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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」17章


 カーテンの隙間から漏れる光は、一定の明るさを越えることをためらっている。僕はアサコの寝顔をずっと眺めていた。茶色い毛布に小さく丸まり、額や頬に差した影の色は、車の向きによって変化を繰り返す。椅子の下に垂れた手は僕の指先を放さずにいる。
 車はゆっくりとした走りを続けている。小刻みにブレーキを踏むのはもう市内に入ったからだろうか。突然2つのモニターにスイッチが入り、朝のビデオが始まる。画面の向こうの赤い髪のバスガイドは今日も冴えない。光の3原色みたいにその輪郭は三重ににじんでいる。大きな音に他の乗客たちも目を覚ます。車内の電気がつく。あくびの声、寝息の匂い、背伸びしようと天井に突き出した何本もの腕。一斉にカーテンが開けられる。僕は目を細める。そこに広がったのは鉛色の暗い朝だった。
「雨だ」
 と僕はつぶやく。舌打ちをする乗客もいる。僕もなんだか呆けてしまっている。煙るように淡い雨には音がない。音をテーマにしたスライドを見ているみたいだ。
「‥ん、雨? 雨って言ったの? トモユキ」
 まぶたをこすりながらアサコが目を覚ます。起き上がる拍子に毛布が床に落ちる。胸元のボタンが、僕が外したままになっている。白いレースの縁と大事そうに包まれた柔らかな胸元がのぞいている。僕は毛布を拾い上げて手渡した。
「おはよう」
 アサコは毛布を受け取り、その下で服装を整えた。車の椅子の上でホックを止めるのは難しそうに見えた。眺めている僕に気付くと眠そうな目で笑った。
「もう着くみたいだよ」
「雨なんだね‥」
「うん」
「全然考えてなかった」
 アサコは大きなあくびをした。僕はその向こうの窓に目をやった。まるで夢の続きみたいに遠く淡かった。セブンイレブンも、高層マンションも、デニーズも雑居ビルもなく、ただ平坦で細身の古い木造住宅ばかりが続いた。雨に濡れたひび割れた瓦や軒下には干物が干してある。
「‥寒いね」
 とアサコが首まで毛布を被り直して言った。
上着なんて一つも持ってこなかったよ」
「傘もないね」
 ガラスは白く曇っている。アサコは寝そべったまま、指先で曇りガラスに小さな窓を作る。たまった水滴が車の振動の中で幾本かの筋になって流れる。信号を待っていると、古いポストの脇で、濡れた黒猫が二人を見上げて鳴いた。僕らは顔を見合わせて笑った。アサコの唇には色がなく、白く乾燥している。
「ずっと、雨じゃないよね」
 アサコらしくない弱音に僕は笑った。
「きっと晴れるよね」
 僕はなんだかうれしくなってしまう。
「明日は暑いよ」
「いろんなところ行こうね」
「ふたりで?」
 と言うと、今度はアサコは笑った。
「おかしいかな?」
「んーん。トモユキ、まだ信じてないんだなと思って」
 僕は照れて困ったように笑った。
「そうだよね、京都だもん」
「ホンモノの京都」
 それは不思議な気持ちだった。ノットリアル。色もなく、音もなく、景色はいつも画面の向こうにあった。つけっぱなしのテレビが映す明け方の天気予報みたいに。例えこのバスが人をはねてしまっても僕は溜め息をついて目をつむるだけだろう。電源ボタンを探すだろう。何も思わない。何も感じない。アサコはまたうとうとしている。寝息で小さな窓も白く消えてゆく。バスは走り続ける。まるで演奏の終わったレコードの上を回る針のように。



 車椅子を押していた看護婦に30分の時間をもらって、二人は庭に出た。大して広い庭じゃない。短く刈られた芝があって、プランターが等間隔に並んでいるような庭。プラタナスの黄色い葉が並び、病室に差し込む光を和らげている。地面を低く走る風が冷たい。この葉もあと何日かで散ってしまうのだろう。
