GC「ギフトピア」はまんなからへんを越えたらしい。攻略本を買った。マップのどの部分にもイベントが盛りだくさんという密度の高さにすげーなーと感心する。「ストーリーのあるどうぶつの森」みたいに言われることが多いけど、確かに「続きがある」「昨日と違うことが起きる」ってのは、ゲームを続けてやる上で大きな動機のひとつになる。「どうぶつの森」は一度その世界を離れちゃうとあんまりやらなくなっちゃうし、プレーヤーのアクションもその世界を変化させるものより、維持させるためのものが多かったかも、と思った。ギフトピアのじんわりと広がっていくマップや、昨日までは遊べなかった時間帯のイベントをやって、新しい景色ってやっぱうれしいもんな、と思った。
久々に「おはスタ」を見た。ダンディ坂野とはなわが出ていた。おはガールがなんと三人になっていた。リストラだろうか。ダンディとはなわはネタ対決させられた上、おはガールに二人ともダメ出しを食らっていた。怪人ゾナーはポカスカジャンと組まされてポカスカジャンZとかになっていた。わけわからん。
僕がドラマやストーリーのことを語るときに良く使う単語の「ディスコミュニケーション」っていうのは、「コミュニケーション」という言葉が「相互理解」を指すことに対し、次のような意味合いで使っています。
・分かり合えないのを前提に分かろうとする話。
・分かろうとして分かった気になって、何も分かってなかったって話。
山本直樹の漫画とか、映画「シンク」とか、岡崎京子の漫画とか、スーパーカーや松崎ナオの歌の歌詞とか。なんと言うか90年代的なムードとも言える、無気力感。ただただああいうだるくて、胸がちょっとだけ痛むような感覚が好きです。理由はよく分かんないけどしっくりくるし、落ち着く。
いつもどこかを目指していて、でも正しいかどうかなんてたぶん死ぬまでわかんなくて、時々迷って振り返って、っていう割と前向きな部分と、そういうのを全部ひっくるめて「無意味だよ」って鼻で笑っちゃうっていう後ろ向きな部分が共存している、分かりやすいモラトリアムの空気と言うか。
たぶん僕は物語を見たり聞いたりことを通じて「反省」したいことがいっぱいあるんだと思う。「救われたい」「癒されたい」んじゃなくて「気づいて反省したい」。そういう感覚。なんなんだろね。
何を見て笑うかで、その人となりがわかる、なんてよく言う。
作品に何を求めるかってのもきっと人それぞれで、自分に欠けてたり、不足していたり、こっそり肯定されたいことなんかを、鏡のように代弁して欲しいんだと思う。