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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「巨人のドシン1(ロクヨンDD用ソフト)」

takanabe2000-01-16



2000年現在、ゲームってもうちょいってところでまだ止まっている気がするのね。例えば、コマーシャルでやっているみたいな「映画みたいな」壮大なゲーム。そういうのを見る度にがっくりしちゃう。だって映画見ればいいじゃん、それだったら。ゲームはゲームでしか味わえない「何か」の為にあるのであって、そこにはまだ誰も体験したことのないものがたくさんたくさん詰まっているはずだし、短いサイクルで最先端技術が惜し気もなくつぎ込まれている現在、その価値や可能性が最もあるジャンルだとみんなが感じているはずなんだよね。


じゃあゲームでしか、味わえないものを端的に言うとなんでしょう。一つは「新しい場の提供」です。オセロや将棋に見られるようにそのルールを共有することで、誰もが一度対等の関係になり、同じ時間を楽しく過ごせるということ。またベーゴマ、メンコにも見られるように、同じルールを守ることを前提に、それぞれのツールを交換したり、カスタマイズしたりっていう創意工夫の軸を加えたりって言う方向もあります。これは任天堂が主に「ポケットモンスター(参考)」などを通じて目指しているヴィジョンですね。


それともう一つ。「ゴミを出さずに異世界の来訪者になれる」こと。あるいは「体験そのものをつくりだす」こと。一昔前の言葉で言えば「ヴァーチャル・リアリティ」ってことになるかも知れません。画像の上では実写に迫るクオリティもそろそろ見えてきた今日この頃ですが、僕が言いたいのは解像度的なCGの話しでも、自然現象のシミュレーション的な再現性のことでもなく、純粋に異世界に「触れること」を目指すベクトル。


これはねー、テーマが短く端的なほどいい感じ。壮大な物語とかエンディングとか一切不要。映画と間違うはずなんかないですよ。例えば「通常の何百倍もの脚力でジャンプができるようになるゲーム」とか「何にも乗り物に乗らないで空を自由に飛びまわるゲーム」とか「数センチの小人になって自分の部屋を探検するゲーム」とかね。そこにはダイナミックな体験とそれに伴った表現や演出があっても、根本的に映画とは違うものでしょう?


でもね、そっち側の代表選手ってなかなか現われなかったんですよ。それもまた映画と比べられる要因の一つだったと思うんだ。「ピカチュウ元気でチュウ」とか「シーマン」とか「どこでもいっしょ」みたいな「ペットと話してみたい」っていうような方向性が脚光を浴びたりしたのはホント最近のことで、それまではせいぜい市長になって街を盛りたてるシミュレーションをしたり、熱帯魚を育てたり、牧場主になって育てたサラブレッドでG1優勝したり、ちょっと毛色が違っても神様になって、別の宗教を信じる人間を絶滅に追い込むまで虐殺したりとかっていうかなり殺伐とした感じだったりとかね。


でもやっと出ました。つうかずっとずっとこれを待ってた。それがこの「巨人のドシン1」ですよ。三年越しでロクヨンDD(参考)を待ちこがれた僕の、待ちくたびれた理想のコイビトのような新しいおもちゃ!


これがどんなおもちゃかというと実は説明がものすごく難しい。パッケージにはジャンル説明として「ア・ゲサ・ゲーム南国風」なんて書いてある。これはその辺の気持ちを巧みについた一種のいじわる、あるいは照れ隠しの愛嬌なんだろう。「全く新しいゲーム!」って書きたくないんだろうね。


プレイヤーは南国の島で黄色い巨人を操作する。島には原始的な人間達が住んでいる。巨人はその人間達に住み易いように、島の地面を引っ張って盛り上げたり、ジャンプしてへこませたり(つまりアゲサゲ)、文明を築き上げる力の源である「木」を運んできてあげたり、竜巻や山火事などの災害から島民達を守ったりする。巨人は最初、人間達の3倍程度の身長しかなく、力もさほど強くないんだけど、島民達に親切にする度に「ハート」がもらえて、それが一定量集まるとぐぐーん!っと体が大きくなる。何度か体を大きくしていくと、ついにはその体は画面からもはみ出してしまう。歩く速さも、ものを持ち上げる力もどんどん大きくなる代わりに、足下が見づらくなって、ちょっと気を抜くと島民達の家を壊してしまったり、島民そのものを踏み殺してしまったり!