 僕は足速に歩いた。彼の慣れない車椅子より何歩も先を。トクシマさんがそばにいる。視界の隅にだって入れたくないし、同じ空気も吸いたくない。増してやその車椅子に手を差し延べることもない。今すぐに車椅子をひっくりかえして、治りかけたその傷を増やしてやったっていい。このまま振り返らずにイカスミで帰ったっていい。彼女は一瞬にすべてを察して「はやく行きましょう」と強く僕の手を取るだろう。爽やかな風の中で「いいのよ、忘れましょう」とやさしく髪を撫でてくれるだろう。
「なぁ、そこでいい」
 切らした息を遠くに、僕は数メートルも通過した白いスティールのベンチを振り返った。トクシマさんは顔をしかめてぐったりとしている。濁った白目が血走っている。ほんの十数メートルなのにだらだらと濃い汗を流して、首元が濡れていた。
 僕は一歩一歩をプライドを確かめるようにして、トクシマさんのいる位置まで戻っていった。早々と散ってしまった何枚かの葉が、ブーツの下で小さく乾いた悲鳴をあげた。灰色のやせたトカゲが幹の上を這って逃げる。
 トクシマさんは奇抜な柄のパジャマの胸のポケットから、煙草を取り出して火を点けた。マルボロライト・メンソール。教務室でいつも吸っていたエコーは、ここではあまり手に入らないのだろう。僕もケントに火を点ける。
「まさかこんなところでって思ったろう」
 紫色にくすんだ唇から長く煙を吐き出して、トクシマさんはそう言った。
「近いんだよ、実家が。向ヶ丘なんだ。ずっと池袋だと金が掛かるし、結局、親に頼っちゃったよ。もうすぐ30にもなるってのに」
 気持ちを和ませようとトクシマさんはぎこちなく笑ってみせる。髭の間から黄色い歯がのぞく。僕は隣の幼稚園の子供達を柵越しにずっと眺めている。
「どうだ?学校は。ちゃんと行ってるか?」
 僕は目を向けない。風が木々をさらさらと揺らしている。
「単位とか早いうちに取れるだけ取っておけよ? 学生の気持ちがどんなだったかはオレもわかるけど、そのうち就職活動が始まればさ、のんきな事言ってられなくなるぜ‥」
「やめてください」
 と僕は言った。その口調でトクシマさんは緊張なんか解けるはずがないことを悟った。一瞬、目を見開いて一拍おいてからふうと溜め息をついた。まぁこうなることはわかっていたけどね、みたいな溜め息だ。
「まるで父親ですね、その言い方」
 と僕は言った。
「いや、そんなつもりはないよ」
「伝えたいことを話してください」
 柵の向こうでは園児たちが親の迎えを待っていた。大きな複合遊具や、ぶらんこ、砂場の上に青いスモッグの小さな体がひしめいている。上り棒のてっペんで片膝をかけた男の子がじっとこちらを見ている。彼の目に映った僕らはどんな姿だろう。
 トクシマさんは汚れた包帯に包まれた爪先を見つめ、深く煙草を吸った。冷たい風が落ち葉を抱えて僕らの前を走り抜けていく。
「タイミングだと思うんだ、全部」
 墓石に向かって花を置くように落ち着いた口調でそう言った。
「オレは運命だとか、前世だとかの類いは信じない。でもその代わりに感じることがある。自分の未来を動かすてこの差し込み口が見えるんだ。節目っていうのかな。様々な時間の節目をオレはみつけることができる。そこに挿すべきカードはいつだって手の中にあるんだ。形はいつも違う。持っていようと常日頃思っているわけじゃなくて、節目を見た瞬間に手の中にあることに気が付く。カードにはオレの新しい可能性がたくさん詰まっていて、オレを先へと導いてくれる。次の朝から世界をがらりと変えてしまうんだ。昨日より住みやすいオレだけの世界に様替わりしてる。世界がオレを祝福してくれる。いつだってそうなんだ」
 慎重に言葉を選びながら抽象的にトクシマさんは言う。
