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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」15章


「え? 何て言ったの?」
「できるかもって言ったの」
「うそでしょ?」
「まだわかんないけど、多分できると思う」
「京都?」
「うん」
 アサコの髪はまだ長くて、ワードローブは予備校の頃のものが大半だった。スギノの写真にあった膝上ジーンズだってきっと持っていたはずだ。ピアノ弾きの彼と別れてまだ3ヶ月しか経っていなかった。
「少しは長く居れると思うんだ」
「3、4日?」
「ううん、1週間か10日ぐらいかな」
 大好きな女の子と親に内緒で旅行に行く。まったく健全で素晴らしい企画だ。とても大学生らしい。僕が今「京都に行きたい」と言った。でもそれは「うまいもん食いたい」とか「なんか楽しいことないかな」というのと同じで、景品のない射的のような気持ちだったはずなんだ。おもちゃの銃をただパンと鳴らしてみたかっただけ。
「やっぱり、やめる?」
 僕の顔色をうかがって、アサコは不満そうな顔をした。
「突然、夢が叶っちゃいそうになったから驚いただけだよ」
 アサコは床に視線を落とした。
「うれしいよ、もしそんなことが本当にできたら」
「やっぱり、あたし変?」
 子供のように首を傾げるアサコに僕は微笑んだ。
「変じゃないよ。すごくうれしいんだ。もしやる気ならきちんと実現させよう。完璧な計画を立てよう。ふたりで旅行できるなんてほんと夢みたいだ」
 アサコは複雑な顔をしている。そう思っているならどうして素直に喜んでくれないんだろうと不思議がっているのかもしれない。
「ごめん素直に喜べなくて」
「トモユキっていつもそうだよね。時々、可哀相になる」
「可哀相?」
「だって、伝わりにくいよ。喜んでいるようにはとても見えないもん」
「すごくうれしいんだけどな」
「断ってるみたいにしか聞こえないよ」
 僕はしゅんとなる。いつからこんなに軟弱になったんだろう。女の子にちょっと何か言われたくらいでどきどきしたり、暗い気持ちになったり、やけっぱちになったり。
「トモユキ?」
「ん?」
 アサコは僕の顔をのぞきこむ。まるで母親のような顔で微笑む。
「行くよね、京都」
 僕も笑ってうなずいた。



 アサコのマンションの階段からゴトリとトランクを降ろした。よもぎ色のドアを見上げる。何かの間違いだと思いたかった。窓にはカーテンも灯りもなかった。あの赤いテレビも、ただいまと訪ねるあやふやな空気の匂いも、ふたりで積み重ねた幾つかの夜も、どこかに全部消えてしまったのだ。


 家に帰ると母親は電話をしている最中で、僕のただいまに誰も返事をしてくれなかった。そんなことは珍しかった。何かあったのかもしれない。そう思うと部屋の空気もどこか不安定な気もした。電話の横を通り過ぎた。途端に母親は背を向けた。反射的な動作だ。隠したってこんな狭い家じゃどこにいたって筒抜けなのにそうせずにはいられない。深刻な内容のものなのだろうとわかった。
「稲田登戸病院だって」
 バラエティー番組から目を離さずにミユが言った。僕は耳を凝った。
「誰? おばあちゃん?」
「電話?」
「入院した人だよ」
「パパ」
 不幸ってのはいつだって束になってやってくる。どうして僕を放っておいてくれないのだろう。母が電話の合間にミユの肩を叩いてガス台を指差す。夕飯のおかずの鍋が乗っている。不機嫌な顔をしたままテレビから離れようとしないミユを横目に、僕は自分で火をつける。リンナイの安っぽいコンロ。ダウングレードした生活用品には耐える必要のないストレスがもれなく付いて来た。2階の夫婦がどんなに静かに歩いても天井はミシミシたわんで埃が落ちてくる。風呂はたいしたお湯も出ないのに、追い炊きができない。台所の蛇口もお湯が出ない。ちょっと水を飲もうとコップ一杯分の水を注いだだけでも、アパートの全体にキュイーンと金属音がして、どんなに固く締めてもボタボタと水が垂れて止まらない。波打ったシンクに響く水の音はもの悲しい。それがうらぶれた木造アパートで聞く音ならなおさらだ。それは水の響きというより、何かをリミットを告げる秒針の音のようだ。ミユが家出した夜や、アサコと喧嘩した夜や、課題で徹夜が続くときには、耳の奥に様々なエコーが聞こえ、僕は僕の居場所を見失いそうになる。僕はここにいる。たったそれだけのことを何時間掛けても取り戻せない夜もある。


