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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) * * * * * * * * *

金魚


 夏を迎えても母の火傷は治らなかった。何度も包帯を替え、病院でもらった塗り薬を塗っても、ほんとに効いているのか私にはよく分からなかった。


「水が欲しいわ。あの水‥」


 母は熱にうなされているのか、うわごとのように庭の枯れた井戸の事ばかりを口にした。水分は充分に取っているはずなのに、いつも肌や唇が乾燥してひび割れていた。部屋に二台の加湿器を置き、クリームやベビーオイルをすり込んでやりながら、この乾きはどこからやってくるのだろうと私は思った。この傷は治らない、癒すのは枯れたはずのあの井戸の水しかないと母は言う。私はそんな母が少し怖かった。




「ね、カヌーを出してくれる?」


 突然そんな事を私が言うので、智久はぽかんとした顔をした。


「カヌー? 冬子が乗りたいなんて言うの、めずらしいな」
「金魚をね、逃がしたいの」
「金魚? 金魚ってあの夏の?」
「そう。窮屈そうでかわいそうだから」
「ずっと可愛がってたじゃない? どうして」
「体も大きくなったし、なんか可哀相なの。広いところでのびのび泳いで欲しいから」
「‥ふうん」


 彼はあごに手を当てて少し考えるような仕種をした。私の選択に納得できない様子だ。でもコトバは声にはならずに頭の上でうやむやな煙のように消えた。やめている煙草をこんな時は吸いたいのかもしれない。


「逃がすって、川?」
「ダムがいいの」


 去年のある夜、夏祭に出かけた。ダムができてから神社は場所を丘の上に建て直された。慣れない場所でのお祭りは、なんか犬小屋を新調された犬のようにぎこちなく感じたけど、私は久しぶりに着ることが出来た浴衣がとにかくうれしかった。死んだおばあちゃんが仕立ててくれた、桔梗の柄の。智久と橋のところで待ち合わせた。さっそく腕を抱いて歩いた。智久は照れくさそうにした。私は意地悪するみたいに強く大げさにその腕を抱いた。こんなデートらしいデートなんか久しぶりだ。彼の部屋の角の丸いやさしい空気も好きだけど、時々はこんなのもうれしい。このままいつか智久と同じ部屋で暮らしたり、結婚して洗濯物を干したり、彼の子供を産んだりするかわからないけど、その時は今日と言う時間を懐かしく思い出したりするのかな、なんてことを思った。


 通りには屋台がたくさん出ていて、一学期を終えたばかりの子供たちがもらったばかりのお小遣いを小さな手に握り締めて駆け回っていた。数珠繋の裸電球が青い夕暮れを温かなオレンジ色で灯した。ヤニに汚れた歯の間から威勢の良く飛び出す客引きの声。智久が私の為に金魚を取ってくれると言った。彼が自分からそんな事を言い出すはめずらしいので私はうれしくなった。いくら散財したんだろう。思えばUFOキャッチャーだって苦手なのにかわいらしい人。逃げ回る魚相手では、モナカのおたまがいくつあっても足りないようだ。彼の小銭はあっという間になくなって、途中から私のお金に切り替わった。額や首筋に汗を浮かべながら、やっとのこと捕まえたその金魚は黒く小さな出目金だった。他に泳ぎ回る金魚よりあまり美人じゃなかった。だけど私は私の為に一生懸命に捕まえたその金魚を、例えば指輪をもらうことよりもずっとうれしく思った。私は背伸びをして彼の頬にくちづけた。まるで娘がお父さんにするようなチュウ。屋台のお兄さんが口笛を鳴らして冷やかした。彼は柄にもなくうつむき耳を少し赤くした。産毛の生えた彼の耳は小さくかわいかった。


 帰り道にさっそくガラスの水槽を買った。バレーボールより小ぶりな球体の吹きガラスで、厚みが均等じゃない分、手作りの暖かみがあった。ガラス越しに中を泳ぐ金魚を見ると、まるでどこかの異世界を映し出す受像器のように見えた。底にビー玉を敷き詰め、水草を生け、そこに金魚を放した。金魚は新しい世界に驚いてしばらくおどおどと落ち着かなかったが、やがてその場所を自分の属する世界だということをちゃんと受け入れたように見えた。