「でもその方法は、オレ以外の人たちを傷つけてしまうことを知っている。誰かの不幸を束ねて成り立つ、傲慢な城だってことを知っている。昔は‥ 若い頃は、それでもいい、一度だけの限りあるオレの人生を存分に楽しく生きて何が悪いと思ってたよ。でも違う気もするんだ」
「トクシマさんの人生観なんか聞きたくないです」
 僕はトクシマさんを制した。
「僕に話しがあるんでしょう? それを話してください」
 OKOKという感じにトクシマさんは細かく何度もうなずいた。僕は唾を吐きたかった。
「クドウのことは昔からよく思ってたよ。かわいい生徒だった。何かをするわけでもないのに、そばにいることをすごく意識してしまう女の子だった。ちょっとした言葉を交わすだけでもオレの中の何かが揺れる。不思議な娘だった。
 でもそんな女の子が特別めずらしいかって言うと、そうでもなかった。不特定多数の中の一人という程度でしかなかった。クドウじゃなくても、似たような代わりなんて幾らでもいると思っていた。当時オレには大学時代に知り合った年上の恋人がいたし、地味な女だったけど、そいつと将来結婚する事も何度か考えていた。
 というか彼女が年を気にして焦り始めていたんだけどな。ほら、そういうのってなんかの弾みとか、きっかけがないと先に進まないものだろ? まぁそれもきっかけと言えば、きっかけのひとつだろうとオレは思った。
 高円寺に同棲向けのそこそこいいアパートもみつけて、就職も決まった。
 端寄って言うけど、そいつとはだんだんうまくいかなくなったんだ。オレは‥ うん、そのなんつうか、アパートに生徒を連れこんじゃったんだな。そばにホテルだってあったのに、わざわざそんな危険を冒した。10才近く離れた女の子に、大丈夫なんですかって言われながら、だいじょぶだいじょぶって答えて、抱き寄せて、キスして、服を脱がしてさ、ぴったりのタイミングで、彼女が帰ってきたんだよ。仕事を早退してきた。
 彼女と目を合わせてもオレは動きを止めることさえ忘れていた。オレが立っていた地面は音を立てて崩れたよ。彼女と別れて、アパートを引き払って、卒業の単位を落として、就職浪人だって。恥ずかしいよな。親もあきれて送金してくれなくなった。オレは毎日どこかの誰かを誘っては飲んだ暮れていた。
 ある日、クローゼットもあった昔のジャケットを着て街に出たんだ。彼女と過ごした初めての誕生日にもらったツイードで、楽しかった頃によく着てた服だよ。それを着て吐くまで飲んだんだ。吐くまで飲もうってその日は決めていたんだよ。
 便器を抱えてすっきりした後にポケットにハンカチを探したら、電話番号を書いた紙切れが入ってた。紙はくしゃくしゃだった。名前もなかったけど、それが誰のかはすぐに思い出した。クドウのだったんだ。オレはそれを見て笑ったよ。そのジャケットを今さら着たくなった理由と答えがそこにあったみたいで、うれしくなってしまったんだ。店を出てドロドロのシャツのまま電話を掛けた。夜中の2時だ。驚いてたよ。だいたい電話なんて1度だって掛けたことなんてないのに、すごく酔っ払ってて、夜中の2時なんだぜ。オレは笑いながらよくわかんないことをずっとつぶやいていた。彼女と別れて、今のオレに何が必要なのかやっとわかったんだとか、神様は信じないが出会いだけは神聖だと信じてるんだとか、今日はこのボックスの中で朝までいようと思うんだとか、今だけ名前で呼んでみていいかとかそういうのだ。クドウは笑って相手にしてくれなかった。でも無視しているわけでもなかった。電話を切らずに話しを聞いていてくれた。販売機で1000円のカードを3枚も買い足したよ。同じ話題を何度繰り返したかわからない。それでもクドウは笑って聞いていてくれた。ビルの合間の空が少しずつ明るくなっていった。
