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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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正しさと公平さ


もういい加減ベテランだし、いいオトナなので、客観的な正しさや公平性みたいなものを求められると感じるシーンが少なくない。他の人がそういう場面でどうやってるか知らないけど、慣れる前までは自分が想像する理想のオトナを頭の中に召喚して、生理的な反射や好みの部分は可能な限りミュートして、そいつにしゃべらせていた。


でもふと我に返った。それって「僕」が言う必要のあること? 僕の中にそういう別の価値観の人がいるのは判断材料のひとつだからいいとして、本来の僕を差し置いてそいつに言わせてるのって、一体何なの?って思うようになった。


映画のレビューが載っているCinemaScapeというサイトに書いてあるコンセプトを幾度となく思い出す。

元来映画の好みは人それぞれで、客観的な評価は難しいものです。むしろ、主観的で思い入れの強いコメントの方が読んでいて面白く、しかも正直な意見として価値があるといえます。

つまり僕は、一般論的な意味での正しさ、公平さを重視するつもりで、主観や思い入れをスポイルさせて、見せ掛けの客観性を獲得したつもりでいたんだけど、それって、そもそも誰かのために役立ってるんだろうか。価値があるの?


「赤信号でも渡るってどうですか?」
「赤はそもそも今渡るなって意味だからね、渡るべきじゃないよね」


正しいし公平。でもそれ、僕のテンションがよくわかんないし、赤信号の意味をまったく理解してない人の説明としてしか役に立ってないよね。僕個人に意見を求めた時点で、一般論で受け答える必要なんかどこにもなかったんじゃないの? あ、打ち合わせで語尾に「と思います、個人的には」ってエクスキューズするやつが苦手だったのはそのせいか。じゃあ「個人的に」が付かないときの君は何者なの? そういう不確かさだ。


小津安二郎は言ったんだそうな。

「どうでもいいことは流行に従い、大事なことは道徳に従い、芸術のことは自分に従う」

名言だと思うけど、多分、僕らがいつも頭を悩ませているジャッジはこの「道徳」と「芸術」の間にあるグレーゾーン。客観と主観のせめぎあいだ。倫理と生理のせめぎあいでもある。


「赤信号でも渡るってどうですか?」
「赤は赤だからね、胸を張って行け!とは言えないけど、それで起こりうるすべてのリスクを背負って最初に渡ろうって人は好きだよ。一番まずいのは隣の人が歩き始めたからあたしも渡ったのに、見たら信号が赤で車に轢かれましたとか文句言う人。それって判断力も責任感もないもんね。でもそういうミスリードによる事故が0.001%含まれるとしても、赤信号だからって物理的に全員が渡れなくなる道路にするっていう設計にはしたくない」


「好きだよ」とか「したくない」ってとこが重要で。一見正しいとか公平さとは違う個人の感性のレイヤーにずらしてるんだけど、じゃあそれに従ったスタッフの責任は誰が取るかと言うと、僕が全部取るという覚悟がある時点で、オトナ度は「渡るべきじゃないよね」っていう僕よりきっとずっと上。


小津安二郎の言葉を僕のテンションで言いなおすと

「どうでもいいことは若い奴に決めさせる、大事なことは自身の道徳と情熱に従う、芸術かどうかはお客さんが勝手に決める」


まとめると、強い主観や思い入れが含まれていないものに、絶対の覚悟なんか含まれっこないんじゃないの、ってことです。正しさ、公平さをその論拠としてる指針は、その人の経験やスキルに裏打ちされていない借り物の知識から発していて、突っ込むと底が浅いことが多いのがばれがち。もちろん強い主観だけ裸で突きつけられても困るわけなんで、若い人は個人のスキルも、説明のスキルも、常識のスキルも全部磨いておくべきだけどね。