冷蔵庫を開けたら食うものがなかった。牛乳もバターもたまねぎも脱臭剤もなかった。からっぽだ。昨日まで何かが入っていて突然空になったのか、ずっと空だったのに気づいていなかったのか良く分からなかった。オレは仕事でくたびれていて何よりはらぺこで仕方がなかった。
ミミに「夕飯は?」と聞いた。ミミは短い赤いワンピースのスカートがめくれたまま、いびきを掻いて寝ていた。太ももから足の付け根に月の光を浴びて、死体のような色気がある。いつから寝ているんだろう。何か食べたんだろうか。台所には何かを作った形跡も、食べた形跡もなかった。久々に帰ってきたのに、異世界みたいな気持ちだ。壁時計がチクチクと夜を刻んで、パッキンの緩んだ蛇口からポタポタ水が落ちていった。終わりのない夜に見えた。
オレはミミを叩き起こした。ミミは一度眠ると電源が切れたみたいに起きない。耳元で叫ぼうが、肩を大きく揺らそうが、とにかく起きない。泥棒が入っても火事になっても、きっと朝になるまで気づかない。やはり今日も起きそうになかった。
オレはすぐそばのコンビニのことを思い描いた。そこに並んだ数々の弁当や菓子パンやおでんや冷凍食品のことを。でも、財布の中身は期待できなかった。
腹が減った。
はらぺこだ。
腹が減った。
玄関に、去年ミミと出かけた縁日で買ったセルロイドのお面が掛かっていた。窓から差し込む外灯の光にキラキラと笑っている。
コンビニには一日3回、トラックによる商品の配給がある。空には穴のような満月。満月の日は女性による万引きだとか、男性による暴力事件が多いんだっけか。オレはお面を被った。ハムスターの奴だ。生暖かい息がお面の中を巡って肌をじっとり湿らせた。コンビニに向かう坂を下りながら、トラックの停止灯が点滅して地面に映っているのが見えた。
運転席のドアを開けてエアガンを突きつけた。「手を上げろ!」とかなんとか言おうかと思ったが、なんかかっこ悪いのでただ突きつけた。運転手は両足をダッシュボードに乗せて、半笑いでヤンマガのグラビアを見ているところだった。オレが突きつけた銃口と、オレのつけたハムスターのお面を何度も見比べて、やっとその笑顔が消えた。運転手は足を下ろすのと、両手を上げるのと、車から降りようとするのと、撃たないでと言うのを、一斉にやろうとして、だらしなくずるりと運転席から落ちてきた。オレは腰が抜けた運転手の両脇を抱えて運転席から引き摺り下ろし運転席に乗り込むと、ギヤを入れてトラックを出した。
バックミラーに、腰を抜かしたままの運転手が目を丸くしてこっちを見ているのが映っていた。店員が飛び出してきて、運転手に何か言っている。オレは車を走らせた。夜風が気持ちいい。口笛を吹いた。
嫌になるくらいの食糧を手に入れた。この夜を支配するすべての食糧を手に入れたみたいだ。夜の王様だ。この荷台の食糧だけで、どれくらい生きていけるかな。弁当みたいな調理済みのものはすぐに痛んでしまうだろうけど、菓子パンや菓子があればひと月ふた月生きていけるかな。飲み物だって酒だって困らない。飽きるまでこのトラックでずっとドライブ暮らしっていうのも悪くない。どこへ行こう、北海道? 沖縄? 好きな場所に行って、好きなものを観て、好きな時間に食べて寝る。食べ物がなくなるまでずっとだ。最高じゃないか。
「強盗か」
声に出してみて、噴き出してしまった。
強盗だって。
後部に人の気配を感じて緊張が走った。脇に止められる感じじゃなかったので、バックミラーを動かして後ろに合わせる。両手を伸ばして伸びをしている。赤や黄色のキャンディのようなガキっぽい甘ったるい匂いがした。そこにいたのは髪の長い少女だった。
少女は目をこすりながら、前の座席に乗り出してきた。オレの顔と、フロントガラスの向こうを何度も見比べて、また退屈そうにあくびをした。
「あの人は?」
そうつぶやいて、胸元から出した煙草に火をつけた。オレはこの少女がなぜそこにいたのか、この少女がなぜ慌てないのかが分からなくてかえって混乱した。
「気分が悪いって言うから交代したよ」
意味のないそんな嘘をつく。制服も着ない交代要員がいるもんか。でも少女はオレの答えなんか最初っからどうでもよさそうだった。開けた窓から入ってくる強い風が、少女の長い髪を激しく踊らせていた。
「どこへ行くの?」
感情のない声でそうつぶやく。
「どこかな」
