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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」16章


 冷えた玄関のタイルの上でアディダスの爪先を踊らせる。ちょっと慌ててる感じを悟られないように、強引に踵を押し込む。玄関にはまだ4人だった頃の家族が寝間着姿で僕を見送りに来てくれていた。
「気をつけてね」
「はしゃぎ過ぎるなよ」
「ちゃんと連絡しなさいね」
 単位がもらえる集中講義なんだという嘘を両親は信じているのだろうか。僕の背中を見送る顔は、初めて友達だけでキャンプに出掛けた小学生の頃と何一つ変わらない。
「いってらっしゃい、気をつけてね」
 終電間際の京王線で新宿に向かう。へんてこな緊張感と下半身にどろりと沈む性欲が、二層のスープみたいに僕の気持ちを細かく揺らした。放っておくと体の稜線が幾つにもダブっているような気になる。
 段ボールハウスの連続を横目に小便臭い階段を昇ると、8月の夜の熱気が体にぬるりとまとわりついた。アサコはまだ来ていなかった。約束のビルの前に荷物を置き腰を降ろし、僕は舌打ちをした。よくわからないものでタイルがべたべたしていたからだ。煙草に火を点ける。深く吸い込み、細く長い煙を吐き出す。約束の時間にはまだ10分ほど余裕がある。夜の交差点をせわしなく車が駆け抜けて行く。テイルランプを逃げ惑う動物の目のように輝かせて、あるものは右折し、あるものは左折し、僕の知らない目的地に向かって消えてゆく。目に映る誰もが目的を持ってこの夜を移動しているんだと思うと、わずかに景色は傾いて見える。
 ビルを支える太く四角い柱の向こうに白いひらひらした服が見え隠れしている。気にしなかっただけでそこにはずっと前からそんなスカートがそんなふうにあったのかもしれない。僕ははっとした。見覚えのあるワンピース。僕が手を振ると半分だけ顔をのぞかせて、アサコはいたずらっぽく笑った。裾を踊らせ、まるで僕の心を見透かしたように言う。
「来ちゃったねぇ」
 木のボタンが並んだ白いタオル地のワンピースは19才の誕生日に両親からもらったものだ。小さな麦わら帽子によもぎ色の大きな鞄。そこにアンバランスなエンジニアリング・ブーツがいかにもアサコらしい。
 ほらね、みんなうまく運んだでしょって具合にアサコは笑っている。私にまかせておけば何もかもうまくいくの、何ひとつ心配することなんかないんだよ。トモユキのその不安な顔はちゃんと杞憂で終わらせるから、しっかり目を開いていて。そういう笑顔だ。
「夢かな」
 と僕が言った。
「夢じゃないよ」
 とアサコが言った。
「これは今、起こっていること、二人で紡いでゆくこれからのこと」
 ほっペたをつねったりせずに、アサコはそう言った。
「ねぇ、わくわくしない?」
 僕の手を取って、自分の胸に押し付ける。
「するよ、すごく」
 僕もアサコの手を自分の胸に押し付けた。アサコの胸は柔らかくて熱かった。指先から彼女の鼓動と、呼吸を繰り返すやさしいぬくもりが伝わって来る。僕は目を閉じて耳を澄ました。夜風が前髪を揺らし、静かに呼吸を続ける街路樹の葉の薫りを送って来た。僕は胸いっぱいに夜の空気を吸い込んだ。遠くを走る消防車のサイレンの音が聞こえる。
「二人だけの時間だよ」
 とアサコは言った。




 母親が病院からかけてくる電話を待つ。付き添いに必要なもの、父親が欲しいものを聞いて、あとから僕が持って行く為だ。父親の容態はちっとも良くなっていない。と言うより、それはきっともうとっくに「治る」のを望む状態ではないのだ。口に出しては言わなくても親戚一同はあきらめていた。どうにもならないお手上げだ、そういうムードが病室いっぱいに広がっていた。新しい誰かが来てその場を明るくしようとすればするほど、ベッドの周りの空気は暗く重く沈んだ。
