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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

写真と報告系表現。


こんにちわ。昨日「またしばらく空けるかも」とかほのめかしておきながら、もう復活。かなりいい加減ですみません。だって寝て起きたら気に掛けてた大事なことがダイジョブだったから、ホントうれしかったんだよ。


昨日の花についていくつか反応があったので、今日は写真について小さくまとめておきます。


僕にとっての写真のおもしろさは、一にも二にも「切り取る」おもしろさ。ただ漠然と生きているもやっとした「日常」を、ファインダーという構図で区切ってみて「あ」と思う瞬間にシャッターでカシャッと切り取るだけで、今まで意味をなさなかった風景に何らかのイメージや、メッセージを込められる点。悪く言えば誰でもお手軽に「表現」できちゃうとこ。


でも表現の原点はそこに全部詰まっているんだわね。何かに「あ」って思えるある種の神がかり的な気持ち、あるいは既視感。その瞬間を逃さずにすぐさまパッケージできるリズム感とスピード、そしてそれが起こるときにちゃんと自分が遭遇できたって言う「事故体質」、または才能? 僕の想像する「表現」にはそのどれもが欠かせなくて、その全部が一番わかりやすく詰まっているのが「写真」というメディアだと思うわけ。


ヒロミックスってカメラマンがいますね。雑誌「ロッキングオン・ジャパン」とかで割と有名で、僕はデビュー当時からのファンですが。あの人ってまず女子高生で、しかもポケットカメラの「ビッグミニ」で写真家ってとこがエポックメイキングだったんだけど、彼女の登場で「写真」っていう表現に対する定義は、一般的にも大きく変わったよね。それは写真が「一瞬を切り取り、丹念に磨き込んだ末に表れた奇跡」じゃなくて、「その日そこでそれを見ていた私」という報告系の記録に変わったって事だった。ゲーム機「プリント倶楽部」のブームを見てもわかるとおり、退屈な日常を異化し、写真に切り取った毎日で記念日化して羅列することで、社会的自分像を外側から再構築させるっていう行為。でも同時にこれは間違った発想のヒロミックス・フォロワーをたくさん生むことになった。それは「日記」を「表現」と取り違えてしまった彼女たちの傲慢さのせいなんだけど。


ヒロミックスがそんな人たちと違ったのは、日常を切り取る自分に酔っていない点だ。そこに写されているモノやヒトの完成度は必ずしも高いとは言えない。むしろその前後の時間のドラマを想像させるような空気や間合いを大事にしている。写真にはいつもファインダーのこちら側にいる「私」の意志がちらつく。その不完全さや、お手軽っぽさをとって、フォロワーたちがどっとあふれたんだろうけど、僕の目に映るヒロミックスの写真は、表現者としての冷たい視線をあらかじめ持った人の余興といった感じ。漫画家がさらさらっとマジックで描いたラフのようなイメージ。そのラフさは計算づくの果てに現れたモノに感じるんだわね。


「報告系表現」をちゃんと成立させちゃった点。僕も目指しているのでかなりジェラシーですが。たとえば大抵のホームページにも当てはまるんだけど、その「表現」意識のあるないは、ホントに大きな違い。「あ」と思って「シャッターを切る」までは、人差し指があれば誰でもできるんですよ。そしてそこにたまたま何かいいモノが写っていることも、割と普通によくある。でもそれを撮ったときの高ぶった気持ちのままで「どう? いいでしょ?」って言われても困るんだよね。ファインダーをのぞき込んだ時のその人の気持ちになれるほど、そこに何かがめいっぱい詰まってるなら別だけど、ただ写っているその「意味を成さないかも知れない何か」に向かって冷静な気持ちで、誰でも「何かがある」って感じられるか判断できるのは、全く別の才能だからね。


話しがかなりオーバードライブしてしまいました。病み上がりなんで変な部分で興奮気味です。短くまとめると「写真はお手軽に試せる表現だけど、そのお手軽さに甘えないでいくのはなかなかセンスがいるなぁ」ってとこでしょうか。そしてそれはお手軽にできる表現手段が溢れる今日現在、かなり大事な心構えなんじゃないかと思います。


僕はそういう狭間にゆらゆらしている自分が結構好きです。えへ、ずるいでしょ。ホームページはその境界線の実験場。だから日記は書かないし、悩み事やグチを並べたりもしないんだ。だって普通に考えて、僕が今日何を食べたかとか、カラオケで何を歌ったかなんて興味ないと思うのね。僕が年頃の女の子だったら、それでもかまってもらえるのかもしんないけどね。


あー、でもこのページが新しくなってからはずいぶん甘えたことも書いてる気もするねぇ。エッセイとか青臭くてホントは嫌いなんだよ。でも「パーソナル」がテーマだから、まいっか。