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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」10章


「いい匂い」
 アサコがそう言ってくれる度に僕はいつも照れた。
「ただのアフターシェーブ・ローションだよ」
「それだけじゃない、トモユキの匂いだよ」


 そうなのかもしれない。そんな風にアサコが好きだと言ってくれたことで、そのローションは掛け替えがなくなった。抱きしめたときアサコがいつも嗅いでいるはずの匂い。アサコがワタナベトモユキとして認識している匂い。お互い一人になった後で服やからだのどこかに残っているはずの匂い。


 それに、と僕は思う。アサコがこの匂いさえ覚えていれば、例え暗闇でも僕を探せるかもしれない。この匂いを嗅げば緊張しているときも僕がそばにいるみたいに安心できるときがあるかもしれない。誰かのつけた同じ匂いに僕を思い出すかもしれない。


 だから、新しい朝を迎える度、この匂いをつけ続けることに決めたんだ。それはいつしか自分の匂いというより、まるでアサコの匂いをまとう気持ちにずっと近くなっていった。アサコを抜きにしてその行為は成立しないように、僕がローションをつけ続ける以上、僕はアサコのそば(匂いを嗅げる距離)を離れる事はないし、離れないでいて欲しいというサインになるつもりだった。


 あぁ、でも、なんてことになっちゃったんだろう。会いたい会いたいって言っていた矢先にこんな目に遭うなんて。


 アサコは頭の後ろに大きなガーゼを貼っていた。頬骨の上には擦り傷、肘にも包帯を巻いていた。
「元気そうだね」
 とアサコは言った。不自然に垂らした前髪の向こうには薄い影のようなあざがあった。僕が何かを言いたかったけど、できたことと言えば幽霊みたいにアサコの方に手を差し出したことぐらいだ。
「じゃ、私、急いでいるから」
 とアサコはペダルに足をかけた。去年、京都で部屋着にしていた短いジャージを穿いていた。いつものお尻の線と膝小僧が見えた。膝はすりむいていなかった。見慣れた膝と白い足だった。
「あ‥」
 僕に言えたのはその力ない無意味なつぶやき一つだった。アサコは軽快に漕ぎ出し、その背中を小さくしていった。見たことのない新しい自転車だった。
 取り残された時間に固まったままの僕のそばにはまだイクタがいた。
「大丈夫?」
 突き飛ばしてしまった僕にイクタはやさしかった。
「大事な人でしょ?」
「‥うん」
「追い掛けないの?」


 僕はイクタの顔を見ることができなかった。イクタがちっとも動じないから自分が今どれだけ怯えているのかよくわかった。はやくひとりになりたくてしようがなかったけど、イクタは僕のすぐそばに寄り添って、固く綻んだ手の指を解き指を絡ませ、なだめるように左手を僕の腰の後ろに添えた。
「ごめん、ひどいことしちゃったな」
 僕はとぼとぼ歩きながら爪先を見つめた。イクタの手は温かった。彼女は幼稚園の先生みたいな笑顔を浮かべて、僕の横顔を見ていた。
「いいよ、何も言わなくて」
 そうして黙って駅まで送ってくれた。辺りはどんどん暗くなってゆき、黒い鳥が何匹か頭上を飛んでいった。とてもみじめな気持ちだった。
「大丈夫だよね?」
 改札口でイクタが言った。僕はうなだれたままうなずかなかった。
「帰るからね? じゃあ‥」
 僕は行こうとするイクタの手をつかんだ。痕がつくぐらいぎゅっと。それは僕の気持ちとは無関係の出来事のように映った。まるでアサコんちでしてるときに聞こえてくるあのありきたりなニュースみたいに。


 イクタが悲しそうな目で僕を見た。僕は僕を覆っているこの体を馬鹿みたいだと思った。何やってんだよと思った。でも馬鹿な体はその手をつかんだまま足速に歩き始めた。イクタはずっと何かを言い続けていたような気がする。でも聞いていなかった。意味のある言葉として届かなかった。イクタは諦めたように肩の力を抜き、されるままについてきた。


 感情のヒューズが飛んだまま、一番近くのホテルに入った。嫌な匂いのするエレベーターに乗って薄暗い廊下を歩き、突き当たりの部屋の鍵を開けた。イクタは黙って中に進むと前かがみになってサンダルの止め金を外した。僕は頭の中がぼんやりと熱くなるのを感じた。イクタのその背中を突き飛ばした。イクタは部屋の入り口の薄汚いカーペットの上に声を上げて倒れた。拡がる髪や乱れたワンピースの裾を、アスファルトに叩きつけられた花束みたいだと思った。僕はその体に乗って押さえつけた。


