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ゲーム「ゼルダの伝説 時のオカリナ」

ゼルダの伝説 時のオカリナ

ゼルダの伝説 時のオカリナ

ゲームの将来を考えたときにそこに並ぶ数々の難問は、これからの時代をより豊かにしていくための道具において必要な工夫に他なりません。例えば、ボタン操作一つをとっても、画面の向こうを直感的に操ることは日常、キャッシュディスペンサーやビデオ録画や電子レンジの便利さにも繋がることだし、自分の決めたコマンドに対して、確信を持てるレスポンス(反応:例えば「ピッ!」って音がするとか)があることも、ゲームと道具を結ぶ大事な要素だと思います。


モノとしてのゲームがすばらしいところはその目的に近づくための便利さは当然のこととして、何よりユーザーに爽快感や充足感を与えるために存在していると言うところ。どんなに便利で直感的な操作感だって、かっこよくなかったり楽しくないモノは誰も見向きもしないという点がシビアですげえとこなんだわね。


ゲームの仕組みそのものが高度複雑化した98年という現在は、3次元化により現実とほぼ同じ空間を得た自由世界の中で「何をどうさせたいか」「何ができ、何ができないのか」「何が図で、何が地なのか」という点が不明瞭なまま、ハードの性能だけが飛躍的に進歩していくという悪循環の中にいる時期だと僕は考えています。ホントは何でもかんでも自由にできるはずだった夢の空間が画面の向こうに存在するはずなのに、その世界独特の恣意性を持ったデザイン(例えば道路標識のようなもの)が確立されてないせいで、悪戯にゲームというものが煩雑化してしまい、単純にゲームを楽しみたかったユーザー層が徐々に市場から離れつつあります。


その中で打算的ともとれるアプローチが「超豪華な紙芝居」という手法。「ファイナルファンタジー7」なんかがその旗手ですけど、3次元自由空間はもう演出のための一手段なんだと割り切って、ユーザーの行う操作は前時代の2次元のまま。自由なフィールドとシナリオと言っても、一枚絵の中の線状の変化で十分という考え方。映画の模倣として歩み寄っていくやり方ですね。そしてそれは見た目の派手さと相まって爆発的なヒットを生んだのでした。


しかしせっかく得た自由空間をホントの意味で生かした作品というのは今日という日までニンテンドウ64の「スーパーマリオ64」というソフトしか存在しなかったと僕は考えています。完全につくり込まれた3次元の箱庭の中で、マリオはホントに自由に「ストーリーとは無関係のお城の堀に飛び込んでみたり」「与えられた課題とは関係ない場所に行って違った発見をしてみたり」「ただひたすら空を飛ぶことに延々興じてみたり」できたのです。でもそれでさえ、3次元の自由さを借りた研究発表の線を越えることができませんでした。「スーパーマリオ64」はほかのどのソフトより3次元の中で広がる可能性を追求した優れたソフトでしょう。しかしそれが誰の目にもエンターテイメントであり得たかというと少々の疑問が残ります。


それはユーザーがマリオの操作に対して考えなくてはいけない割合が多すぎたという点です。例えばゲームの中で立て看板を読もうとする。「読む」はBボタンだから立て看板の前に立って押してみる。でも立て看板に対しての角度が、コンピューターにとってよろしくないと「読む」ではなく「パンチ」として処理され、マリオは敵もいないのに何度もシャドーボクシングを繰り返すことになります。巨大なクッパに立ち向かう時も、マリオはすばやく後ろに回り込んでしっぽをつかみたいのに、少々の角度が処理に不適切なためにやっぱりシャドーボクシング。ほかにも次々にジャンプしていきたい場所にも、カメラが気を利かせて回り込むせいで、予想外の方向にマリオが飛んでいってしまい、苦労して登ってきた今までの時間と労力を水の泡にしてくれたりと、ゲームにちりばめられた謎やパズルを解くおもしろさより、それ以前の部分で挫折してしまった人は全国にごまんといるでしょう。単純にカメラの回り込みだけで酔ってしまう人もその半分ぐらいいたかも知れません。


