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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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お葬式


日本に帰ってすぐにとんぼ返りする予定だったのだけど、1週間滞在を延ばした。おばあちゃんの容態がよくなかったからだ。


帰国してすぐに病院に会いに行ったら、もう口が利けなかった。でも耳元で大きな声で話すとかろうじて「あー」とか反応をしてくれる。でも半開きの目はうつろ。一ヶ月前にあれだけ普通に話せていたのに、よくわからない。管がいっぱいつながっていて、呼吸が苦しそうで、でも何も言えなくて。会ったこともない親戚が後から後から病室にやってきては消えて行った。


会社に日本滞在を延ばしたいと連絡をしたその夜に、おばあちゃんは亡くなってしまった。2:42頃だった。翌日おばあちゃんちに行くと、夏なので、たくさんのドライアイスに囲まれて、おばあちゃんは寝ていた。顔を見るとあの苦しそうな顔じゃなかったので、楽になってよかったと思った。


実は僕は物心ついてから親しい人の葬式に出たことがない。そのせいか死というものがよく分からない。葬式は、死んだものを尊ぶ儀式であると同時に、残された遺族の気持ちを短い時間で整理するために必要な儀式なんだろうなっていうのは想像がついた。


涙は何度も出た。


人の形をして、人のように布団の中にいるその姿を見ていると、死がまるで嘘のように感じられ、感覚が麻痺していく。体に触れてみて、体温がなくたって、それはおばあちゃんなのだと感じる。涙が出るのはそう言うときじゃない。「それはもう物体なのだ」と他者に気づかされるときだ。


死に化粧をするスタッフが、こけた頬を生前に近くしようと綿を詰めた。でもそれは僕らの知っているおばあちゃんの顔に思えなかったので、やめて欲しいと言った。そしたらその場で口から綿を引き出した。


また、棺に納めているとき、三途の川を渡るための道具を体に合わせていると「体液が出てしまっているようなので、これは私のほうで留めさせていただきます」と言われた。


つらくて涙が出た。そこにいるのは「まだ」おばあちゃんだと信じたい自分がいるから。


それに比べると、葬式や火葬自体はずいぶんと形式的な意味合いが大きく感じられ、僕にとってはどうでもよかった。お世話になった人やお世話をしてくれた人に忍ばれる機会としての価値はあるけど、それで何かが変わるかといえば、その人たちの涙によって、死が多角的に遺族を囲み、そして数々の段階によって、すごい勢いで「終わったこと」に向かわせるための精神的な通過儀礼なのだと思う。


火葬場のあんなデパートのエレベーターみたいなところに入って1時間経って出てくると、なんかちっぽけな骨の集まりになってしまったけど、人型とはっきり分かる形じゃないせいか、その骨を拾っても少しも悲しくはなかった。火葬場のおじさんがほうきとちりとりで骨を集めて、説明をした。つまらない手品を見ているか、流木みたいだなと思ったりした。遺影もすばらしくおばあちゃんらしいいい写真だったけど、僕は死に顔のほうを覚えていようと思った。いつか自分が確実に忘れてしまうことをわかっているから。


おじいちゃんはボケかかっていたが、最近近所の老人ホームに通うようになってからむしろ以前より若返った。老人ホームで作ったビーズの首飾りを、おばあちゃんの腕に巻いたことをうれしそうに何度も何度も何度もみんなに説明した。死に顔を見て「きれいな顔だな」と言った。おじいちゃんはみんながいる前で激しく泣いたりしなかった。棺をのぞきこむその穏やかな顔は、親族の誰よりもすべて大きく包み込むかのように感じられた。


夜、眠るために電気を消すと、そのたびに涙があふれてきた。フツーの生活はフツーにできる。お笑いを見ればゲラゲラ笑うし、別に頭が真っ白になってボーっとするわけでもない。でも電気が消えると、途端に整理がつかない気持ちがあふれて涙に変わった。それは悲しいかどうかさえわからない涙だった。


日が経って、なんとなくまとまりかけている気持ちとしては、人は生まれた以上、誰しも毎日少しずつ確実に死に向かっているんだから、その死に耐えうるだけの毎日、見合うだけの毎日をちゃんと「活きないと」いけないということ。


言葉にすると安いけど、今はそう思っている。