「ちゃんと世話してあげられる?」


 と智久が聞いた。


「うん」


 と私はうなずいた。


「だって、智久が私の為にくれたんだもん」

 


 濡れた髪を乾かしているとベッドの上でぶーんと携帯電話が踊った。異世界からの知らせ。空を駆けて飛び込んでくる声。


「こんばんは」
「‥こんばんは」


 落ち着いたその声の向こうには、街の喧騒がある。通り過ぎるたくさんの車の音、遠く離れた街のきらめき、よどんだ空気。一緒に歩いているのか、すぐ近くに女性の声がいくつも重なって聞こえてくる。自意識の棘を感じるような嫌な声だった。


「急に声が聞きたくなったんだ。今、電話大丈夫?」


 いくら私が手を伸ばしても、彼を取り巻く日常にそれが届くことがない。


「はい」


 私はぎこちない返事をして、それに気づかない振りをするのがやっとだ。でも彼の声を聞いていると自分の胸が不安に揺れてどんどんとたわんでいくのを感じる。


 私は顔も知らないその人を想像して、冷たい壁に背をつけ両目を閉じてみる。聞こえないようにそっと深呼吸をする。受話器からこぼれる声に必死に温度を感じようと感覚の扉を開いていく。


「今日の空見た?」
「空? 夕方の?」
「そう、甘い紫色で、広くて低くて少し柔かい感じがしたね」


 他愛のないやり取り。それは日記にもならないくらい要点が無い。でもそれが気持ちいい。川面をたゆたう草船のように、あるいは構図を決めずに描いたペインティングのように、素朴でまっすぐな気持ち。手をつないで坂道を降りて行くように、気づかずにどんどん加速度を増していき、景色が目の裏側で混じり合い、他のものが何も見えなくなる瞬間。二人だけの世界。


 不意に我に返って


「ごめん 長く話し過ぎちゃったな ‥もう、眠るよね」


 と聞かれても、


「ううん」


 なんてか細い声で答えてしまう。電池切れで彼の声が途切れてしまうと、世界の電源がプツリと落ちてすべてが真っ暗になってしまう気がした。それが怖かった。携帯を持つ手にも無意識に力が入ってしまう。そんな時彼は受話器の向こうでどんな顔をしているのだろう。もし手の届くようなそばにいたなら私にどんな風にしてくれるのだろう。ひょっとしたら私の見えないところで赤い舌を出して笑っているのかもしれない。そんな人かどうかさえわからない。でもきっといつか届く気がする。届かせたいし、なんにせよ届いてしまうんだろうとも思っている。そしてその声が温度を失わないうちに抱きしめて眠ってしまえたらどんなにいいだろうといつも思う。

 

 
 月の光の下でカヌーを広げる智久は何だかキャンプに来た少年のようにそわそわしている。


「ちゃんと見張っててくれよ? 見つかったら始末書もんだよ」


 そうは言いながら、彼の声には張りがある。ずっと前からこんな事を待ってたよって具合に首尾よくカヌーを組み立てていく。私は懐中電灯を彼の手元に向けながら、警備員の順路だという方向に目を凝らした。


「でも、まだその時間じゃないんでしょ?」
「万が一ってことさ」


 智久が水道局を仕事に選んだのは水を自由にしたかったからだと言う。水にはそれぞれに適した時間と場所があって、それをちゃんと元に戻してあげたいんだと。そうしないと世界の帳尻が狂ってしまうのだと。水道局員になる前は絵画泥棒だったと言う。なんだかよくわからないけど、そういうときの彼はいつもよりちょっと威張っていて、目も綺麗に輝いて見える。


「よし、押してくれ」


 準備のできたカヌーを湖面に押してゆく。カヌーの舳先が水面に触れると、夜の静寂を壊すように波紋が濃紺の夜空を割った。バサバサと木々を揺らして黒く大きな鳥達が飛んでいった。そっとパドルを動かし、水草のない深い場所に進んでいった。二人は何も話さなかった。月がやけに大きく明るく思えた。夜の鳥が不気味な声で鳴いて、それに答えるように野犬らしい遠吠えがあった。 丸い夜の中心へと進んでいく。