 父親はもう僕の知っている父親ではなかった。始まりはただの脳内出血だった。風呂上りに、きんきんに冷やしたヱビスビールをおいしく飲むために熱くした風呂で、弱っていた血管に強い負担が掛かったのだ。やれやれ湯あたりかと壁につこうとした手も届かずに、洗面器や同じ色で揃えたプラスチックの椅子を蹴散らし、175センチの体は床のタイルに叩き付けられた。
 不審な物音を聞いた隣人が通報してくれたお陰で、父は救急車で病院に運ばれた。電気ドリルで頭を開いてそこに溢れた血を拭った。破れた血管を縫い、閉じ合わせて、外科処置は完璧だった。
 麻酔から覚め、母の顔を目にした父は、頭を抱えて大きな呻き声を上げた。あらかじめ主治医に痛がるであろうことを聞かされていた母は、やさしい笑顔を浮かべて父の覚醒を迎えた。大丈夫、麻酔が切れただけ、しばらくは痛むけど、手術は完璧だったから何も心配しなくていいのよ、大丈夫。そう小さくゆっくりした声で繰り返し言う用意をしていた。
 肩に触れようとそっと伸ばした母の手を父は届く前にはね除けた。乱暴な仕種は機嫌の悪いオラウータンのように見えた。子供染みたその動きを見て、母はよほど痛みが激しいか、自分の声が患部を刺激してしまうのかのどちらかだと思った。痛みが収まるまで小刻みに震える父の背中を母は黙って見守っていようと決めた。
 白い病室には残酷なくらい爽やかな陽射しが差し込んでいた。隣り合った小学校の校庭から体育の掛け声が聞こえる。
 やがて抱えていた頭から腕を降ろし、天井の一点を見つめると、父は大きな溜め息を漏らした。呼吸のリズムから察するにも、幾分落ち着きを取り戻したように見えた。
「大丈夫?」
 タイミングを見計らって母が聞いた。
「痛む?」
 そこに母がいたことをまるで知らなかったように、父はビクリと体を震わせた。首をすくめ、声の聞こえた方向にこわごわと向きなおし、怯えた目で母を見た。
 母は落ち着いた気持ちでいようと努めた。きっと手術のせいで声が頭に響いて、ちょっと驚いただけだ。にっこりと父親に笑って見せた。私、一晩ずっとそばにいたのよ。
 父親は目を丸くした。初めて母という人物を見るような顔をして、混乱していた。
「リンゴあるけど、むく? それともヨーグルトとかお茶の方がいいかしら」
 母は、昔の普通の家族であったときの、あるいはそれ以前の頃と同じ口調でそう言った。
 父親は黙っている。目線が定まらず、落ち着かない。なんでこんなことになってしまったんだ、助けてくれという顔をしている。
「いやだったら、また横になる? ちゃんと眠るまでそばにいるから、寝ちゃっていいわよ」
「ママ‥」
「はぁい」
 自分を呼んでくれたことで、やっと胸を撫で降ろすような気持ちになりながら、母はやさしく微笑んだ。やれやれ、相変わらず人騒がせな人だと、昔を少し思い出したかもしれない。しかし父は言ったのだ。
「ねぇ、お願い、早くママを呼んできてよ」


 いつもの時間に電話が鳴って受話器を上げる。僕は自分のスパゲッティを茹でている。
「トモユキ?」
「あぁ、オレ」
「ミユは?」
「いや、連絡なし」
「今日は学校遅くていいの?」
「うん、寄る時間くらいはあるよ」
「じゃあ、紙オムツだけ頼んでもいいかしら」
「うん、いいよ、他には?」
「んー、今のところないわ」
「いつものは? いらない?」
「あ、そうね‥うん、お願い」
「じゃ、1時前くらいに行くよ」
「よろしく」
 電話を切ってスパゲッティの茹で加減を確かめる。菜箸で一本をすくい上げ、口の中に放り込む。あと2分30秒というところだ。塩をもうひと振り加える。再び電話が鳴り出す。布巾で手を拭いて受話器を上げる。