 話すこともなくなって曖昧な沈黙が続いていたけど、名前を呼ぶと「なぁに」とクドウは答えた。それが心地よくって仕方がなかった。何度も名前を呼んで何度も「なぁに」という声を聞いた。ただそれだけなんだ。ただそれだけだけど、今オレに必要なものが全部つまってた。わかるだろ?」
 トクシマさんは自分にうなずいた。
「聞いてなかったんですか?」
 と僕は言った。
「聞きたくないって言ったでしょう? トクシマさんがどんな時にどんな選択をして生きて来たかなんて、僕には関係のない事です。これからどうするつもりなのか、それについて僕に関係することだけをはっきりさせてください、それを聞いたら僕は帰ります」
 トクシマさんは悲しそうな顔をした。僕はたまらなかった。事情なんてどうだっていいのだ。それはもう起こってしまったことだし、誰の手の届かない世界のことなのだ。僕は選びたい。これから迫りくる現実の中でちゃんと自分の選択をしたい。例えろくな選択肢が残されていなくても、選ぶことの中に僕という意思が存在するはずなんだ。
「‥もうクドウアサコに会わないで欲しい。これはお願いだ」
 トクシマさんはそう言った。僕は眉間に込み上げてくる熱を感じた。
「オレたちは愛し合っているんだ」
 次々に喉元に溢れ出してくる言葉はどれも感情的で情けなかった。
「アサコがここにいないのに、よくそう言い切れますね」
「君に会いたくないと言っている」
「君にだなんて、こういう話しのときは、そういう言い方になるんですね」
「茶化さないでくれ、真剣な話しをしているんだよ」
「僕だって真剣です」
「これ以上クドウを苦しめたくないんだ」
「そんな身勝手な話、聞けるわけないでしょう。僕がひとりでアサコを苦しめているんですか? つらい気持ちにさせているんですか?」
 トクシマさんは苦い汁でも飲まされたような顔をして、車椅子の上で体を屈めた。
「もう止められないんだ。これは動きだしちゃったことなんだよ」
「僕はアサコを愛しています。この先どんな困難が待っていようと構わない。トクシマさんが会いたいなら会いたいだけ会えばいい。もちろんアサコの同意は必要です。僕はそんなことにひるんだりしない。はいそうですかなんて身を引けるほどやさしくもできていない。僕にはアサコが必要だし、他の誰よりも大事にしているつもりだし、その代用は世界に一つだってないんです。だいたいアサコのいない席でこんな話しをして、何もかも綺麗に片付くと思っているんですか? 僕がそんなにできた人間だと思っているんですか? 僕は自分の目で見たものしか信じない。トクシマさんがアサコについて何と言おうとアサコから直接聞いた話し以外は信じない。大体トクシマさんが僕だったら、そんな話で、素直に納得できるんですか?」
 トクシマさんはうなだれていた。こんなはずじゃない、オレが言いたかったのはもっと単純なことだったはずだとでも言うふうに。
「言っておきたいのはオレにもクドウを好きになる権利があるし、彼女には、自分が誰を好きかを決める権利があって、そういう自由だけは誰であろうと侵すことができないってことだ」
 僕は笑った。
「権利を主張しに来たんですか? 教え子に手を出してる暇なんかあったら法律家にでもなればいいじゃないですか。好きな人を取り合おうってときにトクシマさんは権利のあるなしでそれを決めるんですか? 選ぶのはあなたじゃない、権利の有無でもない、アサコです」
「きっと醜く見えてるんだろうな。でもそれより‥」
 トクシマさんは僕を見て言った。
「‥いや、なんでもない」


 イカスミはくたびれた僕の顔を見て微笑んだ。彼女はいつだってやさしい。音のない言葉をいくつも知っていて、僕はその度にはやく元気になろうという気になる。サイクリングしながら歌う僕の歌を彼女はとても気に入っている。大丈夫、ちょっとだけ待って。すぐにまた歌ってみせるよ。
