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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

  ラヴフール(www.lovefool.jp) 

明日から、あなた。


 電車に揺られながら、窓の外を泳ぐ桜並木を眺めていた。真新しい日差しの中で、黄色い帽子の小学生が新しいランドセルを揺らして、お母さんの手に引かれていた。ふとあなたのことを思った。私は左手の、あの時とは違う薬指を眺めた。


 会社に入ってから知り合った彼とは、もう2年のつきあいが続いていた。
「結婚とかさ、オレ、まだあんまり考えられないんだ」
 聞いてもいないのにいいわけじみたことを言う彼に私はやさしく微笑んだ。
「こうしていられたら、別にいいの」
 そうして強い腕の中でカールしている彼の髪を撫でた。汗も乾いて、程よい眠気が全身に広がっていた。私は彼がホントのことを言っているのがわかった。週末に1度だけのデート。会社が離れているせいもあるけど、それに不満はなかった。私の他に好きな人がいるようにも見えないし、私に対して割り切ったつきあいを求めるほどすれた人ではなかったけど、彼は自分の正直な気持ちを伝え、それを私に受け入れてもらいたかったんだと思った。


「ねぇ」
「んー?」
「好きって言って」


 うとうとしかけていたあなたに、私はついそんなことをつぶやいた。言ってしまってから恥ずかしくなった。彼はとろんと薄目を開けて、私の顔を手繰り寄せてキスをした。ゆっくりと唇を触れ合わせ、やさしく舌を這わせた。私は目を閉じて彼の想いを感じようとした。でも、なんだかそれはどうでも良さそうなキスだった。終わるとすぐにいびきを立てて彼は眠ってしまった。明日、早いんだもんね。寝顔をのぞき込みながら私は自分にそう言い聞かせた。


 彼と駅で別れてからすぐに高橋さんの携帯に電話をかけた。何でもいいから誰かと話しをしたかった。高橋さんは大学のテニスのサークルで知り合った先輩だ。何度かデートをして、1度キスをした。今でもときどき二人で会っては飲みに行ったりする。


 コールは長く、7コール目につながった。
「あ、私ですけど」
「え? あぁ、久しぶり、どうしたの?」
 電話の向こうは騒がしかった。女の子が高橋さんをちゃかす声もたくさん聞こえた。聞き取りにくいのだろう、私は大きな声で何度も同じことを言わなくてはならなかった。こんなことなら、かけなければよかったと私は後悔した。
「ごめんなさい。用事はないんです」
「あ、待って、ねぇ、切らないで。今、外だろう。どこにいるの」
 声を聞きたかっただけだったので、少し迷ったが、私は正直に言った。
「‥横浜です」
「横浜? よかった。横浜なら、オレも今そばなんだ。ね、ちょっと待っててよ」
「いえ、またかけます。今度にしましょう」
「いや、今迎えに行くよ」
 結局、待ち合わせの約束なんかして、駅前のロータリーで拾われた。
「すみません」
 と私は言った。
「いや、会いたいと思ってたんだ。最近連絡なかったし」
 と高橋さんは言った。
「しばらく仕事が忙しかったから。でも、会えてよかった」
 思ってもいないことを私は言った。声だけの方が本当はずっとよかった。
「僕もさ」
 高橋さんの服からは煙草の匂いがした。私といるときは吸っているところを見たことがないから、誰か他の人の匂いなんだろうなと思った。一緒に女物の香水の匂いも混じっていた。私は車の窓を少し開けた。隙間から夜の匂いがすっと忍び込んできて、春なんだなと私は思った。


「人から聞いたんだけど」
 高橋さんが言った。
「何か結婚するんだって?」
 私はびっくりした。会社では誰にも言ってないのに。
「まだですよ。もういい加減そういう年だねとは、よく言われますけどね」
 それを聞いて高橋さんは意外そうな声を上げた。
「あれ、そんなのんきな話しだと思わなかったけどなぁ」
「第一、もらい手がいないもの」
 と私ははぐらかした。
「はは、じゃあ、彼はどうなる」
 目をのぞき込むように高橋さんは言った。私は笑って見せた。
「‥どうなんでしょう。私の方が聞きたいです」


 スピーカーから小さな音でジャズピアノが流れていて、同じように夜の街も流れていた。私はシートを少し傾けた。高橋さんはひざ掛けを貸してくれた。夜は静かで広かった。窓の外を走る街の明かりを眺めながら、このままずっと朝が来なければいいのにと思った。少しずつ眠気がやってきて、私はうとうとした。信号が赤に変わり、車が息を潜めた獣のようにおとなしく停まった。見上げると、月が大きく昇って満月だった。信号を待ちながら、高橋さんは突然に私に覆いかぶさり、キスをした。私はびっくりしたけど、胸を押さえつけられて動けなかった。


「行っちゃダメだ」
 と高橋さんは言った。
「まだ、人のものになんかなるな」
 子供みたいにそう言って、窓の外に目をやった。
「好きだったんだぜ、こんなんでもさ」
  寂しそうな横顔だった。私は何も言えなかった。