「止めてよ!」
 とイクタは言った。僕はその目をにらんでから頬を鷲づかみにした。
「ねぇ、わかったから」
 指の隙間からしかめた顔でイクタは言った。
「ベッドにしてよ、ね?」


 僕はイクタのにの腕にすねを乗せたままバスタオルの入った化繊の袋に手を伸ばして、その中の黒い帯でイクタの顔を巻いた。目と口を覆うように。もう一本は後ろ手に縛った。そうしている間イクタは何一つ抵抗する様子はなかった。僕はイクタの両脇に手を入れて立ちあがらせると顔を壁に押し付けた。壁紙はざらついたきめの荒いものだった。イクタは何かを言おうとしたけど、口に食い込んだ帯が息でちょっと湿っただけだった。僕はワンピースの中に手を入れて下着をくるぶしまで引き下ろした。そしてスカートをまくりあげた。イクタは目隠しのせいかバランスを崩しながらのろのろと尻を突き出した。薄明りの中で白い尻は壁から飛び出したふざけたオブジェのように見えた。


 僕はイクタが両足をもっと開くようにと内股に触れた。頭に血が昇ってゆくのがよくわかった。僕は突き出してるイクタの白い尻を割り、その間の熱く湿り気を帯びた部分に舌を這わせた。


 イクタは反応しなかった。頬を壁に押しつけたまま、おとなしく尻を突き出したままでいた。僕は鼻先を埋めるようにしてそこを舐めながら、捲れ上がったワンピースの裾からブラジャーをずり降ろた。ブラジャーはへその上で上品な腹巻きのように丸まった。


 僕は丁寧に丁寧に舐め続けた。アサコが昔してくれたみたいに、呆れるほどの時間を掛けて。イクタはとてもそんな気分じゃなかったんだろうけど、徐々に潤んでいった。僕は音を立てて舐め続けた。イクタは広げていた足を耐えられないというように膝を擦り寄せ、閉じようとした。
「‥駄目だよ」
 と僕は言った。ふくらはぎをつかんでさっきよりも大きく足を広げさせ、深く指を沈めた。そしてそれを不規則に出し入れさせて、一方で顔に巻いた帯の猿ぐつわの部分だけを解き、苦しそうに呼吸をする口にまず舌を絡ませた。


 それからイクタを立ち上がらせ、ベッドのそばまで引き寄せて裸にした。でも手を縛ったままなので肘から先が抜けなかった。僕は手も解いてあげようかと思ったけど、結局そのまま放っておいた。僕の両足を跨がせるように抱き寄せた。そしてゆっくり腰を降ろさせ深く挿入した。両足を抱え上げ、体を上下に揺すった。首に余った目隠しの帯を格ませながらイクタは僕の腕の中で踊った。僕は何度も突き上げた。揺れるイクタはどこの誰とも変わらないただの裸の女の子に見えた。あんとかうんとか言いながら肌を赤く染めてゆくただの女の子の体に。


「‥いが、する」
 イクタがだらしなく開けた口から何かを言った。
「何?」
 僕はイクタの口に耳を近付けた。
「いい匂いがする」


 イクタははっきりそう言った。僕は途端に体と意識が元通りになるのを感じた。鼻の奥がつんとして、涙がこぼれそうになった。悟られないようにイクタの頭を肩の向こうに抱き締めた。ここにいるのはアサコじゃないんだ。ここにある快感はアサコとのものじゃないんだ。そう思うと密着しているはずのふたりの肌からすっと体温が消えてゆくような気になった。僕は途端に怖くなった。遠ざかる快感に怯えながら僕はむきになって腰を振り続けた。




 翌日イクタは予備校を休んだ。僕がイクタでもきっとそうしたと思う。僕は悲しさとも自己嫌悪ともつかない感情に覆われて、食事もできずに、口の中を病人みたいに苦い味でいっぱいにしていた。
「おいおい大丈夫かよ、顔色悪いぜぇ」
 体育会系のイケガミが見るだけで息苦しくなるオレンジ色のパチパチのポロシャツを着て言った。僕は精いっぱい笑って見せたけど、苦笑いにしか見えなかったようだ。
「夏なんだからよ、もっといい顔しろよー。もったいないよー」


 教務室のエアコンは故障していて、取り調べ室についているような扇風機がのろのろ回っていた。室温は体温を越えている。僕は近所に冷やし中華を食べに行ったが、ふたくちつまんだだけで突っぱねてしまった。体が受け付けないのだ。


 アサコ‥。
 と僕は思った。オレやっぱりアサコがいい。アサコのまずい料理や、へんてこな音楽や、意地悪なおしゃべりが恋しいよ。僕の前で今笑ってくれたら、それだけで元気になるよ。