 イカスミとふたりで歩きながら病院を出た。とてもサイクリングを楽しめるような気持ちではなかった。いいのよ、無理しないでと彼女は言った。僕は微笑んでみたけど、ぎこちない皺が頬に走っただけだった。門を出たところで人影があり、振り返るとそれはイクタエリだった。僕はもう驚かなかった。




 霧のような雨なのに雨足は少しも弱まらなかった。8月とは思えないほど空気は冷たく、車を降りると鳥肌が立った。
「寒いね」
 とアサコが首をすくめた。バスのトランクから荷物を降ろしてもらい、走って駅ビルに逃げ込む。まだどの店もシャッターを降ろしている。僕らは鞄からバスタオルを出して髪や肩を拭いた。濡れた髪のアサコは室内犬みたいだ。
「どうしよう」
「ん、朝飯?」
「うん、それもあるけど、すぐ家まで行く? それとも雨が止むまで休んでからにする?」
 7時間も車で揺られたせいで、からだは重く血の巡りが悪かった。休みたかったけど、冷気はからだの奥にまで染み込んで来るようだった。石造りのベンチがある休憩所に目をやった。
「温かいお茶を買ってそれを飲む間だけ休もう。このぶんじゃ雨は止まないと思うんだ」
 声に出さないでアサコはうなずいた。やはり疲れているのだろう。財布の小銭を探し始めたアサコに、いいよと言って僕は自動販売横に向かった。
「ありがとう」
 両手で抱えて大きな缶を傾ける。季節柄かあまり熱くなっていない。白い喉が揺れている。僕は立ち上がり、奥まで続く地下街を眺めた。閉店前までは節電しているのだろうか。蛍光灯の薄暗い緑色が、閑散とした通りを余計貧弱に浮き立たせる。ムード音楽がエンドレスに流れている。くしゃくしゃに丸まった新聞紙や、タイルの染みや、隅に溜まった黒い綿埃が、色のない通路ではやたらと目についた。
 アサコはうとうとしている。僕は家に電話を掛けた。電話の脇には汚れた大きな袋が置いてあり、よく見るとそれは眠る浮浪者だ。漫画みたいな黄色い鼻提灯を膨らましている。
「行こうか」
 眠り掛けていたアサコに、僕は声を掛けた。
「布団の上でちゃんと寝ないと、ね」
 差し出した腕を引いてアサコを立たせる。手が熱い。不満そうにまぶたを擦って、唇を窄ませる。
 荷物に手を掛け、駅前のロータリーに向かって歩き始める。足は休む前よりずっと重い。急がなきゃと僕は思う。アサコの荷物を取り、手を引いて足速になる。外から差し込んでくる光はさっきより幾分明るくなったように見える。さぁ、歩こう。歩き始めよう。アパートは必ず僕らを迎えてくれるのだから。僕らはそこに、ただ辿り着くだけでいい。



 死んだような僕の目を見てもイクタは何も言わなかった。何を言おうと無駄だろうと感覚的に察しているのかもしれない。イカスミとイクタに挟まれながら、僕は黙って午後のしらちゃけた住宅街を歩き続けた。遠くの空を小さく双発のプロペラ機が横切っていく。
「紹介するよ。彼女イカスミっていうんだ」
 視界の端の方でイクタは少し笑ったけど、くすりと笑っただけで、何も言ってはこなかった。
「自転車に似てるけど、女の子で、僕より2つ上。美人だろ?」
 回る車輪の鍵の辺りを見つめながら、僕はそう言った。
 イクタは黒いタートルネックにチェックのミニスカートで、ストレッチ・ブーツを履いていた。冬がそこまできているんだと僕は思った。
 交差点でさっきの幼稚園のバスが来て停まった。昇降口から同じ背丈の子供たちが溢れ、それぞれの母親のところまで駆けてゆき、抱きついた。
 信号は何度も青に変わり、点滅を繰り返しては赤になった。僕は黙って園児と保母の姿を眺めていた。子供に構っている姿を見ていると、何度もアサコのことを思い出した。アサコの声、アサコのぬくもり、アサコの笑顔、アサコの口笛、アサコの寝顔‥。それらは、もう誰かの表情や仕草であることを通り越していた。勢いで入れてしまった入れ墨のように、僕の体に深く刻み込まれていた。