 智久がパドルを休めた。私はあたりを見渡した。そこはどこからも遠い世界のまんなかだった。私はバランスを崩さないように気をつけながら背中のリュックを取り、その中から金魚の瓶を出した。重りの入った箱の中に入れられ、水は少な目で空気穴を空けたラップが掛けてある。私は瓶を取り出し、月の明かりにその姿をかざした。智久は黙ったまま一緒にその姿を見上げた。金魚は少ない水の中でたくさん揺られたせいかぐったりしていた。慌てることにも疲れたように見え、悪いことをしちゃったなと私は思った。余韻に耽るまでもなく、そのふたを開けた。


「サヨナラの言葉は?」


 迷わずに瓶を傾け始めた私に智久が言った。私は首を振り、残りの水と金魚を湖に放った。ちゃぽん、どぽどぽどぼ。金魚は湖水の濃い色に溶け、すぐにその姿を消してしまった。そのあまりのあっけなさに、私は始めから金魚なんかどこにもいなかったのではないかと不安になった。そんなことない、と自分に言い聞かせた。金魚は自由になったんだ。小さな不安と共にもっと大きな自由を獲得したんだ。私は湖の底でひらめいているだろう金魚の長い衣を思い、いつまでもその場を動こうとはしなかった。

 
 

 見る夢はいつも決まっている。白い霧の夢。黄色く大きな玉乗りをしながら、その人がやってくる。何かをくれるわけでも、やさしい声を掛けてくれるわけでもない。ただいるだけ。でも私はその人が好きだった。つらい夜や一人になりたいときほどその人がやってくるのを待った。何度も願ううちに、願うと会えるようにもなってきた。その人は私の周りをひょろひょろと回りながら、霞の中で濃くなったり薄くなったりする。私は冷たく柔らかなゲル状のクッション(それは理科の教科書の細胞の拡大図にそっくりだ)を抱きながら、いろんな格好で彼を眺める。霧に遮られて顔は見えない。言葉も交わさない。でもきっとうれしそうな顔をしている気がした。そう思えるのは確かな気持ちだった。根拠のない確かさ。でもそれは重要なことのように冬子には思えた。


 深い眠りの中でその声は夢の狭間に忘れてきた歌のようだった。


「‥子   ‥冬子! 冬子!」


 意味をなし、カタチを持って、私に届いたのはもう何十回も繰り返したあとのことだ。私は飛び起き、血圧がついて来れずに下半身に血がどっと下がるのを感じながら、階段を駆け下りていった。


「お母さん!」


 母は布団の上で何かを指さしていた。その指先を追うと隣の和室のランプシェードがあった。ん、何? 揺れてる?


「ほら、まだ、揺れてる」
地震?」


 二人でランプシェードの揺れが収まるのを見守った。


「けっこう揺れたわね」


 と母が言った。私は血の巡りが全然よくならなくて、ぼーっとしていた。


「今日はもう3度目よ」
「3度目? そんなに揺れた? 気づかなかった」
「ずっと寝ているからね、このところ地震が多いのよ」
「やぁね」
「冬子も気を付けないとね」
「タンスの下敷きになんかなりたくないもん」


 母の部屋の電気を消して台所に行った。青白い窓の光。湿った夜の匂い。水を飲もうとコップを手に取り蛇口をひねった。キューンと高い音がして、水が出る代わりにゴポゴポと水道管が音を立てた。程なくして水がふつうに溢れ出し、私は思い出したようにコップを差しのべた。さっきの地震のせいかな。水がコップをゆっくり充たしていくのを眺めているとふいに胸騒ぎがした。誰かが見ているような、そんな気持ち。でも不安な存在のものじゃない。窓の向こうが気になった。コップを置くのさえ忘れて勝手口に駆けていった。喉がカラカラして熱い、焼けてくっついてしまいそうだ。つっかけで裏庭に走っていくと、そこにあったのはいつもの井戸だった。井戸は月の光の中で私が来るのをずっと待っていたかのように、私の方をまっすぐに見つめていた。私はコップを地面に置き木の蓋に手をかけた。手を掛けた指先が目よりも先にはっきりと感じるくらい、中からいつもと違う柔らかな風が流れた。蓋を両手に抱え私は呆然とした。昨日もその前もずっとそうだったみたいに、井戸は澄んだ水をたたえ、静かに月の光を反射していた。


 例え思いこみにせよ、井戸も水で冷やしたタオルを当ててあげると母は赤ん坊のようにとても安らいだ顔をした。そんな気持ちも手伝ってか、火傷も少しずつ治ってきているようにも見えた。