「話したいことがあるの」
 アサコからの電話を受けとったのは、その夜のことだった。
「うん‥」
 僕は裁判官に向かうような気持ちで電話の前で気をつけをしていた。
「明日会える?」
「会えるよ」
「池袋まで来れる?」
「行けるけど、違うところじゃ駄目?」
「どこ?」
「海」
「海?」
「駄目?」
「ん‥ いいよ」
「行きたいんだ。アサコと」
「わかった」


 電話を切ってしまうとなんて甘えた奴だと自分の事を思った。海に行けば、今までの思い出や繰り返す波の音が問題をやさしく解決してくれると思っているのだ。明日がもう最後かもしれないというときに、僕はふたりで行く海のことをとても懐かしく待ち遠しく思った。


 薄く低い雲の立ち込めた、でも眩しいくらいに明るい日だった。茅ヶ崎に向かう東海道線に揺られながら、僕は本を読んでいた。家から茅ヶ崎までは100分きっかり掛かる。それは思考を堂々巡りさせるには十分すぎる時間だった。本でも読んで気を散らさないとやり切れなかった。電車はまだ大船辺りを走っていた。青いシャツについていた糸屑を取って捨てた。朝につけたローションの匂いが消えていないか確かめた。銀のバングル越しに腕時計を見た。予定通りの時間に着きそうだった。大丈夫だよ、きっとうまくいく。僕は目を閉じて息をゆっくりと吐き出した。


 アサコは駅でとっくに待っていた。なぜか置物のように小さく見えた。その顔は疲れて見えたけど、その表情が僕を待っていた時間からきているのか、それ以外のものなのか僕にはわからなかった。


 僕は黙ってアサコの目を見て両手をアサコの前に差し出した。アサコは眉間に皺を寄せ首を強く振った。目を合わせようとはしなかった。手をつなぎたくないという意味だ。僕は構わずその手を取った。アサコは小さな声でやだと言った。僕の手を解こうとした。でも僕は放さなかった。アサコの目をじっと見つめた。昨日までとは違うのなんて言わないで、という目でじっと。


 アサコの手は砂場で遊んだ子供のようにかさかさして熱かった。眠れなかった朝、自分もそんな手を持ったことを思い出した。


 海までの道のり、僕らは一言も口をきかなかった。海へ続くゆるい板道を下っていきながら、空の広さを思った。丁寧に磨いたアルミのようにのっペりとした大きな空が、僕らを風呂敷みたいに覆っていた。アサコは顎を引いた嫌そうな顔で僕に手を引かれていた。不貞腐れた子供のように足を地面に突っ張っていた。僕はその顔に微笑んでみせた。ちょっと胸が痛むけど、青いシャツの僕は無敵なのだ。


 道にまでせり出した松の影を過ぎ、ホテル『ラ・プラージュ』を過ぎて、懐かしい海にたどり着いた。沖に見えるいくつものウインドサーフィン、朝早起きして電車に乗ってきた高校生のサーファー、赤い髪の女子高生がウェットスーツを半分脱いで、白い流木の上でKOOLを吸っている。
「海だー」
 と僕は言った。
「うん」
 興味なさそうにアサコが言った。
「覚えてる? おととしの冬」
「‥覚えてるよ」
「初めてさ、手ぇつないだんだよ」
「そうだね」


 僕らはその時正確には恋人同士ではなかった。アサコには例のピアノ上手な彼がいた。僕にも別の彼女がいた。でももうお互いの恋人と会っている時間よりふたりで会っている時間の方が多くなり始めている、そんな時期だった。


 アサコは中学生が受験に着てくるような毛玉でいっぱいの紺のダッフルコートを着ていた。お母さんが編んだというベージュのマフラーを首にぐるぐると巻きつけ、今はもう切ってしまった長く茶色い髪を下の方で軽くゴムで結わき、ほっペたと鼻の頭を田舎の子供みたいに赤くしていた。


 ふたりは砂浜を江ノ島方面に向かって歩いた。歩きながら僕の左手とアサコの右手は不安定に近づいたり遠ざかったりした。僕らが二人で会うのはもう珍しいことではなくなっていたけど、まだ1度も手をつないだことがなかった。お互いをまだ名字で呼びあっていた頃の話だ。