「どこか、行きたいの?」
 イカスミと歩き出して、僕は言った。やっと、声らしい声になった。
「別に」
 とイクタは言った。
「待ってたんだろう?」
「うん」
 ごめん、帰るよ、気分が悪いから、と言えばすぐに一人になれたんだろうけど、いま家に帰る気はなかった。何がしたいわけでも、どこに行きたいわけでもないのに、目の前の景色をこまめに取り替えていないと、どうにかなってしまいそうだった。イカスミはそんな甘えた気持ちの僕を察してちょっと膨れた。大丈夫、ちょっと付き合ってやるだけだよ。
「うちに来ない? こないだ成城に越したの」
 小声ではにかみながらイクタは言った。ぎこちない誘い方だった。
「スパゲッティを作るよ。おなかすいているでしょ?」
 スパゲッティはいま食べてきたばかりだと、僕は言わなかった。果物が食べたくなって途中のスーパーで梨を買った。イカスミとはそこで別れた。彼女は怒って口を利かなかった。僕はサドルとグリップを撫でてやり、じゃあねと言って、最後に尻を叩いた。おどけた僕に、もう!とイカスミはふくれた。
 台所にはあらかじめ決められていたみたいにパスタやポモドーロが定位置に並んでいた。暖色系のタイルの前に、木製のスパゲッティ・トングや、瓶詰めの様々なパスタが並んでいる。
「テレビでも点けて楽にしてていいよ。私つくるからさ」
 上着を脱いで、革張りのソファーベッドに座った。
 イクタは髪をアップにしてエプロンをしている。部屋は片付いていると言うより、あらかじめ物の数が少ないという感じだ。小さな冷蔵庫、電子レンジ、洋書が多い本棚、おもちゃみたいに赤くて小さなテレビ、それに僕の寝そべっているソファーベッドでほとんどだった。
 玄関を仕切るふすまの前にはイーゼルが立ててあり、その上に大きな鏡を乗せている。鍵がぶら下げてあったり、時刻表やチケットや小さなカレンダーが挟んであるのは、生活感のないイクタからは想像できないことだった。玄関に詰まれた靴の箱には側面に中身のポラロイド写真が貼ってあった。イクタみたいな綺麗な女の子は、皿洗いで手を荒らしたり、商店街のスタンプを集めたりして欲しくない気がした。
「あ、そうだ、あれ聴きたい」
 イクタは濡れた手をタオルで拭いて、テレビの下の棚から化粧箱を取り出した。中身はカセットク・テープだった。ナラ・レオンや、小野リサや、ジョビンや、バカラックや、ビートルズや、バッハが並んでいた。
「あれ、ないなぁ。どうしよう」
 落ちてきた前髪を指先で耳の上にあげて、イクタは不安そうに僕を見た。
 ん?と僕は言った。
「え、宝物。ずっと大事にしてたのに」
 よほどお気に入りの音楽なのだろうと思って、僕は放っておいた。緊張が解けてきて、疲れが全身に広がり、関節を甘い眠気が蝕んでいた。
「あ、あった、あった」
 イクタが取り出した古いテープはどこか見覚えがあった。スイッチを入れボリュームを徐々に上げてゆくと、流れて来た複雑なハーモニーに僕はぎくりとした。途端に恥ずかしくなった。それは高校の時に僕が作った編集テープだった。ハーモニーの中にメロディが埋もれているような曲ばかりを集めた甘い甘いコンピレーション。
「何でこんなの持ってんだよ」
「くれたんだもん、ワタナベ君が」
 イクタはうれしそうにそう言った。僕は同じテープをアサコにもあげていたことを思い出した。そして今はないあの部屋で繰り返し何度も聞いたのだ。
「捨てなよ、こんなの」
「やだ、宝物だもん」
 そうだ、思い出した。僕はイクタをあの塾へ連れて行ったのだ。
「ねぇ今度その塾へ連れていってよ。将来、予備校の講師になるかもしれないし」
 アサコにもトクシマさんにも会うことはなかったけど、大掃除の前の日かなんかで、これと言った授業を見せることができなかった。僕は仕方なく屋上でパンとコーヒーをおごったんだ。