「おぅ、オレ。元気ィ?」
 シブヤさんだった。
「久し振り、ジイちゃんは?」
「老いてますます盛んでやんす」
「そうですか」
「うん、昨日もさ、突然ばってらが食べたくなって、バイクで上野に行ってきた」
「駅弁?」
「そう、動物園でパンダ見てさ」
「で、ばってらなんだ」
「うん、ばってら。いいよぉ、パンダとばってら」
「楽しそうだな」
「そのうち全国のばってらを食べ歩こうと思って」
「ほんとに?」
「日本縦断ばってら行脚」
 僕は笑った。
「で、どうよ、調子は」
「いや、特に、普通だけど」
「あ、そう。アサコも?」
「‥え、うん」
 普通という言い回しにぴくりとしながら僕は言った。
「突然、変なこと聞くね」
「ふうん、あ、そう。‥いや、昨日電話したら何か落ち着かない感じだったから、また喧嘩でもしてるのかなって思ったんだけど‥」
「はは、喧嘩なんていつもだよ、しない日のほうがおかしいくらい」
 と僕はジイちゃんを誘い込んでみる。
「いや、だからそういう喧嘩じゃなくて、ほら、もっと深刻なさ」
「まさか! なんで?」
「え? いやいや。なら ‥うん、いいんだけど」
「心配してくれてんのね、一応」
「いちおう、ね」




 深夜バスが夜の街に滑り出す。水色に塗られた車体は巨大な深海魚のように音もなく高速道路に滑り込む。無数の光の帯に加わり交じり合っていく。
 京都駅までの行程を説明するビデオが流れる。トイレの位置、休憩時間、セルフサービスのお茶の入れ方、備え付けのラジオや毛布の使い方、椅子の倒し方の説明までひととおり終えると消灯時間になった。一斉にカーテンを閉めて椅子を低く倒す。こんな風に時間を決めて寝かされるのは、中学の修学旅行以来だ。アスファルトの繋ぎ目を越える規則的な音は、意識を覚醒させたまま体だけを見知らぬ遠くに連れていってしまう。
 アサコは窓側の席で、やはり僕と同じように落ち着きがない。暗い中で椅子にさしてあるパンフレットを読んだり、車内に余計な光が入ってこないように、カーテンを首に巻き付けるようにして向こうをのぞいたり、ひざ掛けの裾を気にしたり、思い出したように僕にキスしたりした。
「眠い?」
 とアサコが声を押し殺して聞いた。
 僕は全然と首を振った。
「あたしも」
 僕は微笑む。
「手ぇ、繋いでていい?」
 うなずいて触れ合わせた指先は赤ん坊のように熱い。僕は目を閉じて楽な姿勢を探した。薄目を開けて壁に埋め込まれた青白いデジタル時計を読む。3:14。他の乗客は誰ひとりとして、ぴくりとも動かない。こんな時間に起きているのは、夜勤の運転手と、親に内緒で京都に出掛けるカップルぐらいのものだ。
 トンネルのオレンジ色の光がアサコの膝の上を滑っている。アサコは体を僕の方に向けて、握った手を両手で包み込んで胸の前まで導くと、その指先をすっと口に含んだ。小さく窄ませた舌先のぬくもりが指の腹や甘皮のあたりを濡らして転がる。アサコは目を閉じている。手がとても熱い。僕はゆっくり指を引き抜いて体を起こし、やさしく額にくちづける。
「もう、寝ないと。明日つらくなっちゃうよ?」
 アサコはうなずく。でも寂しそうな顔をしている。
「寂しい?」
 と僕は聞く。
 アサコは強く首を振る。
「キスしよう」
 離れた座席からお互いに体を乗り出して深いキスをする。開いた距離を温度で埋め合わせるみたいに、そのキスは重く長い。僕は肩を抱いて首を引き寄せ、奥まで舌を差し込んでゆく。彼女の指先が僕の膝の上をさまよい、落ち着く場所を探している。ワンピースの上から胸の膨らみに触れる。肩を一瞬すくめるようにして体を震わせるけど、拒む様子はない。僕は木のボタンを親指一つで外し、胸元に手を滑り込ませてゆく。しっとりとした柔らかなぬくもりを、僕は大きく開いた指先で確かめる。声を出しそうにうごめく唇を僕はふさいで黙らせる。指先でブラジャーを掻き分けて、先端の突起を探し出す。もう一方の手でボタンを下まで外してしまう。僕はゆっくりと両足を開せようとする。