「気持ちいい? 母さん」


 こないだまでの苦しそうな顔が嘘のように、うとうとと眠りに誘われる母の顔は、こう言っちゃ何だけどだんだんと天国に近づいているみたいに透き通っていく気がした。


「もう、はやく治しちゃって温泉にでも行こう、ね」


 柄にもないことを私が言い出したりするので、とろんとしたまぶたで母はうれしそうにうなずく。誰からも許されているような甘美な表情だった。


 

 智久の部屋から見える景色はいつだって雨に煙ったようだ。


「雨の中に住んでるみたいね、ね」
「んー? うーん」


 智久はぐったりしたままやさしげでなだらかな背中をこちらに向けている。


「あたし、子供の頃コビトさんの家っていうおもちゃ持ってたの。大きな木のカタチした家のおもちゃ知ってる?」
「‥なんか、見たことある、かな」
「あそこに住むの夢だったなぁ」
「木の家?」
「そう。ねぇ、あそこの木の向こうがわにできてるのは、何?」
「木? あ、あぁ、新しい寮とか何とか言ってたかなぁ」
「智久も引っ越す?」
「ん、まだ、わかんない」


 窓の縁に載せた両手に頬を転がす。木を伐採し不自然に均された丘の上は首のない人形のようになんかちょっと残酷だった。私はそれを眺めながら電車の窓を眺める子供のように慣れない正座。裸でぼんやりとしている時間はけっこう好きだ。


「なぁ、寒いよ。閉めて」
「え、あ、ごめん」


 私は足下の毛布を智久の冷えた背中に掛けながら、仕方なく窓の隙間を細くした。でも全部閉めるのはもったいないので鼻先だけで外をのぞく。


「ね、引っ越しても遊びに行っていい?」
「んー?」


 智久は眠たそうな声でやっと返事をする。


「‥来てよ、来てくんないの?」


 私はそれを聞いてちょっと安心する。毛布に潜り込んで肩の骨にくちづける。


「行くよ、もちろん」


 体温が雨の匂いに溶けていくようだ。水飴のような粘度の高い眠気に爪先から吸い込まれていく。「永遠」は約束でも時間でも距離でもない。自分を信じたり、信じてくれること自体が「永遠」なんだってことがわかる。

 
 

 大きく揺さぶられて飛び起きた。地震だった。私の家は木造なのでよく揺れる。ぎりぎりのコードの長さで立っている机の上のゼットライトが、その揺れで床に落ち白熱灯を砕いた。その音に二度びっくりした。私は自分も驚いていたが、母がまた動揺していないか、階段を駆け下りた。ふすまを開けるとこないだより激しい揺れだったにもかかわらず、母は寝息を立ててすやすやと眠っていた。まるで赤ん坊に戻って行くみたいに一日のほとんどを眠り続けている。


「母さん、地震!」


 細かい揺れが続いていたため、そう言って起こそうとするも、眩しそうにするだけで目を開けようとしない。


「‥だいじょうぶよ すぐ収まるから」


 一番心配症だったはずなのに、この揺れの中でどうしてそんな呑気なのかわからなかった。万が一を思って出口までの道取りを頭の中で数パターン確保した。なんだかそう言う計画性とか根回しといったようなものが一番面倒で苦手だったはずなのに、身近に病人がいるだけで、必要に迫られちゃうんだよなぁと私は思った。


 翌朝、ふつうの日曜日がやってきて、私は茄子に水をやった。ここのところお茶を入れるのや水撒きや風呂にも井戸の水を使うことにしてみた。井戸の水は冷たくておいしい。最初のうちは体が慣れなくてお腹を壊したりしたけど、今では水道の水はそのまま飲めないくらい人工的な味だと感じるようになった。


 智久が誕生日にくれたじょうろで水をまく。マレーバクに似た形の不思議な魅力のあるじょうろ。口笛を吹きながらいつもの井戸の蓋を開ける。私は唖然とした。そこには水がなかった。一滴もなかった。水がないだけでなく以前あったはずの乾いた地面もなく、ぽっかりと深い穴が空いているだけだった。暗闇は底抜けにずっとずっと続いていた。


