「ねぇ、止めたんでしょう?」
左手の指先を見てアサコが嫌そうな顔をした。
「これから止めるんだ、もうラス1だし」
と僕は笑う。
「もう買わない?」
「買わないよ」
「約束する?」
「するよ、もう買わない」
ガードレールにもたれ、やれやれというふうにアサコは下を向く。ついこないだまで自分も吸っていたくせにと僕は思う。参っちゃうな、止めた途端これだもん。
雨に煙るバス停で始バスを待つ。腕時計は6時を過ぎたばかりだ。予定まであと23分。かなり寒い。しりとりでもしようよという僕にアサコは答えてくれない。
最後の1本に火を付け、残ったパッケージをくしゃっとねじりあげる。先が曲がってしまっている。湿気のせいか、ほとんど味がしない。これなら丸めた新聞紙に火を点けたって変わらない。綺麗に丸めれば長い煙草ができて、残りの時間だって退屈しないで済むかもしれない。
バス停には僕ら以外にも人が並んでいる。腰の曲がったおばあちゃんとおかっぱで赤いチェックのスカートを穿いた小さな女の子。
始発でおばあちゃんが孫を連れて、いったい何処に向かうのだろう。手荷物がなく草履のようなものを履いているのは家が近いせいだろう。女の子はこうして並んでいるのが日課のような顔をしていて、僕らみたいにいつもと違う土地で、いつもと違う時間に起こされて眠いというふうには見えない。
「東京からいらしたんですか?」
雨の中を行き交う車を眺めていた僕におばあちゃんが声を掛けてきた。僕らは顔を見合わせてうなずいた。
「東京のどの辺ですか?」
「八王子です」
あぁ、八王子ですかとおばあちゃんは言った。
「あそこはいい所ですよねぇ。まだ自然が残っていてね」
見方によってはそんな言い方もあるのだなと僕らは山の上の学校のことを思い出し、ちょっと笑った。おばあちゃんは女の子を呼ぶ。
「ヨウコちゃん、お兄さんたち東京からいらしたんですって」
女の子はおばあちゃんの柄もののもんぺに腕を巻き付けて、照れ臭そうに指をくわえていた。前歯が抜けている。お兄さんたちにはじめまして、こんにちわは?と言うおばあちゃんに、顔を真っ赤にした。
「あーら、照れちゃったのー?」
やがて冬眠から覚めた熊のようにバスがぬらりとやって来て、僕らの前に停まった。僕らは二人掛けの座席に腰掛けた。女の子は一番前の席に飛び乗った。そのすぐ後ろにおばあちゃんが座った。運転手は日課にしているのか、バスを降りるとワイシャツを脱ぎ、タオルを手にバス停の脇で自己流の体操を始めた。
寝てていいよと言う前に、アサコはとっくに寝息を立てていた。僕はその寝顔を眺めて、アサコは昨日の夜、両親に何と言って家を出てきたのだろうと思った。
エンジンがぶるぶると震えだし、バスがゆっくりと走り始めた。空は朝らしい明るさを取り戻し、僕は今、昨日とは違う土地にいるんだと思った。雨足はすっかり自分のリズムをつかんでいて、ちょっとのことでは止みそうになかった。6時半でも道は普通以上に賑わっていて、バス停に近付く車線変更がうまくゆかなかった。市内を走ると高速バスでは見られなかった日常的な建物がいくつも現れては通り過ぎていった。乗客は少しずつ増えていった。そのほとんどが顔見知りのようだった。ある女の子は夜店で買ってもらったという赤いビニール地の財布をチェックのスカートの子に自慢していた。おかっぱの彼女も早速おばあちゃんにおねだりする。
やがてバスは大きな建物の前に停まり、その人達は一斉に降りていった。誰もいなくなってしまうと、今まで見ていたのはがらりと空いた木張りの床が見せた短い夢のようにも思えた。案外このバスにアサコと乗っていること自体、もう夢なのかもしれない。だとしたらずっと覚めないといい。僕もそろそろ眠くなり始めていた。
バスの大きな揺れに、掛けていた肘が外れて目を覚ました。まぶしい目を細めて窓の外を見ると、さっきまでの景色とはだいぶ様子が変わっていた。ずいぶん山の方にまでバスは来ているようだ。時計を見ると7時を回っている。車内は自分と同い年くらいの学生ばかりになっていて、さっきまで広がっていた平らな床はひしめく足で埋まっていた。次は終点というアナウンスに僕は隣の眠り姫を起こした。
美術館の前でバスは停まり荷物を下ろした。
小さな屋根の下でアサコは鞄から手書きの地図を取り出した。泊まる予定のアパートまでの道程が書いてある。明るくても寒さは変わることがない。じっと便箋を見つめながら、けっこう遠そうなんだよねとアサコが言った。