「‥だめ」
 アサコは押し殺した声で繰り返す。僕は喉が乾いた。
「触りたい」
 と僕は言う。
「今?」
 信じられないというふうに、アサコは首を傾げる。
「ここで、今」
 当然だろう、というふうに僕は言う。返事をする代わりにアサコはゆっくり僕の頭を抱きしめる。はぁと溜め息をつく。あきらめたのだろうか。私から見えないところでそっとして、と僕には聞こえる。
 割り込ませたままの手を内股に沿って広げてゆく。強張ってはいるけど、そこにはもう強い拒絶の色はない。太ももの内側は汗でちょっと湿っている。シルクのペチコートの裾をつまみ上げる。アサコは、僕の肩の向こうに頭を乗せたまま動こうとしない。窮屈な指先が、薄い2枚の布地で覆われたその部分に到達する。一瞬、開きかけた両足がまた強く閉じてしまいそうになる。僕は残した左手でやさしく他の部分を撫でながら緊張が解けてゆくのを待つ。ジーンズばかりに慣れている彼女のワンピース姿は腰からの曲線がとてもなまめかしく思える。柔らかい布越しに彼女の動揺が伝わって来る。触れたり、触れなかったり、曖昧な距離を保ちつつ、僕は核心に近づいてゆく。耳たぶを舐めて、噛んだ。アサコもそれに答える。耳元に伝わる彼女の呼吸は言葉にならない声を発する。僕は目を閉じ、彼女の鼓動と重なりたいと思った。




 自転車に乗って病院に向かう。この自転車には立派な名前がある。イカスミ。ショッピング・サイクルなのに、不自然にのっペりと黒いからだ。変速ギヤこそついていないけど、走りは軽快だ。
 薬局で成人用オムツを、コンビニでいつものを買って病院に向かう。病院に向かう道はいつだってあっけらかんと晴れていて、これでもかと言うくらい爽やかな風が吹いている。まるで5月で時計を止めたみたいだ。
 揺れる灌木の葉のざわめき、女子中学生のうわさ話し、早くて高い雲。ユキの病院に通っていた頃からそれらは何一つ変わる事がない。労わりなんだと僕はいつも思う。もし神様みたいな存在がどこかにいるとしたら、彼はきっと万能ではない。僕らが火を使うくらいの幅でしか人の運命も扱えない気がする。だからその周辺の環境をちょっとだけコントロールして当人に促す。直接運命をいじらなくても本人が本質的な何かから逃げないようにとバランスを取っている気がする。理不尽な遠回りしたり、無駄な苦労まで背負い込まないようにと、たくさんたくさん他の部分を許してくれている気がする。そして僕がやらなきゃいけないことをちゃんと終えるまでは、何があっても死ぬことはないだろう。世界はそういうバランスでできているはずだ。


 イカスミのブレーキはどんな金切り声もあげない。彼女は寡黙で上品なのだ。イカスミを見ていると肌の白い、手の綺麗な女の人を思い浮かべる。普通のレストランでカプチーノを頼んでも、細く巻いた外国の香料入り煙草を吸っても、白いブラウスの下に濃い色の複雑なレースの下着を付けていても、僕はきっと不快に思わない。大きな理由の一つは彼女に顔がないことかもしれない。
 彼女を駐輪場に待たせ、青いスモークガラスの静かな自動ドアを抜けてゆく。目の前に病院的世界が広がり、その瞬間に僕の頭に中でスイッチが切り変わる。自然に肩に力が入る。色のないインテリア、NHKの番組、消毒薬の匂い、病人の匂い、老人の匂い、小便の匂い、事務員の怠慢なマイクアナウンス。たったそれだけで、僕は今までどんなに素敵な世界に生きていたんだろうという気になる。だけどその一方で、不公平な人生を引き受けている人たちのお陰で、僕がのうのうとした平和な毎日を生きていられるのかもしれないとも思う。よくわからない。
