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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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アニメ「機動戦士ガンダム」


1972年生まれのボクとしてはやっぱアレじゃん。もろガンダム世代じゃん。プラモデルの発売日とかおもちゃ屋に朝から並んでやっとレジまで辿り着いたら「武器セット」とか「ドダイYS」(ロボットが乗って飛ぶ土台型の飛行機)しかなかった類の経験の話しで1時間ぐらいは盛り上がれたりするわけじゃん。


でもね、最初のガンダム以降、今日に至るまでたくさんの続編とか外伝とかが映画とかビデオで出たわけだけど、なんか普通の男の子的にそういうのはあんまり盛り上がらなかったねい。つーか無視してました。だって他にも恋とかゲームとか部活に忙しかったもんね。若いとお腹も空くし、ロボだけをずっと構っていられるほどロマンチストじゃいられないからね。


だけどアレじゃん。オトナになってから「攻殻機動隊」とか「新世紀エヴァンゲリオン」とかに出会ってそれが世界的に受け入れられたりするのを見ていると、あの作品のメッセージ性とかはともかくとして、やっぱ僕らは「ガンダム」っていう世代上の共通言語があるから、ああ言った「アニメ」という器に盛られた物語が単に子供だけに向けたモノではなく、映画やゲームを始めとする総合芸術の最先端としてすんなり受け入れられるんだよなぁとか思うね。


でさー、会社でこないだ最初のガンダムの3本の映画を見たんですよ。もう何度も見た映画だし、ノスタルジーって気持ちが強かったんだけど、1本目を見始めて15分経つか経たないかのうちに「うぉー!」とかものすごい感動が押し寄せてきました。「こんなん子供の頃見てたのか! すげー!」ってね。


時代が進むにつれ、1秒間に含まれる伝達情報量ってどんどん増えてると思うんですよ。単純にニュースキャスターは昔より早口になっているし、パソコンやテレビゲームのビット数どんどん上がって行くし、ファックスやメールや携帯電話がなかったら、今の仕事ってどんどん遅れていくよね。一言で言ってしまえば、メディアはどんどんめまぐるしさを受け入れてく方向にあるわけよ。人間の処理能力の限界に向けて暴走中って方が正しいのかなぁ。「エヴァンゲリオン」や「ツインピークス」を始めとする「謎が謎を呼んで物語的に収拾がつかなくなる」っていうストーリーを目にすると、膨大な情報に身をさらすって言うのは一種の快感を呼ぶんだなぁとかね、思うね。


だけどそのときボクが「うぉー」って思ったのは、そういう溢れかえった情報の多さじゃなくて、「物語をまっとうしようとする演出の骨太さ」。そこに使われている情報の多さに感激したんです。枝葉じゃなくて幹の太さね。ガンダムの第一話って、機械いじりが趣味の内気な少年「アムロ」が、戦争に巻き込まれる中で、偶然にも開発中の最新鋭のロボット兵器「ガンダム」の乗り込み、操縦も戦闘も未経験ながら敵のロボット兵器達を撃破するっていうストーリー。これって普通に考えてものすごい無理がある話しだと思うの。だけど、それを物語として「見せていこう」っていう姿勢がありとあらゆるところから感じられる。情報のための情報じゃなくて、物語のために世界があるって感じられる。


例えば、アムロは主人公としてかなりの最短距離でガンダムのそばに一人で行かなくちいけないっていう命題がある。すると、そのためにその世界はそれを事実として成立させるためにありとあらゆる協力をするわけです。アムロは一般市民のはずだから防空壕に非難する→でも幼なじみの女の子がまだ来てないから探しに行くと言って飛び出す→爆死した両親を前に泣きじゃくる彼女を発見、勇気づけ、非難を促すも、戦争に対する怒りを募らせる→兵器の研究所に勤めている父に防空壕じゃ設備が不十分だから、基地の中に住民を避難させてくれと頼みに行く途中、ミサイルがそばに落ちる→破壊された倉庫から偶然にもガンダムのマニュアルをゲット(!)→父に会うが最新兵器ガンダムの非難輸送のことで頭がいっぱいな父はちっとも聞いていない→このままじゃ住民の安全がまずい、目の前には新型ロボット兵器が横たわっていて、操縦席のハッチが空いているのが見える。と言った具合にです。内気な少年がものすごいテンポの良さで主人公に仕立て上げられていくのが少しでもわかりますか。どきどきが画面の向こうとこっちで一体化していくのを感じるね。


エヴァンゲリオンの第一話もこのストーリーをほとんど踏襲していながら、ここまでの引き込むチカラはなかったね。主人公が事故に巻き込まれて自発的な行動に向かう点では一緒なんだけど、シンジくんの動機付けが「会ったこともない同い年の女の子が怪我をおして戦っていることが見てられなくて」っていう弱さと「巨大ロボット兵器であるところのエヴァンゲリオン自体が生き物で、ウルトラ怪獣のような敵の不可解さと同じような恐怖と不安をあらかじめ内包している」っていう点で意志の自発性が曖昧になっちゃったんじゃないかなぁとちと分析。その居心地の悪さが加速度的なストーリー展開の中で解決されずに終わるのもだいぶつらい感じ。


ガンダムが普通に共感できる物語であるのは、主人公が意志を持って自発的になると必ず奇跡が起こるっていうストーリーテリングの強さだろう。それも「奇跡が起きた→勝利、めでたしめでたし」ではなくて「駆け引きの末の破綻」とか「絶望の中に垣間見た希望の光の弱さ」を軸にその奇跡が起き、痛みを伴って主人公としての成長を強いられ、また新しい事故へと自然に導かれるところ。登場人物それぞれにオリジナルな幸せのカタチや言いたくない生い立ち、行き交う想いがあるところ。万能ロボットが大活躍するのを見て胸を躍らせる自分と、戦争の中でいつ死ぬかわからないっていう恐怖や不安のどきどきがが同居できるところ。メカデザインが本物の兵器みたいだからっていうのは、そうでなくちゃ物語が成立しないので主従で言えば従だよね。デザインって助演俳優みたいなもんだと思うんですよ、僕は。


それらの実現においてガンダムは名作と呼ばれるようになり、事実上それを超えてフツーの男の子をドキドキさせるストーリーって今日まで現れてない。おかげでのんきに今年ガンダム生誕20周年なんかを迎えちゃったりしたわけです。もう20年っすかー、はー。


ちなみに現在、最新作であるところの「ターンエー・ガンダム」が放映中。これがまたすごいので、そのお話を次回ね。