僕は空を見上げた。明るさのわりにはしっかりした雨足。前に進むしかないだろう。
ふぅとアサコは弱気な声を出す。どうしたの?と僕は聞く。
「迷うかもしれない」
僕は気にしないよというふうに笑う。アサコの不安そうな顔に向かって言う。
「だいじょうぶだよ」
穏やかな坂が伸びていて、そこを昇るところから僕らは始めた。雨はたいしたことないように見えたけど、土地勘のない僕らの体はすぐにびしょ濡れになった。重い荷物を何度も持ち変え、濡れた髪をかき上げて、そのアパートを探した。地主が多いのか、古くて大きな家が続く。街は何も言わずに僕らの行方を見守っている。
「多分、こっち」
アサコの示す指先に僕は黙ってついてゆく。
「あれ?」
と先を歩くアサコが言った。アサコの足を見ながらついてきた僕はつんのめりそうになった。
「なに?」
「ないの、この辺にあるはずの目印」
アサコは僕に荷物を預けた。不安そうな面持ちで地図を握り締めると、その先の十字路までと小走りに駆けていった。
「どーおー?」
大声を出す僕に、アサコはもう一度だけ左右を確認して大きく首を傾げた。
「目印って?」
戻ってきたアサコから地図を受け取る。下宿している友達が書いてくれた地図だ。水色の便箋に青い文字、アサコの友達らしいよく似た字が並んでいた。アサコは濡れた髪を耳の上に掻き上げた。弾んだ温かい息がすぐ側にある。
「これ、さっきここにいたでしょ? ね。バス停があっちだから、こうして見て‥ で、こう曲がって、こう来たから、今度はここに来るはずなのね? でもこの絵の横断歩道が、ほら、ないの」
便箋の上の雨粒が青い文字を溶かしていってしまう。僕は道順を暗記して、それ以上濡れてしまわないよう元通りに急いで折り畳んだ。
「普通、横断歩道とかって目印にしないよねぇ」
アサコは報われない努力につんと唇をとがらせる。僕は微笑む。
「仕方ないよ、一つ前の道まで戻ってみよう」
重い足を引きずり、僕らは昇ってきた坂をまた下ってゆく。どこからやって来たのか地面に太いミミズが何匹も這い出していて、久し振りの雨の中で楽しそうにのた打ち回っている。真剣に道の事だけを考えていると踏んでしまいそうになる。辺りの生臭い匂いはきっとそのせいだ。
「こっちかも知れない」
いくつかの細い道を試す。時計は8時に近付いている。もう30分近く雨の中を歩いていることになる。どこかで傘を手に入れたとしても、風邪を引く確率は変わらないだろう。濡れた髪、濡れたTシャツ。ジーンズは膝が曲がらないし、せっかくのアサコのよそ行きのワンピースも足にまとわりついてしまっていて煩わしそうだ。アパートに着いたら、持ってきた大きなバスタオルでよく拭いてあげよう。
額から垂れてくる雨を拭う。雨をしのげそうな場所は見当たらなかった。それに今は少しでも動いていないと、眠気と寒さでくじけてしまいそうだ。
「ねぇ、朝飯、何食べたい?」
沈んできた気持ちを切り替えようと、僕は言った。
「トモユキの好きなものでいいよ」
とアサコはやさしく笑う。その顔を見てもう疲れを隠せなくなっているのがわかる。
「じゃあね、決めるよ。チーズのついたロールパンとトマトジュース」
アサコは笑い出す。そんなどうでもいいことにひたむきになれる僕をいつも笑う。
「あ、知らないんだ! どんなに疲れててもちゃんと食べれる組み合わせなのに」
「おいしんだよね」
「もちろんだよ」
細く曲がりくねった坂道を僕らは登っていった。多分この道に違いない。はぁ、ほんともう疲れちゃったね。息を切らしながらアサコが言う。
「温かい布団で、早く寝たいね」
「死ぬほど寝ようよ」
ふいに鼻先を青い畳の匂いがよぎった気がした。
「あ、あたしのパジャマ、きっと笑われるなぁ」
「サンリオとか?」
「まさかー!」
「じゃあ、何?」
「‥んー、やっぱり似たようなもんかなぁ」
「かっこ悪かったら没収だよ」
「え、はだか?」
「夏だもん」
遠い雲に細い切れ目ができていて、そこから微かに陽の光が漏れている。ほら夏の太陽だ。ふたりは立ち止まる。想像してみなよ。あのむこうに広がる素晴らしい青空を。風に薫る、夏の匂いを。
ねぇとアサコが言った。
「夕飯食べながら、話そうね」
「ん?」
と振り向きながら、僕は満たされてゆく胸の中の輝きを思った。沈まない夕日のような黄金の輝きを。
「明日、どこに行くか」
その顔を見て僕はにっこりうなずいた。
終わり