 電話を終えた母の顔は重い。思えばもうずっとそんな顔の母しか見たことがない
「入院したの?」
 僕の言葉は母の耳には届いていない。僕は自分のおかずをよそりながら、母のためにお茶を沸かす。こんなときには砂糖をたっぶり入れたミルクティーがいいかなと思う。
「‥まいっちゃうわよね」
 テーブルにことりと置かれた紅茶をのぞき込みながら、母はつぶやく。
「もう関係ないじゃないのよねぇ、別れようってあっちから言って、一方的に捨てられたんだから、ふざけんなって言ってやりたいわよねぇ」
 長いまつげを細かく揺らしながら、母はそううそぶく。
「心細くなったんじゃないかなぁ」
 僕は無関心を装いながら慎重に近付いてゆく。ミユは立上がり、奥の部屋のラジカセにヘッドフォンをつないだ。引っ越してから自慢の大きなステレオは一度も満足に音を出したことがない。
「借金だって全然減ってないのよ? 誰に入院費払えって言うのよ。ほんと頭に来る」
 うーんとか、まぁねぇとか曖昧な返事で受け流しながら、僕は貝に砂を吐かせるように母をなだめる。テーブルの上に一通りの不満を並べてしまうと母は疲れて寝てしまった。ミユは部屋を追い出されて台所に戻ると、暗い明かりの下で小さな紙に手紙か何かを書き始めた。誰に何を書いているのか、そこには青いペンで羽虫のような小さな字がびっしり並んでいる。読むにしろ書くにしろ、そんな字を見るのは僕の気を滅入らせる。
 夜の虫が大きな声で鳴いている。あちこちで重なりあって波のように揺れている。15階では聞こえなかった様々な音が、夜を違う質のものに変えている。ドアの向こうの砂利を踏む誰かの足音も聞こえる。




 八王子の図書館で僕らは京都の打ち合わせをした。木漏れ日が机の上に綺麗な斑模様を作る。重ねて塗られたニスの匂いは古い本の匂いと混じり合って僕に眠気を誘う。
「ねぇ、どこか行きたいところある? リクエストしてよ」
 僕は肘の上で頭をゴロリとさせている。頬や、前髪や、まぶたに降る細切れの太陽が、学校の机とは違う安らぎを僕に与えていた。こんな気持にはもうずっとなったことがないみたいだ。
「ねぇ、聞いてる?」
「んー?」
 僕は半開きのまぶたの間からアサコの横顔を眺める。逆光の中でアサコはありがたい仏様のようだ。
金閣寺でしょ、竜安寺の石庭でしょ、清水寺でしょ、仁和寺、二条城、京都御所‥ あとは?」
 黙ってアサコの顔を見続ける。アサコは僕の右目と左目を交互に見て、大きな溜め息をつく。本を閉じる。光の中に埃の粒が舞いあがる。
「ね、京都じゃない方がいい?」
 アサコは頭を低く僕の高さまで降ろして、あくまでやさしい口調で言う。
「京都じゃなくたっていいよ。熊本でも、愛媛でも、北海道でも、箱根でも、アサコと行くなら僕はどこでもいい」
「じゃあ、京都でもいいんでしょ?」
 やさしくアサコは誘導する。怒らないアサコを知っていて、僕はただじゃれている。
「どうやって行くの? 新幹線?」
「夜行バスがいいと思う、やっぱり一番安いし」
「全部でいくらくらい掛かるんだろう」
「5万以内が目標かな」
 体育館の巨大ドミノの全景を眺めるようなまなざしでアサコはそう言った。私にまかせておけば大丈夫。1を倒せば必ず100まで届く。そういう強い目だった。僕はアサコが眩しかった。



