紫陽花の向こうに、いつも君を見てた。小さな虹を乗せた雨露を放さずにいた。汗を浮かべて上気した君の首筋。甘く溶けた赤いドロップの味。裸足で駆けてたあの頃を思い出すように、今年もなっちゃんのことを思った。
「メールばっか見てないで、仕事しろ仕事」
眠そうな目で「送受信ボタン」を押していると同僚にどんと肩を押された。
「月曜だぜ? 眠いんだ」
「コーヒーでも飲んで、気合い入れろよ。髭も剃ってないのか」
「コーヒーは飲めない、知ってんだろ?」
「髭は?」
「伸ばしてるんだ」
そう言っている間に、受信されていたいくつかのメールが開いた。そこにあったのは見慣れないアドレスからのメールだった。
「?」
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お久しぶり、トモくん。
突然のお手紙をお許し下さい。
私のこと覚えているかしら?
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直感的にそれが何の手紙なのか分かった。僕はうれしかったのだ、多分。でも僕の顔色はなんだかとても冴えなかった。カチカチとメールのウィンドウを閉じて、そのまま液晶のパネルも閉じてしまった。
「あれ? コーヒー飲めないんじゃなかったのかよ」
「ん? あ、うん」
僕はコーヒーのカップを片手に自分の指先を眺めた。ごうんごうんと空気清浄機が音を立てていた。コーヒーの味や匂いは嫌いじゃなかった。飲むと気分が悪くなるだけだ。結婚指輪が見慣れた位置で鈍く光っている。僕はもう一度溜息をついた。
「お帰りなさい」
妻とは会社で知り合った。3年前の納涼祭の時だったと思う。他部署の人と出会う機会はそれくらいしかないのだ。別段、目を光らせていたわけではないのだけど、その日知り合ったばかりの彼女と何となく 関係を持ってしまった。他に恋人もいなかった僕はいい年だったこともあり、いつの間にか彼女と所帯を構えていた。
「今日も一日、お疲れさま」
「‥うん」
鞄を渡して靴を脱ぐ。廊下を歩きながら妻は僕の上着を上手に脱がせてくれる。取り柄はないが、綺麗でいい妻だと思う。何より僕にすごくやさしい。そして余計なことを言わない。今までそのことだけで何回救われてきたかわからない。今のテーブルに着くと、サラミとチーズのいつものつまみと程良く冷えたワインが並べられる。その量は多すぎなく、少なすぎなく、冷たすぎなく、ぬるいこともない。僕は綺麗に折り畳まれ、テーブルの隅に置かれた新聞を手に取った。
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私のこと覚えているかしら?
奈津子です。
子供の頃、よく一緒に遊びましたね。
なっちゃんって言った方がわかるかな。
仕事で人づてに偶然あなたのことを知っている方に出会い、
名刺にあったアドレスを教えていただきました。
トモくんももう社会人なのですね。
なんか不思議です。
私の仕事場は○○駅です。
近いうち、お時間いただけませんか?
会って、一緒に食事でもどうでしょう。
お返事待ってます。
奈津子
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あやふやな記憶が再生するなっちゃんの声が、頭の中で反響した。○○駅と言えば、会社からすぐそばの街だ。僕はグラスを取り、平坦な日常を一口注ぎ込んだ。
「見える?」
黄色い傘に包まれて、小さなふたりは雨の中にいた。
「‥赤ちゃんだ」
僕は目を丸くした。なっちゃんの裏返した紫陽花の葉の裏にいたのは生まれたばかりのカタツムリだった。雨の滴よりも小さなその生き物は、僕らには目もくれずに一生懸命に今を生きていた。体が濡れたように透き通っていて、目を離すとすぐに消えてしまいそうな気がした。
「このちびも、いつかオトナになる?」
「そうね」
僕はふいに変なことを思いついた。
「ねぇ、なっちゃん」
「なぁに?」
「ずっと、ちっちゃいままはできないの?」
つたない子供の質問になっちゃんはちゃんと答えてくれた。
「背が伸びるとね、昨日と違ったものが見えるようになるの。小さい頃は見えなかったものが見えるようになるの」
「じゃあ、ちっちゃいころ見てたものは?」
そう言うとなっちゃんは少しさみしそうな顔をした。
「大きくなる勢いに振り落とされないように、しっかり抱きしめておかないとね」
子供を寝かしつけた妻が寝室に戻ってくる。目を閉じている僕を起こさないようにと、そっとベッドに滑り込み、体の力を抜く。化粧水と薄くミルクの匂いがする。枕元のランプが消える。長い溜息が聞こえて、今日という一日が完璧に終わる。
乳白色の世界で僕の目はくらんだ。光を背にしてひとりの女の人が立っているのが見えた。逆光で顔は見えない。ショートヘアで、OL風のシルエット。彼女が僕の想像の中のなっちゃんであることはほぼ間違いがなかった。
私のこと覚えているかしら?
