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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

光射す


今はどんな作品や物語を見ても泣いてしまう。悲しい話じゃなくても、その人の本心を言ってるなと感じた時に、自然に涙が出る。


生きるというのは、行動の繰り返しでその軌跡を残していくことだとして、その中の社会に役立つ成分を抜いたものが「純粋表現」なのだとしたら、心体が健やかじゃないと選ぶことさえままならない「表現」ってのは無数にある。


絵を描くのも、歌を歌うにも、楽器を弾くにも、思考をまとめて文章にするにも、体力がいる。持続できる体力がない場合はそれを支える気力がいる。グラビアアイドルだって病気じゃ無理だ。そう考えると、健やかさを誰かに役立つ何かに変換することで、お金は手に入ってるんだな。知恵とか技術なんて、健やかさが占める全体の割合に比べたらホント微々たるものかも。社会に役立ってない健やかさの消費や発露を「若さ」だね、なんてうらやんで言ったりもしてるかも。


日本画の展覧会で、2メートル以上ある巨大な虎の絵があった。それはまだ誰も日本で見たことがなかった頃の虎の想像図。前足は頭よりも大きく描かれ、巨大な目で、前に立つものに今にも飛び掛るぞと激しく威嚇している。そのモンスターの気迫を0から掘り起こして見知らぬ人に伝える形に育てるのにどれくらいのパワーが必要だったか、想像するだけでも本当にめまいがする。そしてその虎は描かれた何百年も後の僕が見ても、現実の虎の迫力に何も劣ってはいなかった。


超ベテランミュージシャンの細野さんは、誰かのプロデュースをするたびに10キロ体重が減ってしまうのだとか。だからプロデュースは年に一人が限界だと、何かのインタビューで言っていた。


行動力が奪われれば、会える人が減る。伝えるべき気持ちが伝えたい相手に届かなければ、届け続けられなければ、それは苦しい。息をして、息をして、ただそれだけの毎日だ。やがて声も奪われることになるだろう。それはとても恐ろしい。社会的な死は、肉体的な死よりもはるかに恐ろしい気がしている。


だからふとした弾みにこぼれるわずかな弱音や、がちがちに限定された条件下で鳴り響く叫びや強がりは、そういう手順でしか選べなかった表現の必然性として、一筋の祈りのように僕の胸を打つ。特別な価値があるわけじゃない。ただ胸を打つんだ。生きてそこまで動けるうちに、今できる最大の表現で伝え続けないといけない。それがその人を前に進ませる「コア」なんだって、魂の森の一番深く暗いところに細く日が射しているのを見るようなそんな気持ちになる。