諸刃の剣ってコトバがあるように、このゲームには最初からそんな哲学的なジレンマを組み込んでいる。「いい巨人」を気取って、島民に親切することに飽きてしまったら、真っ赤な「悪の巨人」に変身して破壊の限りを尽くしたり、島民無視で、延々散歩を繰り返したりも自由。


その操作には一切説明がいらない。この手のゲームにありがちな画面端に意味不明のアイコンずらーりって言うのもないし、状態を常にチェックするバロメーターもない。電源スイッチを入れて、コントローラーを握ったら、自分が感じるように好きなように歩き出せばいい。あとはナレーションが適当なタイミングで操作を教えてくれるんだ。島の語り部であるおじいさんの声を借りてナレーションされるんだけど、落ち着きのあるいい声。「あぁ、そういえばこんなことを巨人ができるってことを思い出したんだけど、なんならやってみるのもいいかもね」って具合の不思議な言い回し。これがまたいいんだ。やさしい気持ちになる。


体が大きくなったり、つまづいて転びそうになったりする度に今度は囁くような女の人の声がする。この声の役どころははっきりしないんだけど、アフレコは緒川たまきが担当しています。感情を抑えた平坦な声色で「おっきくなったね(語尾ハート)」とか「わぁ、すっごい(同)」とか「あ、あぶない!」って言ったりする。これが若い男の子にとってどういう価値があるかって言うのは、えーっと、言わずもがなですな。


ゲーム自体は何があろうと30分で1プレイが終わる。それは島の日の出から日の入りに対応していて、日の出と共に新しい巨人が海から現れ、日の入りと共に巨人は動きを止め、冷えて固まってしまう。どんな大きくなっても次にプレイするときには、小さな最初の巨人に戻っているわけです。


で、すごいのは、次のプレイするまでの空白の時間。これが同じようにゲームの中でも流れるづけているんです。ちょっと忙しくて1週間ぶりに島に戻ったりするともう大変。島の夜明けをバックに、いなかった空白の時間に島で起こったことを 誰かの日記として 延々読むことになる。「巨人が消えてから6日目」「家が焼けちゃったウェルダン」とか「木が増えたような気がする」「お腹空いたな」とかね。最後には「あーあ、今日もアイツ現れないかな」とまで言っていたりとか。


その時に起こる感覚、または久しぶりに村を訪れたときに島民が投げかけてくる愛(ハートマーク)に、何とも言えない感情が体を吹き抜けていく。それは「今まで放っておいてゴメンね」だったり、「また帰ってきたよ、ただいま」だったり、「今日はどうだい? いい一日かい?」が混じり合ったそんな気持ち。いつのまにか巨人と一体化している自分に気づく。


それはあたたかくて、やさしい気持ち。映画じゃない入れ物でしか味わえない体験。触っていないのに、触ることができているような、そんな気持ちのやり取り。


ゲームとしての目的はある。島民達の生活を手伝い、文化レベルを上げていくと島民達は「モニュメント」と呼ばれる建築物をつくる。モニュメントは村を構成する人種の混じり具合や、その他の条件によって16種類に分類されるので、そのすべてのモニュメントを島民が作ったとき、島には「なにかすごいこと」が起こるとされている。


でも、そんなのは「とりあえず」の理由付けでしかない。だってこの島には、巨人としての自分がそこに存在するだけで、なんだかウキウキしちゃうぐらいに楽しくて、何度日が沈んで「今日はここまで。また遊んでね」って緒川たまきに言われても、えーもう終わりー!? もっとー!ってなって、すぐさま2回目、3回目のプレイをはじめちゃうんだよな。


なぜなら、そこにやさしい空気があるからだ、としか言えない。効果音を含めた音楽、画面の端に現れるちょっとしたタイトルロゴ、島民達のプリミティヴな反応。木々のざわめき、波を蹴る音、遠くに羽ばたいていく鳥達。突然に盛り上がり噴火を始める活火山。今までのゲームにはまっていたときの「楽しいんだけど、動作がや気持ちがどんどん機械的になって、感情がどんどん切り捨てられていく感じ」がここには全くない。むしろ日々の生活よりやさしく温かかも!なんていう危険で甘い錯覚まで起こしそう。


「ゲームに触れたことのない人にこそ〜」っていうのは僕の常套句だけれども、自信を持ってそう言える新しいおもちゃがやっと現れたよ。会員制ゆえ、まだ5万人ほどしか体験していないこのゲームを、嫌って言うほどみんなに触らせたくて仕方ない。僕的には「ゼルダの伝説 時のオカリナ(参考)」と双璧で、テレビゲームっていう入れ物が作ったすばらしい到達点のひとつだと思います。今すぐぼくんちに遊びにおいで。