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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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CD「JUMP UP」スーパーカー

JUMP UP

JUMP UP

10代の頃、僕のなりたかったものと言えばずばり「老人」だった。今思うと笑ってしまうんだけど、本気でそう思っていた。「若さ」は僕にとって邪魔で仕方なかった。年が若く経験が浅いと言うだけで、周囲が暗黙のうちに「元気で無鉄砲」な姿や「純粋ですがすがしい」感じを求めてくるのが嫌で仕方がなかった。なぜ若者は「薄着で大はしゃぎ」してなきゃならないのか、料理で言うとカレーやハンバーグのような明解さを求められるのか。色で言えば、はっきりした原色に近づかなきゃいけないのか。少しも納得できた試しがなかった。僕はもっとくたびれたシャツや夕焼けの持つ中間色や、昼とも夜ともつかない食事や、浮ついた春先の空気なんかの方が、ずっと日常的で本質的なことのように思えた。


しかし一方でデザインという表現手段を手にしていながら、それを強く打ち出せないでいる自分に腹が立っていた。「曖昧さ」や「矛盾」をあえて美徳と掲げる人たちもいるにはいた。でも彼らのやっていることには「甘え」と時には勘合するくらいに背中合わせな表現で、時にはそれ自身とすり替わっているようにさえ見えた。僕はやるせない苛立ちの中で、これを解決し自分のものとしてくれるのはただ膨大な時間で濾過した視線しかないだろうと思った。


で、話は変わって、去年リリースされたAIRの「USUAL TONES OF VOICE」がすごく好き。前作までの「今までの自分を否定しようとする破壊衝動」や「悲痛なくらいに暴力的な叫び」を過ぎて、平熱の普段の自分のままの声や空気で、同じかそれ以上の熱量をそこに感じることができた。やさしさと揺るぎない強さ、そして誰かのためじゃないリアリティが、強く僕を揺さぶった。あの日僕が感じていた温度や色や味を、ちゃんと表現してくれる人が現れたなぁ、とうれしく思った。


で、時代は1999年を迎える。期待の新人バンドのスーパーカーがセカンドアルバムを出した。彼らと言えば19才でデビューしてさわやかなギターポップと詞の内容で、10代のココロを鷲掴みにしたわけだけど、そんな賞賛をよそに当時こんなことを言っていた。


ギターポップは数ある引き出しのうちのひとつでしかない」
「ずっと音楽を続けたいとは思わない。ただ今は音楽が楽しい」


捉えようによっては10代特有の強がりにも見える。でもシングル「LUCKY」や「DRIVE」に見る若さに溢れたみずみずしい世界は、アルバム全体から感じられる「PLANET」や「AUTOMATIC WING」などから喚起させるやさしさとそこはかとない虚脱感からは、いささか居心地が悪く思えた。誰かのためにニュートラルな自分を押さえ込んで「10代でデビューした期待のバンド」像にどこか必死になって答えているみたいにさえ映ったのだ。


2つの転機とも取れるシングル「SUNDAY PEOPLE」「MY GIRL」を経て届けられた今作は、その前作では伝えることのできなかったスーパーカーの本質的な部分が溢れる良作になった。全編にかぶせられたレコードノイズ、切ってつなぎ合わせたリズムトラック、ピコピコしたスペースサウンド、すっかすかなアレンジ。しかしそこから感じられるのは音による圧倒的な映像喚起力と、溢れるやさしさ、そして揺るぎのない強さだ。まるで雨の日を共に楽しむコイビトに出会ったような感じ。前作のようなアップテンポな曲はひとつもなく、飛び跳ねるようだったミキちゃんの声もすっかり世界の一部として音になじんでいる。めざましい成長を遂げたにもかかわらず、ジュンジの詞のシニカルさやすれっからしな虚無感さえ包み込むナカコウの楽曲は、やさしい肯定の力が溢れている。


人によっては「どうして、こんなに(音楽的)に中途半端なものをつくったんだろう」とか「早い曲がないなんて盛り上がらない」なんて思うかも知れない。でも僕はこの音から浮かび上がる様々な風景を前に、あの日手に入れたかった世界を、彼らはオンタイムで手にしてしまったんだなぁとうらやましく思った。僕に必要だったのはむやみに膨大な時間の濾過ではなく、ニュートラルな自分の視線を信じることと、それにぶつかる他人を受け入れるやさしさの両立だった。


スーパーカーの魅力というのは、大したコトバも交わさずに共に歩いていける「バンドという場所」の獲得と、あの日そうなりたかった自分への憧れそのものなのかも知れない。