で、ニンテンドウ64、3年目にして放つこの「ゼルダの伝説」に話しがやっと行くわけですが、このすばらしさには目から鱗が落ちる思いでした。もうホント、このページのこの紹介も写真だけ貼って「すばらしいからやってください」とだけ書いておこうかと思うくらい「次世代機戦争」と呼ばれた32ビット機以降のゲームの在り方をすべて総括してしまうような完璧さ。「これがゲーム、これこそゲーム」とか勝手にコピーとかつけたくなる感じ。


ロールプレイングゲーム」っていうジャンルがありますね。大抵の場合「ドラゴンクエスト」や「ファイナルファンタジー」みたいな「物語があって」「パラメーターがあって」「大きなフィールドを旅する」みたいなモノを指して言うことが多いですが、そもそもは「役割を演じるゲーム」という意味です。画面の向こうでその気になれるゲームっていう意味では、この「ゼルダの伝説」は「世界で初めての3次元ロールプレイングゲーム」かも知れない。


まず操作がものすごく洗練されている。基本的にはマリオの延長なんですが、シャドーボクシング状態が起きないように「Z注目システム」という発明が生まれました。これは、自分の前方にいるモノや怪物や人に視線をロックするシステムです。このおかげで、自分の方に向いていない人を振り向かせて話したり、崖を登る敵にも確実に弓を射ったり、敵の攻撃を左右に避けつつも、体を敵の方に向けて攻撃の隙を狙ったりと、かなり高度なアクションがとれるようになりました。問題のジャンプも、アクションゲーム初かと思うような「ジャンプボタンなし」という離れ業で難なくクリア。ちょっぴりの助走で自動的に崖やなんかを飛び越えてくれるのです。その2つの発明のおかげでプレイヤーは操作性に頭を使うことなく、純粋にそこに込められた謎やパズルやメッセージに没頭できるようになりました。


そしてその謎やパズルに対しても、すばらしい工夫がてんこ盛り。謎を解くゲームなので、話を進めていくと必ず行き詰まります。でもそこに置かれた選択肢というのがものすごく明解。コトバによるヒントはほとんどなく、画面の中に隠された記号をユーザーのひらめきで組み合わせるだけで、必ず道が開けるという、おそらく世界初のビジュアルコミュニケーションを実現しています。「したいと思ったことをためしてみればいい」と開発者の宮本茂は言いました。ホントにそう。他のゲームと違って「何が地で何が図なのか」がはっきりしているので「したいことをする」っていうことがちゃんと選択できるんです。これって、もう大抵の電化製品やなんかをゆうに越えちゃっていると思うよ。


見た目重視なマニア君たちも充分うならせるほど、質感豊かな演出も目を見張ります。日が暮れて月が昇り、やがて空が白んでいくさまなんて、もう外で遊んで徹夜した時の空気の湿り気とか思い出して涙が出そうになった。フィールド上で触れないモノなんてほとんどないしね。広野を歩きながら、白んできた空の下で城の跳ね橋が 遠く静かに降りていくところとか、完全に現実。もう僕はこの世界の住人になってしまいたいくらいです。


シェアの奪い合いばかりに論点がいっているゲーム業界だけど、中身のない数字の争いは早く終わればいいと思う。ゲームにはまだ未知数の可能性が無限に秘められていて、その可能性を真剣に模索せずに人気ゲームの模倣と、無意味なスペックの向上ばかりを繰り返していては、テレビゲームのみならず、道具の未来(イコール「楽しく快適な生活」)そのものが閉鎖的なモノになってしまう。そんな時代に3年もの期間を費やし、満を持してこのゲームを届けてくれた任天堂は、ホントに信用していい会社なんだなと思った。僕はゲームが好きだ。