光の中で彼女は言った。
「覚えてるよ。忘れたりなんかしない」
じゃあ、私がメールの返事を欲しがっていたことも?
「そうだね、今度、返事を書くよ」
私と会うの、怖がっているんでしょ。
「怖がる? そんな風に見える?」
だって、全然うれしそうな顔してくれないじゃない。
僕は笑って見せた。
「そうかな、そんなことないよ」
探したのよ。
「うん。もう会えないと思ってた」
思い出のままの方がよかったかな。綺麗なままで。
「思い出は楽で好都合だね」
現実は違う?
「かも知れない」
わたしまだ一人なの。
「‥そう」
トモくんは奥さんと子供がいるのね。
「うん」
大事にしてる?
「してるよ ‥多分」
自信がないの?
「あるつもり。でも今日わからなくなった」
私が、来たから。
「いや、それだけじゃないけど」
会わない方がいいのかな。
「わからない」
会ったら、何かが壊れちゃう?
「わからない」
紫陽花‥ 覚えてる?
「え?」
あの紫陽花の葉の上で、会えるよね。
「なんのこと?」
待ってるから。
「なっちゃん!」
飛び起きた僕は寝汗でびっしょりだった。布団が大きくめくれたけど妻はきづいていないように見えた。僕は水を飲みにゆき、顔を洗って、帰りに寝ている妻の額にキスをした。薄く目を開けて、妻は僕に微笑んだ。
「大丈夫だよ」
その頭を抱き寄せて、僕は口の中で一人つぶやいた。
翌朝、部内の戦略会議があり、僕の進めているプロジェクトは、広告費がかさみすぎるという点で、少しもめた。部課長クラスの人間はテレビや雑誌や駅貼り広告の伝達力をあまり重要視していない。力のある商品は大した宣伝がなくとも必ずヒットしていた時代のことをいまだに信じている。必ずヒットさせる自信があるから、広告費なんていう形のないものに予算を費やし、商品単価が上がることを極端に嫌う。それはそれでひとつの考え方ではあったけど、今回の製品は特に大きな金銭を自由にできない学生の層に訴えるものであるから、まず視覚やイメージを先行させて認知してもらうのが先決なのだ。それを固い頭にわからせるためには半日じゃ足らなかった。
「お疲れ」
「あ、お疲れ」
ネクタイをゆるめ、机で一服していた僕に同僚はまたコーヒーをもってきてくれた。
「悪いな」
「いや、ホントは一杯行きたいところだろうけどな」
「うん」
苦笑いして、同僚は上着を着た。時計は11時を回っている。
「あんまり根詰めすぎるなよ」
「あぁ、わかってる」
上司や他のみんなが帰ってしまってから、ラップトップをまた開いた。明日までに今日の会議で足りなかった資料を補わなくてはならない。眠い目をこすりながら カタカタとキーボードを叩く。気がつけば、明かりがついているのは僕の机の上だけだ。家に電話を入れておかねばならない。肩をもみながら受話器に手を伸ばそうとすると、メール受信の合図があった。メール? こんな時間に?
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お返事ありがとう。
トモくんはやっぱりトモくんね。
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僕はしなくちゃいけない電話も忘れて、液晶パネルの角度を変えて見入ってしまった。昨日のメールの返事はまだ書いていないはずだった。朝からずっと会議でそんな暇なかったのだ。
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昨日はお仕事忙しいときに、ホント無理言ってごめんなさい。
ずいぶん丁寧で長い手紙だったので、うれしく拝見しました。
紫陽花のこと、ちゃんと覚えていてくれたかしら。
約束の日はぜひそこで会いたいな。
あの頃の話をして、お酒でも飲みましょう。
ホントは今そばにいて、すぐにでも会いたいんだけど、
無理は言えないもんね。
縞々のネクタイ、お似合いね。
奈津子より
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僕はなんか変な夢でも見ているんだと思った。縞々のネクタイ? なんでそんなことを知っているんだ? 僕はあたりをきょろきょろと見渡した。別段、人の気配はなかったし、窓の外の向かいの建物にだって怪しい人影はなかった。汗が噴き出した。一体これはなんなんだ。念のために机の回りにカメラや盗聴器があるのではと思ったが、それらしいものもなかった。周りの空気が急に淀んで重くなるような気がした。
少ししてから、僕は吹き出した。簡単なトリックじゃないか。同僚のいたずらだ。きっと家から送っているんだ。僕のネクタイを見て、僕の幼なじみの名でそんないたずらができるのはあいつぐらいしかいない。僕は安心して大きな溜息をついた。何だ、解けてしまえばたいしたことない話じゃないか。いや、違う。やはりおかしい。紫陽花だ。あのことは僕しか知らない出来事のはずだ。どこかで誰かが確かに僕のことを見ているのだ。慌てて上着を着て、鞄を手に取った。電気を消し、家に帰ろうとした。そこでまた僕はぎくりとした。メール受信の合図だった。怖々、液晶を起こしてみる。
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そんなに怖がらないで。
私は昔と変わってないわ。
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「誰だ!」
たまらず僕は叫んだ。声は白い廊下に響いて闇に吸い込まれる。
「どこで見てる!」
メールの文字が動き始めた。言葉がさっきより増えている。直接文字で話しているみたいに。
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トモくんに会えてうれしいの。
オトナになってまた会えるなんて、夢みたい。
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「そばにいるなら、顔を見せてくれ!」
僕はもう、液晶に向かって話しかけている。そんな馬鹿なことあっていいのか? 僕は深夜の会社で何をしているんだ?