「おーい」


 なんて言っていいのかわからなくて穴の向こうをそう呼んでみた。声はかすかに反響を繰り返して、遠く彼方に消えていった。私は辺りを見回し、今度は小石を投げ入れてみた。手を離れた小石はいくら耳を澄ましても底にぶつかることがなかった。


「おーい」


 私はもう一度そう呼んでみた。やっぱり返事はなかった。


 井戸の水がなくなったことを母に告げることがいいことだと思えなかった。私自身不安でどうしていいかわからなかった部分もある。でもまず母の火傷がまだ治っていなかったこと。母が井戸水でしかそのやけどを治せないと信じ続けてることが大事だった。傷が治ってから知ったって遅すぎたりはしないだろう。





「ずいぶん間が空いちゃったね」


 電話を眺めていたら、気持ちが通じたみたいに震えだした。


「そう?」


 電話を持ち替えて、私は退屈そうに言ってみた。


「ねぇ、今度そっちに行くんだ」
「仕事?」
「ん、そんなようなもん」
「ふうん‥」


 興味のない素振りで、私は自分の胸が飛び出しそうになるのを気づかれないようにする。でも電話に触れてる耳だって脈打っている。


「会おうかって思うんだ」


 私は黙ったままだった。長い沈黙が続いた。遠くを救急車が走っていく音がした。誰かの自転車の急ブレーキ。隣の家の中学生かな。


「‥ふふふ」
「何?」


 突然笑い出す彼に、私はちょっと警戒した。


「いや、緊張したんだ、なんか」
「緊張?」
「中学生みたいにドキドキしてる」
「ドキドキしてるの?」
「おかしいよね」


 私は黙っていた。


「また今度にしよう うん?」


 私は黙ったままだった。


「別に急ぐ必要もないしね」


 黙ったまま受話器を放せずにいた。


 

 山の向こうに大きな雲がかかっていた。また雨が降るのかな。朝から大きな獣のいびきのような低い地鳴りが続いていた。下腹に響くような嫌な音。私は智久に会いたくて仕方がなかった。温かい日向の匂い、大きな手のひら、見上げたときの笑顔。なんかずっと会ってない気がした。気のせいかな。でも会って何て言えばいいんだろう。


 午後から雨が降り始めて、空はあっという間に真っ暗になった。泥のような色の嫌な空だ。湿った匂いのする座席に座り、電車で智久の寮に向かいながら私はだんだんと悲しい気持ちになってきた。たまらず途中の駅で電話を掛ける。


「うん、そう、だから急いで行かなくちゃいけないんだよ。これから大雨になるらしいから冬子も家でおとなしくしてたほうがいいよ」
「でも会いたいの。部屋で待っててもいいでしょ?」
「会いたいのはオレもそうだよ。でも今日はきっと徹夜なんだ。明日はお前も学校だろ? 終わったらバイクで迎えに行くから、今日は帰った方がいいよ」
「それって行っちゃダメってこと?」
「忙しいときにそんなこと言わないでくれよ。わかるだろう? オレがダムを見なかったら誰が見るんだよ。な、必ず迎えに行くから、切るぞ」


 智久は休日出勤とこれからする仕事の緊張でイライラしているようだった。ぶつりと切れて、激しい雨の音が私を包んだ。


 家に帰ると母が布団の中でうなされていた。私は母に水を飲ませ、体を汗を拭いて下着を換えた。それから井戸の水と称した冷やした白湯をたっぷりとタオルに浸して額に乗せた。それで少しは落ち着いたようだった。しかし私が以前よりいくら気を入れて看病しても、熱は下がらなかった。 井戸の水がないことに気づいているのかもしれなかった。


「だいぶ楽になってきたわ」


 そう母は言ってくれるけど、私にはぎこちない苦笑いぐらいしか返すことができない。


 雨は止まなかった。遠くで雷が聞こえるけど、それは朝に聞こえた地鳴りかも知れなかった。雨が強すぎてよくわからないのだ。私は机にうつぶせて目の前の小さなカレンダーを眺めた。彼がこちらへやってくるという日がもうあさってに迫ってきていた。


