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映画「おおかみこどもの雨と雪」を観て思ったこと。

takanabe2012-07-22



おおかみこどもの雨と雪」を観てきました。なんだろうな、うまく言えないもんやりがすごくあった。突き詰めて考えると、結局ファンタジーとは作家が「こんな風に解決できたらいいのにな、という問題認識」を表現したものだという考えに至り、僕と細田監督は関心をもつジャンルやアイテムは同じなのに、言いたいことが45度以上違っちゃってるところがもんやりする理由なのかなって思った。だからそれはいい悪いじゃないし、人それぞれの意見の違いと変わらないので、好き嫌いとも違ってて、「あなたはそう思ったのね」で終わる話なんだと思う。


思えば「時をかける少女」だって「サマーウォーズ」だって、キャラクターの見た目や瞬間瞬間の演出の面白さで楽しく見ることはできたけど、あとでじっくり分析していくと、細田監督の問題認識は、一般的なエンターテインメント作品と大きく異なっている。端的に言うと主人公たちは社会的弱者側っぽく演出されているけど、実際のところ中の上よりも更に上、上の中かそれ以上のクラスの人達だ。何のコンプレックスもなくトップレベルのイケメン二人を恋と関係なく無自覚に独占している女の子だったり、日本代表レベルの数学のエリートと国家権力を行使できる良家の話だったり。だから一見、誰にでも起こりうる問題を、普通の人達が工夫したり協力したりして解決する物語に見えつつ、キャラクターたちが元々持っていた既得権を自覚的に行使するだけの話だったりする。だから僕は自分が細田作品の中に描かれない、いることが出来ない脇役なんだろうなといつも思う。


「おおかみこども」も同様で、一見、高度成長社会からドロップアウトせざるを得ない二人の子供抱えたシングルマザーの苦労話に見えるし、それは社会的弱者の味方に思わせる。でも違う。


この母親は、おおかみおとこの子供を二人も抱えた異常な状態でありながら、普通の母親が抱える苦労以上のことをほとんどしてない。一回だけ子供相談所が玄関まで押しかけてくるけど、せいぜいそれぐらい。普通の子育ての苦労を普通になぞる。田舎に打開策を求めて逃げていくけど、田舎でも特に迫害もなく割とすんなり受け入れられちゃう。生活のための苦労がたくさん描かれているようで、実際は夫の生前の貯金を切り崩しているだけだったりする。異形の子供を抱える必然性とかやばさとか恐れみたいなのは、想像の範疇を一度も超えない。母親の孤独感と努力、万能感だけが積み重なっていく。


どんな逆境でも子供は育つし、逆境の中でなるべく多くの選択肢を持たせるのは親の役目だし、生きてることはそれだけで美しい。そういう当たり前のメッセージはよくわかる。でもそれって主人公たちがもっと社会的に追い込まれて逃げ場がなくなってからじゃないと、せっかくの「おおかみこども」の設定が活きないんじゃないかな。手塚治虫の「きりひと讃歌」みたいに、生肉を食べないといられなくなるとか、全身が毛深くなってどんどん狼っぽい顔つきになってくるとか、そういう隠しようのない生態と、それを受け入れられない社会の目と両方があって、当たり前のメッセージと自然の美しさみたいなのがもっともっと輝くんじゃないかって思う。でも細田監督が描くしんどさは、家族内の問題にとどまってしまう。


でも最初に戻るけど、子どもと自然がキラキラしてて、人間と狼のどっちの人生を選ぼうがどん詰まりな未来は決まってて、それでも生きていく事自体が美しいんだよ! っていう細田監督の今回の気分と、そこに費やした絵や音の最新最高の表現力、あともうひとつアニメの記号的な感情表現をほとんど廃していることに関しては、なんだか馬鹿馬鹿しいくらいに裸で全身全霊、テクニックとか理屈とかややどうでも良くなりかけるそういう魅力にあふれている。それを皆は一緒くたに「感動しました」って言葉で済ませちゃうのかもしれないけど。


強い表現力があればあるほど、その人の人格だとか常識にまっこうから向かい合わざるをえないってのは、結局のところ誰とも100%わかり合うことなんてないっていう事実をつきつける。作家であろうと観客であろうとそれぞれがそれぞれのメッセージ(信条)を明示して、誰かの示した正解じゃなく、自力で自分の人生を生きていくべきっていうブーメランとして返ってくる。だから「感動しました」「つまんなかった」って風にはならなくて「あなたはそうですか、僕は僕の人生を歩いていきます」みたいな、そんな喜怒哀楽のどれでもない不思議な顔になって僕は今日、映画館を出たのであった。いろんな人の意見が聞きたい。