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私だって顔を見せたいわ。
会って両手で抱きしめたいわよ。
だからはやく、紫陽花の葉の上で会いましょうよ。
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僕は泣きそうになった。
「何を言っているのかわからないよ、紫陽花ってなんのことだい? そういう名前の店があるなら、わかるように言ってくれよ」
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言わなくてもわかるでしょう?
私はそこで待っているから。
早く来てね。
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趣味の悪い冗談だと思った。僕は読み終わる前にパソコンを閉じて、LANケーブルも引き抜いた。付き合ってられるか、馬鹿馬鹿しい。はやく妻と子供のいる家に帰ろう、そう思った。
帰りの道には細心の注意を払った。こんなことで事故ってしまっては、元も子もない。すべての一時停止と速度制限を守り、丁寧にいつもの倍の時間を掛けて、ちゃんと家に辿り着いた。ガレージの中でエンジンを止め、キーを抜くと、僕は体中の力が抜けてゆくのを感じた。 無事に帰って来れたことを心からうれしく思った。
「お帰りなさい」
玄関で靴を脱いでいた僕に、妻は電気をつけぬまま奥の部屋から現れた。
「ただいま、遅れてすまなかったね」
「んーん、お忙しかったんでしょう?」
振り返ってぎょっとした。玄関には大きな花が生けてあり、それは他でもない紫陽花だった。
「こ、これ、どうしたんだ」
指先もおぼつかずに僕は言った。
「なんかね、夕方、花屋さんが持ってきたのよ。あなたが会社の方からいただいたんじゃないかしら。カードが付いていたようだけど、あなたが読んだ方がいいと思って」
奥からそのカードを持ってきた。
「あ、ありがと」
僕はその封筒を読まずに二つ折りにした。妻はあくびをしながら寝室に消えた。僕はその封筒をしばらく眺めていたが、そのままトイレに入り、細かくちぎって水に流した。
「なぁ」
妻の布団に滑り込んで、その頬を撫でた。
「幼いことを言うようだけど、明日目が覚めるまで離さないでいて欲しい」
妻はそんな僕にやさしく微笑むと、両手を僕の背に回した。
「わかったわ」
ぬくもりに包まれながら、僕はなんか涙がこぼれそうになった。胸元に顔を埋めて、少し震えた。そんな僕に「大丈夫?」とか「どうかしたの?」とかさえ言わない妻が愛おしい。言葉じゃない愛情を感覚でわかっている彼女は、本当に僕の救いだと思う。僕は彼女の中でゆっくりとくるくる回りながら、安らかな螺旋の眠りに落ちていった。
やがて寒さで覚ますと妻はいなくて、僕はひとりぼっちだった。布団もはがされた上にとても暗い。僕は怯えた。
聞こえる?
僕は辺りを見回した。妻の名を何度も呼んだ。返事がない。ここはどこなんだろう。ベッドだけが暗闇の中にぽっかり浮かんでいるように見える。これはまだ夢なのかな。
トモくん、聞こえますか?
僕はその声には耳を傾けなかった。僕は妻を探した。何度も名を呼び続けた。返事はなかった。やがて冷たいものが額に落ちてきて、それが雨だと言うことに気が付いた。雨は大粒になり、ベッドと僕をあっと言う間に重く湿らせていく。僕は寒さで歯をがちがちと鳴らした。
光が、遠い光が現れて、それがいつかの太陽であったことを知った。真夏の焼けた地面が濡れる匂い。ふたりで駆け回ったあの頃の、少しバターに似た、そんなやさしい匂いがして、僕の気持ちは激しく揺らぎ始める。甘い夢なんかで誘ってみたって無駄さ。僕はそんなに簡単じゃない。僕は目を閉じ、強く妻のことだけを思う。
意地悪しないで、心を開いて。
私はトモくんを取って食ったりはしないわ。
私に会いたくないの?