「もちろん、会わなくたっていいよ。これは二人のことだからね」


 と電話で彼は言った。


「でもお互いが会いたいときにはちゃんと会おう。そして電話じゃ話せなかったこれまでと、話したいこれからのことを話そう」
「ちょっと待ってよ」


 と私は彼の勢いを遮った


「私は会いたいなんて一度も言ってない」


 すると彼は悲しそうな短い沈黙を置いて


「‥そうだね。でもそうじゃないって信じてるんだ。勝手すぎるかな」


 指先で智久にもらった指輪をなぞってみる。最初の給料で買ってくれた、シルバーとムーンストーンのコンビ。金魚は、金魚は今どうしただろう。この世界中の雨をため込んでるみたいなあのダムの中で、自由に泳いでいるのかな。私は自分の唇にそっと触れてみた。


「どうかしてる」


 振り切るように頭を揺らして、何度も冷たい水で顔を洗った。




 ダムの壁面に亀裂が入ったとかで智久は翌日も私を迎えに来てくれなかった。


「ごめん。急いで終わらせるから明日まで待っててくれよ。夕飯はうまいもんでも食いに行こう、な」


 そう言って彼は電話を慌ただしく切った。私は明日自分がどうにかなってしまうのを智久に止めて欲しかったんだってことに気づいて、とても嫌な気分になった。いつからこんなに甘えた女になったんだろう。


 私は気分を変えようと買い物に出かけた。秋物が出始めていて、私はワイン色の膝掛けと智久に似合いそうな帽子をひとつ買った。明日智久が仕事を終わって迎えに来てくれたら、これをかぶせてあげよう。きっとすごく喜んでくれるような気がして、私は気分が良くなった。家に帰ったらプレゼントに添える手紙でも書こう。久々のラヴレターだ。


 デパートの階段を下りているとふいに目眩がして、足下がフラフラとした。手すりにつかまってみてすぐにそれが目眩じゃないことに気がついた。地面が揺れてる。地面だけじゃない何もかもだ。気づいたときには地震は目に映るものすべてを大きく揺さぶっていた。売場の柱が倒れ、床が踊り、壁が崩れ、ガラスというガラスが粉々に砕けた。何かの映画を見るように簡単に壊れていった。何かの悪い冗談でしょう? これは夢の続きなんでしょう? 私は悲鳴を上げることさえ忘れて、逃げまどう人々の中を夢中にかき分けていった。


 家は無事だった。家の前のブロック塀が倒れ、鉢植えがいくつか地面に落ちたりした以外は特にタンスが倒れたりすることもなく、母もまた無事だった。しかしサイレンが鳴り止まなかった。住民に避難を呼びかけるサイレンだった。


「ダムが決壊します。速やかに神社の方へ避難して下さい。ダムが決壊します」


 私は迎えに来た町内会の人に母と手荷物を預け、智久のいるダムへ急いだ。電車を降りると自衛隊や警察の車が山までの道をふさいでいた。私はこの近くの住人だというその場しのぎな弁明と半ば強引な行動力で、智久の寮までどんどんと駆け上がっていった。息が切れた。体にへばりつく濡れた服が重かった。だけどそこから先に行く必要はなかった。私はぺたりと膝をつき、目の前に拡がるロープから先の光景を信じようとはしなかった。寮があった場所には何本もの杉の木が突きささった たくさんの土砂と何かの残骸しかなかった。見慣れた誰かの自転車がくしゃくしゃになって雨に打たれている。私はいつの間にか靴が脱げ、裸足になっていたことにさえ気づかずにその場で泣きじゃくった。名前を叫び、たまらず土砂に向かって駆けていくのを、誰かに取り抑えられた。救急車が何台も来ていたが、その中に乗せられたのは年老いた人たちばかりだった。私は何度も何度も名前を呼んだ。叫びは雨と濁流の音に吸い込まれるばかりだった。

 

 
 やがて春が来て、私は学校を卒業した。智久はついに私を迎えにこなかった。決壊したダムから逃げ出した私の金魚、あの日会えなかった電話の彼。私は 智久のアパートがあった空き地に花を持って出かけた。


「ごめんね」


 勝手に智久と名付けた小さな広葉樹に、私は花を手向けてそう言った。


「ごめんねじゃないか、ありがと、だね」


 子供達がはしゃいでいる声が聞こえて、私は涙を拭いた。日差しが眩しかった。ねぇ、水は自由になったのかな。智久が思っているように水を自由にできたのかな。答えはわからなかった。金魚は壊れたダムを飛び出して今どこにいるんだろう。広い海だといい、と私は思った。