 父親が入院した二週間後にさらにミユが家出して、静かな家がさらに静かになった。帰宅が遅い日が続いたので母が叱ったら、翌朝出掛けたまま帰ってこなかったのだ。家出といっても2、3日外泊するだけのミユのことだ「放っておきなよ」と僕は言ったけど、タンスから無くなっているいくつかの服や、母の財布からクレジットカードが抜かれていたことに気付くと、やっと計画的な家出だとわかった。準備をしておいてきっかけだけをずっと待っていたのだ。
 大事な歯車は錆び付いて見慣れない歯車ばかりが回っていると僕は思った。どこがどこをどう動かしているのかつながりが分からない。慌てて僕は首を振る。まだ引っ越して3ヶ月じゃないか。


 学校に通い始めてもアサコには会えなかった。同じ学部の生徒に聞くと毎日普通に来ていると言うのだけど、いつ訪れてみても僕の行く先にはもういなかった。学食を探し、売店を探し、屋上に上がり、図書館を見て、校庭の隅まで回っても、僕はアサコに会えなかった。一通り巡って、あきらめて教室に戻ると、「今帰ったよ」と言われる始末だ。タイミングが悪いのか、巧妙に僕を避けているのか、あるいはその両方なのだろう。
 そうして夏の最後の1週間は過ぎ、静かに秋が訪れ、僕は今、自分がどこに立っているのかよくわからなかった。ただ日に日に気温は下がり、夜が早まり、僕の体は冷えてこわばっていった。関節がきしみ、声が出なくなり、瞼が重くなった。


 結局のところ、誰一人とも何ひとつわかりあえなんかしない。アサコと喧嘩するに僕はそう思った。心臓や脳味噌を取り出して自分でその大きさや色や形を知ることができないように、誰かが誰かを想う気持ちも死ぬまで目で計れないものなのだ。だからこそ僕らはわかりあおうと思う。受け止める努力を怠らないようにする。それでも細かいすれ違いは積み重なっていく。もともと同じ気持ちなわけがないのだから、お互いがした勝手な思い込みに、お互いが勝手に失望してるだけなんだ。
 幾つもの夜を祈りに費やし、愛のかたちを知りたいと願う。あらゆる音や匂いに耳を澄ます。ひとつだけ、愛して欲しいと思う気持ちはとてもグロテスクなんだなということだけはわかった。


 イクタにでも会えば、少しは気持ちが変わるのかもしれない。やさしい声で慰めてくれるかもしれない。何も聞かずに黙って抱き締めてくれるかもしれない。そう思うことも何度かあった。でもきっと僕は彼女に甘えるだけだ。懲りもせずにまた押し倒すだけかもしれない。そして彼女の気持ちも考えずにアサコばかりを想うのだ。


 僕は今日もひとりよもぎ色のドアの前に立つ。何度見てもそこには303号室の空のネームプレートと見慣れたたくさんの傷がある。アサコが越して来る前からついていたものばかりだったけど、こうして見ると、そのすべてに二人の生活が染み込んでいるみたいな気になった。
 ポケットから合鍵を出し差し込んでみる。新しい鍵は僕の合鍵の先っちょさえ受け入れてくれない。僕のいない間にもう新しい契約が済んでいるのだろう。ここはもうアサコの部屋ではないのだ。僕をやさしく受け入れてくれる懐かしいあの部屋ではないのだ。
 クリーム色の学バスが何台も僕の下で停まっては過ぎてゆく。溢れ出してくる学生たちには笑いあっていて、何も悩みごとがないように見える。もうニュースの音を聞きながらこの部屋で抱き合ったり、おいしいとは言えない手料理を食べたりすることもないのだと思うと、僕は急に年を取ったような気になった。いくら暗くなってもアサコの部屋の電気は灯ることがない。僕は薄手のコートの前を合わせて、ドアの前の冷えたコンクリートに腰を降ろす。首元にひっそりと冬の空気が絡みついてくる。早くうちに帰りたいと僕は思う。こんな所にいるべきじゃない、早くほんとのうちに帰りたいと僕は思う。瞼を閉じて濡れたような月の表面を思い浮かべる。アサコと手を伸ばした3年前のあの月、僕のうちはきっとその下のあるはずだった。