せっかく会いに来たのに。
僕は言った。
「会いたいさ、でもいつも姿が見えなくて、そっちからだけ見えてるみたいじゃないか」
昔みたいに会いたいわ。
でも簡単にはいかないの。
「なんのことだい? 僕となっちゃんの仲だろう? ちゃんと会って話をしたいよ」
紫陽花、紫陽花のところへ来てよ。
「玄関の紫陽花のこと?」
そう。できる?
「なんか、こわいよ」
信じて。
暗闇から紫陽花を生けた花瓶が飛んできて、僕の前に浮かんだまま宙に止まった。紫陽花は何かの仕掛けのように奥の方が青くきらめいて、揺らいでいた。火山の底をのぞき込むような、そんな不気味さがあった。僕は緊張して唾をごくりと飲んだ。
会いたいの。
「わかってるよ、でもこうしないと会えないの?」
時間がないの。もう朝が来てしまえば、私はここにはいられなくなる。
僕はなんとなくなっちゃんの言わんとしていることがわかった気がした。普通に会えないのは、つまり生死に関係した何かなのだろう。彼女は遠いそこから僕に働きかけているのだ。だから直接会えないのだ。僕がそこへ歩み寄り、万が一そこから帰って来れないことがあったとしても、それを受け入れなくてはならない気がしてきた。同じようなリスクをきっと彼女も背負って交信しているに違いがないからだ。僕はベッドの上に立ち上がり、紫陽花の花瓶を前にした。何度も妻と子供のことを思った。汗が出たし、本当に自分がしていることが正しいのか自信がもてなかった。でもきらめくその中心に手をさしのべていった。光の渦と強い風に巻き込まれて、僕の体は花の中に吸い込まれた。僕の体は光の粒の集まりとなり、その他の光との境目が溶けてなくなった。至福のイメージが五感のすべてを通して僕を揺さぶる。自我が飛んでなくなってしまいそうだ。やがて人の形に似た白い光の集まりが僕に寄り添い、足下から混じり合っていった。僕は鳥肌が立った。圧倒的ななっちゃんのイメージが襲ってきて、唇や指先や胸や爪先にまでなっちゃんが重なり混じり合っていくような気がした。僕がなっちゃんの中へ混じっているのか、なっちゃんが僕の中へ混じっているのかわからなかったが、やさしいフェラチオのように、全身が包み込まれて、快感の中にすべてを委ねていく感覚に酔った。
会えたね。
涙混じりのような声が響いた。
やっと会えた、うれしい。
「僕は変わったかな」
んーん、私の知っているトモくんのまんま。
「僕もなっちゃんを見たい」
うん、ちょっと待って。
僕の体から光の粒があふれ出して一点に集まっていくと、見る見る間に人の形になった。僕はもう何にも不思議には思わなかった。たくさんの光でできたなっちゃんがそこにいた。姿形は違っても、それは紛れもなくなっちゃんだと言うことが僕にはよくわかった。
「なっちゃんだ」
僕は懐かしくて、うれしくて、そのきらめく体を強く抱きしめた。光は弾けてまた僕と混じり合う。
トモくん。
ぬくもりが日向のように僕を明るく照らしている。僕は境目のない自我に時間を忘れた。
うれしい。
僕は微笑み、さらに深いところへと潜っていった。僕となっちゃんは昔のようにふたりだけの世界を駆けていった。
妻のキスで目が覚めたとき、僕は危うくなっちゃんの名を呼んでしまいそうになった。慌ててそれを飲み込み、おはようと言った。昨日ずいぶんうなされていたようだけど、大丈夫? と妻は言った。体が冷たくなって何度も呼んだのに全然起きなかったから不安だったのよ。でも大丈夫そうでよかった。腕の中で強く抱きしめられ、僕は何も言えなかった。朝御飯、用意するわね。僕の額にくちづけて彼女は寝室を出ていった。サイドボードにはあるはずのない紫陽花の花瓶があった。青い花をたたえ、僕にやさしく微笑んでいた。僕は手を伸ばし、そのみずみずしい蒼い葉に触れた。微かに覚えのある快感が指先を走った。僕は昨日なっちゃんに会ったんだ。多分。僕は花瓶を取り、水をやろうと洗面に立った。紫陽花はとても喜んでいるように見えた。妻の焼く目玉焼きの匂いがしている。