 タカナカと昇った時は毎日が綺麗な夕焼けだったような気がしていた屋上も、その日は天気まで冴えなくて、心持ち寒くもの悲しい気持ちになった僕は、お詫びと言うわけじゃないけどと、ウォークマンに入れていたお気に入りのこのテープをあげてしまった。暗がりの中でそのときイクタはどんな気持ちでそのテープを受け取ったのかは分からない。でも発端はこの僕だったんだな、と気付いた。
 気が付くとイクタはテーブルの上にすべてを並べ終えていた。目の前で地方都市計画のように構築されてゆくさまざまな献立。後悔は募るばかりだ。
「何飲む? 温かい紅茶? それともオレンジ・ジュース?」
 髪止めを外して、イクタはエプロンを脱いだ。座る勢いと共にイクタの匂いが僕の周りに流れ込んで来た。
「いらないよ、後にしよう」
 僕はランチマットの上で湯気を立てた皿を前に、正座していただきますと言った。スパゲッティからはとてもいい匂いがする。フォークに絡めて口に運ぶ。僕は目を丸くした。そのスパゲッティには味がなかった。パスタの味はある。やや茹で過ぎの状態ではあったけど、ちゃんと小麦粉の味がした。だけどミートソースだ。味がないミートソース・スパゲッティなんて?
「どう? 口に合う?」
 とイクタが聞いた。
「え? うん、とてもおいしい」
 目線を合わせずに僕は言う。サラダを食べてみる。やはり味がない。和風ドレッシングがかかっているように見えるのに、水道水の味しかしない。僕は混乱した。手料理に塩を振るわけにもいかないので、そのまま黙って食べ続けた。
 ソウルミュージックでテープが終り、僕はすべての料理を平らげた。コンロではシュンシュン音を立ててお湯が沸いていた。イクタは紫の缶の紅茶を入れてくれた。広がる匂いと後ろ姿にあの頃のアサコを想い重ねる。あのマンション、あの時間、あの紅茶を入れてくれるアサコの後ろ姿。あの部屋の匂い、ルパン三世、柔らかい陽射し、アサコの息遣い、絨毯で擦れる膝の痛み、熱い舌先、散らばった服、月の光‥。
 僕は目の奥が重くどろりとなってきた。息も何か変だ。一体、何がそうさせてしまったのだろう。わからない、わかっていれば、こんな所にはいない。そうだ、何もわかっちゃいないんだ。僕は大きな岩を背負わされているような気になった。苦しかった。本当に苦しくなって呻き声をあげた。イクタは紅茶を入れながら、楽しそうに塾に連れていった日のことを話している。
「子供みたいに焦っててワタナベ君ったら誰もいない教室で大声で喋るの。うんうんちゃんと聞こえてるよって私は言うんだけど、ワタナベ君はちっとも聞いてなくて、一生懸命に薄汚れたホワイトボードの説明をしてるのこのボードのこのコピー機能はとても便利なんだけど5枚分スクロールさせると最後の1枚はコピーできないどうしようもない欠陥商品でまったくこんなもの造っているからリコーはゼロックスに勝てないんだよとかそういう話しをしていて私は何でそんな話しをしなくちゃならないのかさっぱりわからなくておかしくておかしくてワタナベ君が一人で喋り続けるのを黙ってずっと聞いていたのそのまま椅子とかテーブルとか天井の灯りの話しに続くのかって思ってたらあぁ喉乾いたおちゃ飲みに行こうよって教室を出ていっもこのパンとこのコーヒーをここでたべるんだって私にぽテトサラだパンとカフぇ・お・レをうむをいわさずにおごってくれてあの古いほうのたて物のおくじょうに連れてって風が強いひだったから髪のけこんなふうにふり乱しながらかみこっぷがたおれないようにちゅういしてふたりでたべたんだそのうちあたりはまっくらになっちゃってさむくてさむくてさむくてさむくてもうへやにはいろうよってわたしいいたかったんだけどわたなべくんがこのてーぷをかばんからとりだしてきょくめいをかいてやるってまっくらななかではなからはなみずたらしながらまじっくでかいてくれたんだからとてもわたしとてもとても‥」
