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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) * * * * * * * * *

インディアン・サマー


 大好きだった人の気持ちを抱えて夜更けの家を出た。街の明かりが朝焼けを映す川の向こうに遠くに小さく瞬いていて、たくさんの巨大な虫の目がこっちを眺めている気になった。19までは家出だけど、20を過ぎたら失踪になるんだという誰かの言葉。あたしはまだ失踪まで5年も年を取らなきゃならない。


 煙草に火を点ける。青く透明で、端の方だけを桃色に染めた新しい朝の空に吸い込まれてゆく煙りの渦。洗ったままの髪がワンピースのあいた背中の上を踊っている。


「もう、こんなのいいかげんによそう。おかしくなる」


 リフレインするあなたの声。


「何よ、おかしくなればいいじゃない」
「お前のこと、オレ好きだったよ」
「言葉なんて何も伝えないって言ってた」
「でももう昔のことだ」
「言葉なんていつも邪魔だって言ってたのに」


 コートの前を閉じる。腫れ上がった唇の端の傷。もうあれだけの恋が訪れることはないだろう。たとえ訪れたとしても、それは全部まやかしだと思いたい。そうじゃないと今抱きしめているこの気持ちが、すれて汚れていつかバラバラになってしまう。この思い出さえあればもう死ねるとか、そんな貧乏くさい気持ちならあたしは興味ない。欲しいものは入れ墨やピアスや出産のような、誰にも属さないあたしだけのリアル。


 海沿いの電車に乗る。向かいに座っている髪の赤いニキビ面のカップル。俺達昨日1発やりましたという満足顔で寄り添っていた。窓の外はセーラー服とガクランの高校生の群れがカラスみたいにホームいっぱいにあふれている。その動きを見ていた男の方がつぶやいた。


「なぁ」
「‥ん」
「あの学生達は俺達が宇宙飛行士だということを知らないな」


 女も眠そうな目でうなずく。男の腕を抱き直す。


「地球の醜い青さも知らないんだ」


 海に着くと、昨日まで私を閉じこめていた白い壁の小さな部屋が、壊れて無限に広がってゆくような気持ちになった。海はいつもやさしい。言葉のない部屋、色のない部屋、時間のない部屋。その部屋で私は94の朝と夜を迎えた。学年指導の先生も来たし、自己啓発セラピーの講師も来たし、占師も来たし、田舎のおばあちゃんまで来て、私を部屋から出そうとした。でも私はその部屋から出なかった。本当に空っぽな状態は、どこにもたどり着かないのだと言うことに自分でちゃんと気づくのに、それだけの時間がどうしても必要だった。


 ペパーミントグリーンの付け爪、ラヴボートの黒いワンピース、ターコイズの入った小さなネックレス。いくつかの指輪。そんな些細なものに支えられて、あたしはあたしを保つことができる。あたしがあたしでいつづけることができる。


「こうしているの、好き?」
「ん? 寝てなかったのか‥」
「ね、あたしとこうしているの、好き?」
「あぁ」
「どんな風に」
「‥どんな風? どう説明すればいい」
「冬の暖かい日みたいに好きとか、言って欲しい」
「言葉は信じないんじゃないのか」
「愛しているって言葉を信じないの」
「どうして」
「わからないもん」
「愛が?」
「好きとは違うんでしょう?」
「そうだな。ペプシとコークぐらい違うかな」
「わからない人にはわからないね」
「そう、わからなくても困らない」
「あたし達は?」
「わからなくていい方さ」


 天窓を開けて、裸足で屋上に上がる。私だけの空。逆さまの海。コンクリートの冷たさは、波が爪先を抜けてゆくときの感触に似て、脊髄に快感物質のようなものが走り抜けるのがわかる。プールサイドに座って足をばしゃばしゃ遊ばせるみたいにして、屋上の縁に腰掛ける。ビル風が幾千もの悲しみを巻き上げて、空へと落ちてゆく。エクステンションに染みついた煙草の匂い。あたしの体を裂いたら、ちゃんと赤い血が出るのかよくわからない。


「砂糖でできた友達が僕に言うんだ」
「砂糖?」
「そう、全身が砂糖でできてる友達」
「何それ」
「そいつが一緒に海に行こうって聞かないんだよ」
「溶けちゃうよ」
「うん、だから僕は行きたくなかった。夏の暑い日も、涼しい部屋の中でじっとしていれば、ずっと一緒にいられるもんだと思ってた。でも聞かないんだ」
「行くの?」
「行った。波にもまれてどんどん体が崩れて、小さくなっていったけど、すごくいい顔で笑ってんの」
「何それ悲しい。泣いた?」
「泣いた。最後までその手を離さなかった。でも手の中で溶けて粒になって消えた」
「何て言ってたの」
「私は消えたりなんかしない。潮の中じゃわからないかも知れないけど、ここは全部私って。言葉じゃなかったかも知れないけど、僕にはそう聞こえた。私はここにいる。ここが私だって。日が沈んでからも、僕はがぶがぶその水を飲んだ。少しは彼女が感じられるかと思って。少しだけでも甘かったらそれが彼女なんじゃないかと思って」
「うん」
「でも腹が膨れて、顔がかゆくなっただけだった」
「‥ほんとう?」
「信じなくたっていいよ」
「信じる」
「ここにいると思う?」
「思う」
「‥全部嘘だよ」


 7月、初めて出会った公園の場所には、小さなビルが建っている。きらめく噴水も木漏れ日も、子供達の声も今はない。終わらないあの夏。季節はまた新しい冬を迎える。冬のよく晴れた日のようなあなたの笑顔。生ぬるいアスファルトの上で街の夜明けをもう一度見たい。あなたの肩に頭を乗せて、新しい朝の始まりを共に感じていたい。あたしは煙草に火を点けた。マッチで点けた小さな炎は、微かに夏の花火の匂いがした。