「受け止める」だとか「受け入れる」という言葉を、精神的な高みから出る「許し」と「自立」「共生」のことだと思っていた。違った。それは自分が社会や世界から拒絶されたくない時のひ弱な叫びと背中合わせだった。
寄り掛かられたときに支えきれないんだったら、両手を広げて見せるべきじゃない、と言うのは真実だと思う。ほとんどすべての優しさは、可処分な暇と体力が生んだ「同情」と大差ないからだ。責任と覚悟を持たない「優しさ」は「優しさ」じゃなくて、責任と覚悟のなさから少しでも目を背けて逃れようとする代償行為だ。それは本質的に長期的にお互いを傷つける。
10代の頃からまったく変わってないんだけども、僕が弱ったとき、あるいは相手が弱ったとき、僕は何もしないし、何もしてほしくない。ただそばにいる。いて欲しい。励まさないし、同情もしないし、普段より優しくもしない。でも誰よりもそばにいる。約束できない未来の話も、気持ちが後ろに向く過去の話もしない。いつもと同じ姿でそこで待ってて欲しい。自分がどれくらいの崖の下にいるのか、自分の力で這い上がろうとする気持ちがあるのか、あとどれだけのアクションでそこに届くのかを、あなたが動かずにいつもの場所にいてくれることで、僕はそれを異常な世界の海に射す灯台の明かりのように唯一のガイドとして認識する事が出来る。
僕が知る「優しさ」ってのはそういうもの。自分の弱さに自分で気づいて、それでももう一歩前に進みたいって思えるきっかけを、自分で自分の中に生むこと。それを受け入れるまでの長い長い時間を、きちんと冷静に共有できるかどうかが、優しさの責任と覚悟なんだと思う。