションを繰り返すことがそんなに面白いかという疑問もあるかもしれません。ゲームなんだからクリアしてこそ意味がある、という考え方もあるでしょう。でもどうでしょう? クリアしないと怒られて終わっちゃうゲームって、なんかおかしくないですか? ゲームにおいて時間というのはプレイヤー同士が、お互いの密度にちょうどいい幅やリズムを刻んで調節していたものです。楽しい時というのは時間を気にしていないことが多いです。だから遊び目的のゲームで時間制限をルールの中の一番上に持ってくると、大抵の場合ストレスが発生します。例えば国民的なヒット作「スーパーマリオブラザーズ」にも時間制限の縛りがあり、一定時間内に右端のゴールまで辿り着かないとミスとしてカウントされてしまいます。でもワールド8でもない限り、好き勝手に寄り道をしたり、ふと思い付いたアイディアを何度か試してみる時間を十分に残しています。この場合の時間制限は、まだ画面がスクロールしてどこかに向かうということが自明じゃなかった時代の、スクロールを促すための苦肉の策の一つだったと思うのです。でも、実際、スーパーマリオを遊んでいて、すごく快感に感じるのは苦労して最後のクッパを倒した時ではなく、1面の一番最初のクリボーをポコッと踏み潰した時のあの感触です。あの感触が忘れられないような印象的なものでなければ、誰も右端のゴールを目指そうだなんて思わなかったでしょう。飛んで跳ねる、踏み潰す、叩き上げるという「ジャンプ」を軸にしたアクションの快感があって初めて右端に向かって進んでいく目的(次のジャンプを使った快感へ進む)が出来る訳です。クッパを倒したい訳でも、ピーチ姫を救いたいためでもなく、ジャンプの快感の種類を極めるために、マリオは右に急いで進んでいくのです。


その観点から最近の任天堂のゲームを見直してみましょう。わかりやすいのは「ルイージマンション」。これはハードとコントローラが新しくなって、そこで初めて出来る画面表現と、コントローラの性能を活かした「吸い込み」というアクションについて掘り下げています。LRボタンの深さによって今まで「発射」することの方が多かったボタン操作に「吸う」という動詞を割り当て、今までなかった右手用のスティックを逃げ回るお化けを「引っ張る」ためのアクションに割り当てています。コントローラのほとんどのボタンを使用するためにかなり頻繁で複雑な動作を求められます。その煩雑さを「おばけ」という怖いモチーフが襲ってくる間に慌てずにこなすという点が、アクション部分での快感の肝です。数々の部屋に仕掛けられた謎はこの場合、その快感に辿り着くまでの障害でしかありません。また、操作に慣れるまでの時間が3時間程度ということから考えてみても全ボリュームが10時間程度というのは、6800円の暇つぶしとしては短く感じても、アクションの快感の種類がひとつしかないことを思うとある意味打倒と考えられます。あのゲームは10時間分だったら飽きずに遊べる快感を責任を持って詰め込んだゲームなのです。


そういう意味において、表現力が豊かになってきた最近のゲームはひとつのゲームをひとつの動詞でくくることが難しくなっており、結果としてその動詞ゆえのゲームオーバーやクリアを設定できずにいます。特に顕著なのが最新作の「ピクミン」です。このゲームは小人のような群集を引き連れて歩き、その数によって大きなものを「運ぶ」、大きな敵を「やっつける」という動詞を軸にしながら、その実のところ、群集を引き連れて歩くことの快感の方が大きくなっています。14分で一日が終わり、それを束ねた30日(7時間)という強い制限の中で30個のもの部品を探して集めてこなければ、バッドエンディングが待っています。「探す(移動する)」「運び方を考える」「運ぶためのピクミンを育てて増やす」という行程を踏まえた上での14分は大変短く、何度かバッドエンディングを繰り返さないと、ハッピーなエンディング、つまりクリアを向かえることは出来ません。それなのに、その攻略的な部分よりもずっと、ピクミンのどじでマヌケな表情や、群集を引き連れて歩く時の、ざわざわとうごめく不思議な感覚の方が快感としてはっきりメインだと感じられます。ただ群集を引き連れてピクニックをしたいと思っても、すぐに日が暮れて、彼らの巣に送ってあげないといけません。迷子になったピクミンは日が暮れてしまうと死んでしまうからです。


ゲームらしくするための作法が、快感を狭めていると感じます。ゲームとは言いながらも、画面とコントローラで起こせる不思議な感覚というのは、もっと無数でいろんな種類があると思います。動作の快感だけを楽しみたいということが発端で、商品としての「ゲーム」が生れる過程において、世界観を与え、制約と目的を作り、ゲームオーバーとクリアの条件をはっきり示すことで、買った人に「アクションを起こす」ことを促します。でもそれは「きっかけ」であって、本来の目的ではないはずです。中でも時間制限による縛りは、多彩になった表現手段の中で乱暴な制限だと感じます。もっと伸びやかに空間や環境を楽しめる工夫が必要でしょう。好きな時に好きなだけ遊べることが、ゲームの気軽さや楽しさを培っている大きな部分だと感じます。何年かごとにパズルゲームがヒットするのはシンプルで楽しいことを、好きな時に好きなだけ達成できるからだと思えるし、また再トライしたいきっかけにもなっています。「どうぶつの森」も無限にその世界にいることを選択として選べても、30分も遊べば、なんとなく満足するし、5分だけ触りたい日の欲求にも答えてくれます。それを何の為にやっているの? どんな風に楽しいの?といわれると一言でシンプルに答えられないことに、作り手として不安を感じる人が多いのかもしれません。でもそんなのは実際のところ開発者の心の葛藤の中だけで終わらせて欲しいです。今までにない快感の種類をはっきりと提示できたら、クリア条件の用意は必要でも、もっと好きにさせて欲しいよ、乱暴な制限で大好きな世界の中から拒絶しないでよ、とそう思うのです。




いいにくいんだけどさー、こないださー、ラヴフール5周年ってゆったけど、97年開設だから4周年だった。合計約80000アクセスだったので平均54.7アクセス/日です。今月は先月に比べて月のアクセスが1000人も増えました。みなさんのお陰です。飽きるまで続きます。