 それからまもなく彼は私の両親に会いに来た。ナフタリン臭い、見慣れないスーツを着て、床屋まで行きたての頭で、何度も玄関の前で咳払いをした。


「今日はご両親に大事なお話があって、おじゃましました」


 私にさえ、何の前振りもなく突然日曜日にそう言ってきた。底抜けに晴れた夏の日だった。父は血相を変え、母はおろおろした。私はうれしかった。彼のそういう突飛なところが好きだった。いつも私をわくわくさせてくれた。私は圧倒的に胸をときめかせながら、彼の立った小さくも華々しい舞台を見上げた。何度もどもりながら彼は真摯に言葉を並べた。父親は腕を組んで彼を見おろしていた。母親はそわそわと何度もお茶を入れ直した。彼はたくさんの汗を顔に浮かべ、何度も額を低く畳に押しつけた。父は黙ったままだった。汗は落ち、畳に吸い込まれて、いくつもの小さな染みになった。私は見慣れない彼の姿を見て涙が出た。彼の真摯さがまるで自分に向けられたものじゃないみたいに感動した。たまたま帰っていた妹まで、私にもらい泣きして柱にかじりついていた。そうして、私たちは無事婚約をした。


 こじんまりとした、それでいて優しい色の家で、私は彼と彼の間に出来るのかもしれない子供たちのことを思った。私にちゃんと家族や家庭ができるのかしら。全然わからなかった。思い浮かぶのは、カーテンから漏れる日差し、笑い声、温かいクリームシチューの匂い、仲良く並んだ大きさの違う自転車、青い空の下に誇らしげにたなびく洗濯物。あまりにつたなくて、未熟な自分がおかしかった。


「オレは認めないぞ」


 最初はそう言って聞かなかった父も、最近ではずいぶん丸くなった。一時期なんて、新聞を広げ、背中を向けたまま、口だって聞いてくれなかった。今ではすすんで式場の手配をしてくれている。頼んでいないのに子供の名前の画数まで、本を買い込んで考えている。


 私は約束の時間にまだ余裕があることを確認して駅を降り、さっき見えた桜並木の下へ向かった。二列に並んだ幼稚園児達が手をつなぎあって、沿線を歩いてくる。黄色い帽子、新しいスモッグ、ビニールのバッチ、お揃いの靴。小さな体にずいぶん大きな鞄を下げて、園児達は歩いている。三つ編みだったり、鼻たれだったり、小さな顔立ちに将来が有望だったりなかったり。なんて小さくて、なんてかわいいんだろうと思った。私が彼と結婚して、子供ができたら、いつかこんな風に歩くのだろうか。待ち遠しくもあるけど、何か想像がつかない。立ち止まっていると、気づいた保母さんたちが私に会釈した。私も慌てて返した。勢いがよすぎて眼鏡が落ちそうになった。幼い声を上げながら、とろとろと進んでいく黄色い帽子たちの背中たちは、アヒルの子みたいだと思った。


 日差しは水玉のようにまんまるでおおらかだった。風に乗っていろんな花の匂いがした。クモの巣に光る朝露にいくつもの私が映っている。結婚式はもう明日だ。なんか実感がない。彼のことを「あなた」とか呼んじゃうのかな。何だか不思議で恥ずかしかった。結婚式場をいくつも回って、もう充分ってくらい結婚式には詳しくなった。でもちっとも詳しくならないのは結婚そのものについてだ。一緒に暮らしたいと私は言った。彼がそれに応えてくれた。それがすべてで全部のはずなのに、結納とか、お色直しとか、引き出物とか、入籍とか、新婚旅行まで、いろんな人が埋めるべき枠と、見積もりを持ってやってきた。何かワープロの代筆ソフトみたいだ。人からもらったときに自分は絶対やるまいと誓った「結婚しました」のような写真付きのハガキ、それも二人の名前の間が薄い色のハートで塗ってあるようなそんなものでさえ、私たちの知らないところで500枚も刷ることが決まっていたりする。もちろん父の計らいだ。当日、式場に行ってみたら、ドライアイスにサーチライトにゴンドラで登場なんてことにもなりかねない。それを思うと頭が痛かった。


 桜並木のトンネルを抜けながら私は空を見上げた。桃色の花びらの合間にのぞく日差しは涼しげで柔らかだった。絶え間なく散りゆく花びらの中で、私はもう一度、二人の家のことを考えた。
 小さな犬、まんまるのやかん、学校からもらってきた古くて大きなオルガン。庭にはバジルを植えて、あなたが釣った魚を焼く。赤い屋根の小さな家だ。
「ごめんなさい」
 時間に遅れ、駅で待ち疲れていた彼に私は駆けていった。
「いや、今来たとこだよ」
 彼はやさしい笑顔で迎えてくれた。私はうれしかった。
「行こう、みんな待ってる」
 私は彼の腕を取った。明日歩く、赤い絨毯の上を思い浮かべた。