少女は色が白くて髪が黒かった。指先のマニキュアがはげていて、はだしだった。足首に手錠が掛けられていて、後部座席のドアノブに鎖でつながれていた。気づかなかったけど、頬には殴られたようなあざが見えたような気がした。オレは、なんかすごく面倒なことに巻き込まれた気になってきた。少女は助手席に置いてあったモデルガンを両手で抱きながら、窓の外をずっと見ていた。
「降りるか?」
オレは目を見ないでそう言った。返事がない。
「帰る場所ぐらいあるだろう?」
返事がない。聞きたくないが、聞くしかなかった。
「鍵は?」
嫌そうな顔で煙草を窓の外に放り投げた。一体いつからこういう生活をしていたんだろう。
「知らない。あんたが預かったんじゃないの?」
「知らないよ」
「あたしだって知らない」
宛てのない二人が夜の道を走っている。言葉もなく、目的もなく。ラジオがタクシーの無線を拾う。がりがりがりがり。なんだか夜の底に沈んでるみたいな気分だ。朝が来ない世界。
少女がそわそわし始めた。トイレに行きたいのだろう。
「その鎖を何とかしないとな」
田舎道を走らせていると、明かりが漏れているのが見えて、それはトラックを奪ったコンビニと同じコンビニだった。手錠を壊す工具と履物を買ってきてやろうと思ったが、明かりのないこの道にトラックを停めて、買い物をしに歩いていくには不自然に思えた。オレは後部座席にクリーニング帰りの作業着と帽子が一組あるのを見つけ、店の前の駐車場に行儀良くトラックを停めると手早く着替えた。
「ちょっと待ってな」
コンビニに入ってゆき、店員に「おはようございまーす!」と威勢良く挨拶をした。バイトの学生が、特に不信な顔をするわけでもなく挨拶を返した。バックヤードに入って台車を出し、トラックの荷台を開けて、雑誌を積み込んだ。雑誌を次々にマガジンラックの前に積み上げていきながら、向かいの商品棚に工具とサンダルがあるのをみつけた。店員の隙をうかがいながら、雑誌の梱包を解いたビニールを片付ける降りをしてその中に、サンダルとペンチを放り込んだ。
「おつかれさまでーす!」
バイトは眠そうな顔で曖昧な返事をした。
トラックに戻ると少女はかなり切羽詰った顔をしていて、はやく手錠を外してやる必要があった。国道を進んだ人通りのない丘でトラックを停めて、プラスチックの手錠をペンチで壊した。パチンと音がして手錠が壊れると、少女はトラックを飛び降りて草むらに駆けて行こうとした。
「ほら、サンダル」
かっぱらったサンダルを足元に投げてやる。少女は掛け戻ってサンダルを履くと、草むらの中に消えていった。
「蛇に気をつけろよ」
少女が帰ってくるのを煙草を吸いながら待った。空腹がきっかけだったことなんてもうすっかり忘れていた自分に気がついた。少女が帰ってきた。落ち着いた顔になった。トラックに乗り込もうとするので、手を引いてやる。
「どっかで下ろしてやる。それでいいな」
少女は特にうなずくでも、首を降るでもなく、さっきまでいた助手席に両膝を抱えて座り込んだ。
何かを聞いたほうがいい気がしたけど、聞かないほうがいいような気もした。
線路が見えてきたので、トラックを停めた。
「もう行きなよ、しばらくすれば始発が来るから」
少女は手にハムスターのお面を持っていた。オレに向けて被って見せる。
「ん? やるよ」
お面を左右に降った。気のせいか、お面の向こうで少女が微笑んだように見えた。オレはドアを開けてやった。降りるのを待っていると少女は何も言わず、降りていった。
駅まで歩いていくその頼りない背中を見送って、少し金でも渡しておくべきだったかと思ったが、よく考えたらオレにそんな余裕、最初っからなかった。なんで強盗が人の生活の心配なんかしてるんだ。馬鹿馬鹿しい。
オレはトラックの荷台を開けて、中に乗り込んだ。空腹のことはもうどうでもよくなっていて、最初に目に付いた箱を手に取った。ビスコだった。オレも車を降りて歩き出した。少女に追いついて、半分を渡した。少女はきょとんとした。二人で黙ってビスコを食べた。渇いた喉に粉っぽさとやさしい甘さが広がった。少女と反対側のホームで始発を待った。山の向こうが白んできていた。夜が明けようとしていた。手を振るわけでもなく、二人は別れた。
帰ってきたときの物音で目を覚ましたのかミミが枕もとで言った。
「‥ん? どうかしたの? 今何時? もう朝?」
コンビニ向かう前とおんなじポーズで言う。
「なんでもない。ごめんね、まだ朝じゃないよ、ただいま」
オレはミミのこめかみにそっとキスをした。