 父親が入院しているのは、4階の奥のほうにある小さな個室だ。テレビと、冷蔵庫と、専属のベテラン看護士がついている。もちろん僕のうちは裕福じゃない。できれば1日でも早く、普通の病室に移してもらいたいくらいだ。でもどの部屋も病人が溢れていて、精密検査の結果がまとまらない父は退院も許されない。
「おまたせ」
 と僕は白くのっペりとしたドアを開ける。父親はベッドの上でプリンを片手ににこにこ笑っている。
「ト、モ、ユ、キ、くん‥」
「そう、トモユキくんね」
 傍らにいた母親が、白髪に染まった父の頭を撫でてやる。淡い色のパジャマを着た彼は、大手柄をあげたみたいに体を振って喜ぶ。髭は剃ってあり、いつもポマードでまとめていた前髪はさらさらになって額に垂れている。
「今日はご飯、全部食べた?」
 僕はやさしい口調で、一語一句をはっきりと話す。必要以上に近かづき過ぎたり、笑顔を絶やさぬように気をつける。怯えさせないための努力だ。
「食べたよねー、ちゃんと」
 でも返事をするのは母の方だ。父はまだ僕に慣れていない。今もプリンに夢中なふりをして、僕に目線を合わせない工夫をしている。カップの端まで綺麗に平らげてしまうと、今度は汚れたスプーンが元のように輝き出すまで舐めることに没頭した。
「ほら、約束のだよ」
 と言って僕は、スーパーの袋から切り札を取り出す。ピスタチオ、それにビールだ。子供のようになってしまっても、嗜好品は変わらないらしい。煙草だって吸う。彼は僕の手を見て目の色を変え、乱暴ともとれるくらい勢いよく包みを取った。さっそくビールを開けてうまそうにごくりと喉を震わせる。ピスタチオの殻を割る。その夢中な横顔を母は眩しそうに眺める。ここが病院の個室であることさえ忘れてしまえば、それはとても幸せな光景に映った。まるで何も変わってないみたいに。
「おいしい?」
 僕がそう聞くと、父は顔を見ずに平坦な声でおいしいと答えた。母親はくしゃくしゃな顔でうなずいていた。


 病室を出て、中庭を望む廊下を歩く。四方をガラスに囲まれたその空間には、10月の太陽が差し込んでいた。小さな池の周りに名も知れぬ白い花が咲いている。
 僕は胸のポケットから煙草を出して火を点けた。父親が僕の手に握らせたピスタチオを爪を入れて割って食べた。
 一体何が始まりで、どこに向かっているんだろう。たくさんの選択肢から、常にベストを選び抜いてきたはずじゃなかったのか? ちっとも前に進めない。いつまでたっても底に着かない。車椅子を押していた看護婦が振り返った。僕は彼女に微笑んで見せて、そのふたりの横を足速に追い抜こうと思った。廊下の広くなった部分をうまく使って、僕は車椅子の横にまわりこんだ。途端にざわざわと鳥肌が立ってゆくのを感じた。指先から何かに反応して、毛が逆立つような寒気がした。。
「あ」
 とその車椅子の男は言った。僕はそのまま歩いていってしまいたかった。何も見ていない。何も僕は知らないから、何も話すことなんかない。
「なぁ、おい」
 聞き慣れた声でそいつは僕をそう呼んだ。
「ワタナベ!」
 僕は呪文を掛けられたみたいに、その場で凍りついて動けなくなった。車椅子は僕の前まで押されると、くるりと向き直った。僕は目を合わせられなかった。彼に視線が僕の全身を舐め、縛り上げてゆくのを感じる。
「会えてよかったよ。ちょうど、おまえと話したかったんだ」
 顎髭に手をやりながら、首と腰と足にギプスをはめた男はそう言った。そうは思わないと、僕はきっぱり言いたかった。