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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

テクノロジーと切なさ。


Google Mapのストリートビューを見て「うちのカーテンの柄までバッチリ写っとる! こわっ!」と思い、その後、通勤経路である家から駅までの道をなぞった。今が夏で、記録された映像はどうやら半年ほど前の冬の朝の状態だったせいもあり、通行人は冬服で、太陽の角度や色合いもちょっとさみしげで。今朝だって通ってきたばかりの道をインターネット上でなぞって、なんだか人の夢の中を歩いているような不思議な気分になった。そして数年間帰っていない実家の前へ飛び「あぁそう、こんなだった」と思ったり、学生時代歩いた場所へ飛び「もう全然変わっちゃったんだな」って苦笑いしたりした。


新しくすばらしいテクノロジーが手に入るたび、意識が「ここ」にいなくなる瞬間が増える。ビデオ、ウォークマン、ポケベル、携帯電話、インターネット、電子メール、チャット、mixi、通信できるゲーム機、最近ではiPhoneも。


そのたびに、時間や場所はそこである必然性を失って、必要な情報や必要な相手といつでもやんわり繋がっていることができるようになった。体の居場所と関係なく、意識だけが空中を飛び交う世界。僕はそれを美しいとは思わないんだけども。便利かどうかで言ったら便利だろうね。


春先、病院で寝たきりのお母さんをベッドのまま玄関に運び出している息子がいて、それを目で追うと、満開の桜の下でそのベッドを止めた。病院の敷地内でしかないけど、せめて桜を見せてあげたい、一緒に桜を見たいという気持ちだったんだな、と勝手に解釈した。Google Mapなら、田舎や思い出の場所に帰ることもそのうちできるかもしれない。本物の光や風を感じたりはできないし、それがお母さんや息子にとって必ずしもうれしいことか分からないけど、病院の敷地から出ることが難しいのであれば、そういう選択肢があること自体は悪くない。そのうち電脳メガネみたいに空間の中を歩くこともできるだろう。寝たきりの人と、好きな時代の好きな季節のその場所を、電脳散歩ができるかもしれない。


その一方で、健康で毎日の生活を一人で一通りできるうちは、今いる場所に、心がリンクしてないような生活ってのはなるべく避けたいな、とも思うんだった。「いつでもどこでも」って概念はとても贅沢で便利だけど、それによって脳みそがいつも回転しっぱなしでせわしなくなって、心を失ったり、遠くのものに意識をつないでいるせいで、今しか見れないもの、感じれないはずのものを粗末にしちゃったりしてたら本末転倒だもんな。そしてそもそも暇なんてものは、10年前に比べたら、もうほとんど存在しない生活だしね。無理して細切れ時間を埋めに掛からなくてもいいんじゃないかなって思う。デフラグを十分にしないで次のことを始めると、ろくな結果が待ってないし。(僕の処理能力の問題)


ストリートビューを見たがために、実家だとか思い出の場所だとかに帰った気になって、そこに訪れなくなるのは、悪いことなのかどうなのか、今の僕にはまだわかんない。なぜなら、会いに行かずに電話やメールで用事を済ませることと何が違うのかと聞かれたら「うん、まぁ同じだね」って答えるしかないしね。でもちょっとだけ気持ち悪いかな。そして切ない。これがライブビューじゃなくて、すでに失われた時間を見ているから、余計そう思えるのかも。