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本「マリ&フィフィの虐殺ソングブック」中原昌也

マリ&フィフィの虐殺ソングブック

マリ&フィフィの虐殺ソングブック

物語を語る上で、読者がその最後のページをめくり終えた時に「結局何が言いたかったか」っていうのは、その本に払ったお金と天秤にかけやすい価値の代わりとされているではないでしょうか。最後の一文を読んでみて、今までのページのコトバのすべてが共鳴するような感覚を覚えれば、それは自分にとって「名作」だったっていうのが普通の発想だと思います。小説や映画、オペラなどの時間軸に乗った線形の表現手段というのは、その時間の長さをハード面で縛られない限り、無限に続けたり一瞬に終わらせたりできてしまう自由の上にあるので、「テーマによる編集」というフィルターをかけて、大抵のモノは常識的な時間の中でグッと密度の濃いものに仕上げていくのが普通です。


ところが世の中にはオチがないからこそ、圧倒的な開放感や可能性やリアリティを得る場合があって、それはどういうことかと言うと普段僕らが生きている「現実」や無意識のなせる技である「夢」がそうであるように、僕らの感情を揺さぶるこの世界は「オチ」なんか用意してないことばかりだってことに気づきます。


この本は普段はノイズミュージシャン「暴力温泉芸者」であるところの中原昌也の初の小説集ってことになっています。曲を聴いたことがある人ならわかると思うんですけど、この本も、独特でたぶん無意味な疾走感と、時間軸で増幅するタイプの緊張感と、そこはかとなくちりばめられたポップスのセンスで満ちています。12話の短編集という体裁だけど、ストーリーを追ってもほとんど無駄だし、そこに確実に込められていてその字数でしか言えないことっていうのもないし、気まぐれなどんでん返しはあまりに安易に訪れるし、読後に残るものと言えば、さわやかな胸焼けのようなグレイな気持ちだけ。


でも不思議とそのコトバコトバが新鮮だってことが否定できない。彼がプロの作家じゃないことは本屋で立ち読みでもしていただければすぐにでもわかるはず。そしてその魅力が「プロの作家じゃない」っていう無責任で無重力なフットワークから来ていることもおなじようにわかるでしょう。まぁ、ホームページで他人の夢日記を読むのとそんなに大差ないと言えば、そんな気もするけど。例え真似をしてみたって、この解き放たれる想像力にはなかなか追いつける人はいないだろう。


僕らは普段、表現に対して「料金分のカタルシス」を得ることにあまりに慣れすぎていて、気がつけば世界は「大作指向」の「安心な感動」ばかりを求めてしまっている気がします。ちょっと作りが甘い映画を見るとむちゃくちゃ文句言ったりとかね。(いつから映画評論家になったんだって)。中原昌也のつくる「そういう意味ではあまりに無責任な小説」は、軽やかですがすがしい不快感を、好き勝手なスピードで投げかけてくるので、逆の意味で「表現」ってそもそもなんだっけっていう根本的なことを思い出させてくれます。表現って自分を自分のコトバで向かい合うことであって、人を喜ばすって言うのはそののぞましい結果の一つでしかないんだよね。まず自分ありき。少なくとも相手のためだけのものじゃないです。今は相手の顔色をうかがう、うかがい方が洗練されている人を表現者みたいに言ったりするけどそれはちょっと違う気がします。そんでついでに言えば、21世紀なんていう時代は今までの時代よりもっと、そういう個人的で独創的な疾走感に共感できる人が増えてく、そんな時代になるんじゃないかなぁとも思うのです。