 一人暮らしだって言うのに紅茶が入ってやってきたのはボーン・チャイナだった。下品な花柄が全周にへばりついている。気持ち悪い。
「‥ね、そう、たしかそうだったよね、覚えてる?」
 親戚のおばさんのような口調にイクタはなっていて、僕は返事ができなかった。
「あれ、ワタナベ君!?」
 イクタは紅茶を乗せた銀のトレイをテーブルに置き、視点の定まらない僕のそばに寄り添った。
「大丈夫? ねぇ、調子悪いの?」
「‥大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ」
 背中をさすり始めたイクタの手を払い僕は起き上がった。咳払いをして、入れてくれた紅茶に手を伸ばす。お砂糖入ってないよ、いくつ?の声に、いらないと返す。僕の目は潤んでいる。正しくカップをつかめずに受け皿の上に紅茶を少しこぼしてしまう。
「‥ちょっと夜更かしが続いてたから」
 僕は笑ってそう言ったけど、それはとても乾いた笑顔に見えただろう。手には血が通わず、震えを伴う痺れがあった。意識を集中してカップに再び手を伸ばす。血の気が頭のてっペんから爪先へ抜けてゆき、僕は目に映るものは激しく反転した。ぐらりと体が傾いて、僕はイクタの肩をつかんでつかまった。そうしないとそのままぶったおれてしまいそうだった。
「ねぇ、ほんとに大丈夫? 顔色悪いよ」
 僕はイクタの肩に額を乗せたまま、しばらく深呼吸を続けていた。全身の毛穴がざわざわと開いてゆき、冷たい汗が噴き出した。黒いセーターから溢れる彼女の体温の匂いを嗅いで、君はアサコじゃないんだねと思った。痺れが再び内臓を揺らし、体の末端から抜けていく。
 立上がり、奥のトイレに向かった。手のひらと足の裏が冷たくなっていて、口の中には、ひっきりなし訳のわからない泡が溢れてきた。
 トイレは風呂場とひとつになっていて、ユニットバスではなかった。イクタは先にドアを開けてくれた。僕は扉を閉め、中で便器を抱えて何度も胃を収縮、痙攣させた。全身に鳥肌が立って、僕はそこにすべてを吐き出した。短く噛み切ったスパゲッティや、海草サラダや、茶色く濁った液体は、さっきまで皿の上にあったものとは、まるで別のもののように見えた。嘔吐物と鼻水と涙と消臭剤の匂いにまみれて、僕は膝に力が入らずに、立上がれなくなってしまった。大きく咳き込んだ拍子に涙がこぼれて、タイルの目地の上で弾けた。何やってんだ、こんなとこで何やってんだ。僕は水色のバスタブにつかまり立上がろうとした。全身の血の半分が爪先へ一斉に移動したみたいに激しい立ち眩みがして、僕は息を止めてそれに耐えた。もう一度吐きそうになったけど、口から出てくるのはわずかな胃液と嫌な匂いのする息だけだった。鼻の奥が痛い。
 ドアを開けて、コップを持って立っていたイクタから水をもらい、何度もうがいした。
「大丈夫? ねぇ、大丈夫?」
 イクタは酸っぱい水と粘液を吐き出し続ける僕の横顔をのぞき込むようにそう言った。僕は笑ってタオルで顔を拭いた。
「食事のせいかなぁ、どうしよう、ごめんね」
 僕は首を振った。
「食事のせいなんかじゃないよ。ごめん、ほんとうに今日は疲れてるだけなんだ」
 ソファの上から上着を取り、ブーツに爪先を突っ込む。ざわざわとみなぎる何かの力を感じた。
「帰っちゃうの? 少し休んだほうがいいよ?」
 返されたコップを握り締めたまま、イクタは言った。
「行かなくちゃ」
 と僕も言った。
「ねぇ!」
 イクタの声に僕は振り返った。
「もう、来ない?」
「わからない」
 と僕は言った。そんなはずはなかった。向こうには小さく確かな光が見えていて、歩き出した僕はもう2度と振り返らなかった。