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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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絶えずやんわりと繋がってる感覚

takanabe2004-07-01



大学時代、まだ携帯電話は一般的じゃなくて、活動的な人だけがポケベルを持っていた。僕は工業デザインを学びながら、「あと何年かするとみんながみんな携帯電話を持ち歩いて、いつどこにいても話ができるようなそんな時代になるんだろうか」と思っていた。そん時の感触はNOだった。理由は明解。今すぐ伝えたいこともそんな相手もいなかったから。そして現在、僕はなんとなく携帯を持って歩いているけど、まず電話なんか掛けないし、メールも嫌い。もっぱら仕事用で受信専用です。


美大の先生がこんなことを言っていた。工業デザインは生活を便利にしたり、豊かにするために存在するんだけど、時にデザインは、生活スタイル自体を「教育」してしまう側面を持っているのだ、と。たとえば「テレビのリモコン」。これはテレビのチャンネルを、テレビのそばまで歩いていかずとも変えることができたらなーと思って作られたものだ。で、みんな便利に思って普及した。その結果、昔はそんなに頻繁に変えるつもりがなかったチャンネルを、かなりの回数、コントロールするようになった。番組がつまらなくなればすぐ変える。CMの間だけ一巡してみる。2つの番組を交互に見比べる。これらはリモコンがなかった時代にはあまり考えられなかった視聴スタイルのはず。でも今ではこちらの方がスタンダードになってしまっている。


携帯電話を「必要」に迫られて買った人がどれぐらいいるのかは分からない。でもみんながみんな持っていることを前提にしたときに、便利な道具に使われ方を誘導されたり、それによって生活スタイル自体が変化していく部分ってのがある。電車に乗って降りる駅までずっとメールに返信しているとか、待ち合わせの場所を細かく指定しなくても会えるようになるとか、ストーカーみたいに恋人の行動を逐一報告しないといけない相手が現れたりとか。


最近感じたのはmixiの繋がっている感。僕は8年近く自分のホームページを更新しているんだけど、mixiに入っているそれぞれの要素って、全然新しいものはなくて、日記だったり、プロフィールだったり、リンク集だったり、趣味をつなぐコミュニティだったりする。その、友達同士をつなぐ網を視覚化しつつ、その視覚化した網の上の人が発信する何かを一元化された掲示板のように受け取れるっていう見せ方の新しさだけのものなのに、実際に受け取る感覚は、会社で隣のブースに仲間がいるんじゃないかってぐらいに近い距離感。ホームページでやっていたコミュニケーションは知人とそうじゃない人たちが半々ぐらいの割合だったんだけど、それは今でも顔がない人たちと、それなりに離れた場所で話している感じがしている。ホームページは僕が帰ってくる場所じゃなくて、僕にとっても出向く場所のイメージ。出向いて置いてくるというか。だけどmixiは僕が生きている世界=コミュニティそのものが視覚化されている場所なので、なんか温度みたいなものを感じる。いつも絶えずやんわりと繋がっている感覚。僕は携帯でメールもしないんで余計その印象が強く感じたのかもしれないけど。


たとえば明日僕が死んでしまったとして、僕のホームページやmixiのページは、そのまま放置される。僕の内部が保存されているのはホームページだろうし、僕を取り巻く世界(コミュニティ)や、世界(コミュニティ)から見た僕の断片を感じられるのはmixiなんだろうなーって思う。これって何の代用なんだろう。年賀状やお歳暮や暑中見舞いが近いかも。オフ会って言葉が僕は嫌いだけど、ホームページでは損なわれていてmixiではできてるものというと、オフ会が補っているコミュニケーションの温度が近いのかも。それぞれが違う場所で同じ時間を生きて、ときどき接するという感覚。接している部分は点なのに、点と点を結ぶことで、あたかも同じ時間を共有したかのような感覚。


携帯電話がまだ未知のものだったとき、「いつも誰かと繋がってないと不安」みたいな時代になったらやだなー、と思っていて、それは現実のものになったんだけど、30歳をすぎて、仕事と家庭と睡眠だけで24時間がパンパンな今は、やんわり繋がる隙や方法があるなら、いくらでも繋がっておきたいもんなんだなーと思うようになってきたよ。それは代替物でしかないのかもしれないけど、まったくそれがないよりはきっとちょっとシアワセ。