「ねぇ、そう言えばさ」
「ん?」
 海を見ていたアサコが両目で僕を見た。
「煙草やめたね、いつの間にか」
「煙草?」
 それを聞いてアサコはばつの悪そうな顛をした。
「ね、どうして?」
 僕はいじわるしてそう聞いた。アサコの恥かしがる顔をもっと見たかったからだ。
「んー、いや、ただなんとなく ‥うん、もういいかなって思って」
 アサコは水平にかざした両手で輪っかをつくり、片目で切り取った海を見ている。
「ねぇ、コーヒー飲もうよ」
 アサコが僕のポケットに手を入れた。
 僕はリングプルを引いて、生温い缶コーヒーを分けあった。
「汗かいちゃったね」
 アサコが鼻の下の汗を拭きながら笑った。
「だって、急に走ったりするから」
 僕も彼女の汗に濡れた生え際を指先で拭った。
「ねぇ」
 と声色を変えて、アサコが言った。
「私、ね」
 と僕の顔色を確認するようにゆっくり、
「まだ、会ってるの ‥時々」
「え? うん」
 身の上相談かしら、と僕は思った。
「ねぇ、そういうの、だめ? ふふ ‥だめだよね、やっぱり」
 当時の僕にはその言葉の本当の意味がわからなかった。
「会いたい人には会った方がいいし、会いたくなければ、会いたくなるまで会わない方がいいんじゃない?」
 真顔でそんなことを言った。でも正解は違った。「だめも何もほんとはもう決まってんだろ?」とか「足んない? オレだけじゃ」とか、多分そういうのだった。
 アサコは僕の答えに困ったような顔をした。きっと決定的な決め台詞を返してくれるとばかり思っていたからだ。
「ナベちゃん‥」
 としなだれるように僕の肩に顔を埋めた。はぁ、と声に出して溜め息をついた。そして顔を上げて、にひひと笑った。そうして一字一句がはっきり聞こえるように言った。
「やーれやれ!」
 空を見上げ、アサコは両手で僕の腕を抱いた。何でこんな無神経な人を好きになっちゃったんだろう。今思えばそのやれやれはそういう意味だ。


 だけど僕はなぜやれやれと言われたのか、そしてそれにシンクロする行動が両手で腕を抱くことなのか1ミリもわからなかった。でもそうして近づいたアサコの匂いは僕の気持ちをいやらしく掻き乱しながらも、僕の生活に馴染んでゆくだろう予感をしっかりと感じさせた。


 どこかの女の子が毛の長い小型犬を連れて散歩に来ていた。首には紐をつないでいたが、その端は握られておらず、犬がよくその女の子になついているのがわかった。僕は見るともなくその女の子と犬が砂浜で遊んでいるのを見た。女の子が跳ねると首に巻いた毛糸のマフラーが跳ね、犬が飛び上がってその端を追い掛けた。冬の太陽が砂の上に長い影を走らせていた。


「知ってる?」
 アサコが言った。
「海ってね、毎日色が違うんだよ」
 僕は微笑んだ。
「今日は?」
「‥うん、なんか、深い色」
「あんまり綺麗じゃない?」
「そんなことないけど‥」
「昔、住んでたんだよね」
「うん」
「どう? 池袋と」
「そうだね、悪くないけど、やっぱりいつかは帰ってきたいな」
「海のそばに?」
「んーん、茅ヶ崎に」


 僕はアサコの肩に手を回した。アサコは回り込んだその指先をそっと握った。太陽はまだ沈みきってはいなかったけど、東の空からは青い静寂が忍び寄っていた。アサコは姿勢を崩し、僕に寄り掛かった。そうする間ちょっとだけ長く目を閉じていた。頬と鼻の頭を真っ赤にして、閉じたまぶたにも赤みがさしていた。キスしたいなと僕は思った。でもきっとまたすぐにできるような気がした。もっとアサコといる時間が増えること、その時間がお互いにとって掛け替えのないものになってゆくこと。それらをもう当たり前のことのように感じた。そう、今沈んでゆく太陽のように。


 アサコは僕の腕を抱きもう沈んでしまった太陽がいるはずの水平線を見ていた。時折にらみつけるような鋭い目つきで。


 水平線の向こうには僕とピアノ弾きの彼がいるのかなと僕は思った。僕は黙ってアサコの背中を抱いていた。いつまでもいつまでもそうして背中を抱いていた。背中は温かく、今ここだけが世界だった。沈黙は暗闇がお互いの顔を見えなくさせるまで続いた。


「行こうか」
 と僕は言った。体の芯まで冷えきって、同じ姿勢を続けていた為に全身の節々が痛くなっていた。アサコは僕の言葉に驚いたような顔をした。きっと自分の考えがループに入ったままフリーズしていたことに気付いていなかったのだ。


 僕は立ち上がりコーデュロイについた砂を払った。寒さが骨にまで染み込んでいるのがわかった。アサコも同じ動作をした。
「ごめんね」
 アサコは言った。
「んー?」
 と僕は微笑んで見せた。アサコは明らかに悩んだ後の顔をしていた。微妙な時期なんだなと僕は思った。


 そうして手をつないで駅まで帰った。犬を連れた女の子はもうどこにもいなかった。