lovefool

たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

意思決定と性


90を超える祖父が倒れて入院した。それでも元気に院内を歩いて、毎日「帰りたい」と言っていたらしいから勝手に大丈夫なんだと安心してた。ところが老人はどこか一箇所でもガタが来ると、他の場所もドミノ倒しのようにいっせいにガタが来るらしい。患部とはまったく関係のない血尿が止まらなくなり、安静を求められたたった2、3日の間に、完全に寝たきりの人になってしまった。意識も朦朧として、言葉も発しないし、見舞いに来た人が挨拶しても誰だか分からない。認知症もあるので、ふと目が覚めたときについ家に帰りたくなって勝手に点滴などを外してしまうため、投薬中は手足腰をベッドに固定されてしまっていた。寝返りも打てない。ただ寝て弱っていくだけ。それって本来の意味で治療なんだろうか? でも結局すべての時間、そばについていられる人なんか現実的にはいないから、そういう強行手段に頼らざるを得ない。悲しい。


先週連れて行く予定だった子供(曾孫にあたる)を抱えて見せると、返事はなかったけど、明らかにさっきまでと違うやさしい表情を見せて、お互いずっと黙って見つめ合い手を繋ぎ合っていた。とても長い長い時間だった。90歳近い年の差の、物言わぬコミュニケーション。誰に何と言われようともっと早く連れてくるべきだったと後悔をした。祖父のしわくちゃの手はなぜかやたらに冷たくて、僕の熱のせいかもと思ったけど、子供もそれを察するかのように「冷たいね」と僕の顔を見上げた。


一緒に行った母親(娘にあたる)が「人間死ぬ間際ってみんな一人なのね」とため息をつく。死に近づくというのは、意思決定と性があやふやになっていくことなんじゃないかとここ数日間は思うようになった。たとえ健康な人であってもそれを失っていたら、それはすでにどこか死んでるのかも。逆に言うと、子供が自分で意思決定の自由と性(セックス、対外的な存在価値)を獲得し、自らの哲学で再定義するまでの過程を「成長」と呼んでるのかもしれない。


久しぶりに好きな映画「トニー滝谷」を観なおして、彼が言う孤独な牢獄であるところの人生の意味を前よりちょっとだけ深く理解できた気がした。そううそぶく彼の、最後のアクションが一方的に連絡を閉ざした相手に掛けなおす電話のシーンであるところが興味深い。その迷いが精神的な性のくすぶりであるように思えて、それ自体が彼の(弱いながらも)生きる意志そのものなのだと感じられた。その結果が希望とも諦めともどっちとも取れるように描いているのも、その先の彼の人生の続きを観客に委ねているようだ。


もう一度病室をのぞくと祖父は気持ちよさそうな顔でいびきをかいていて、生まれたての赤ん坊のように見えた。もう一度、声を聞けたらいいなと思う。