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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」9章


 父親からの電話で起こされた。8月の朝だ。
「どうだ、ちゃんとやってるか」
 よく言うよ、と思った。
「まぁ、普通だよ」
「イタリアはどうだった? 楽しかったか?」
「楽しかったよ。でも途中で帰ってきた」
「どうして」
「アサコが交通事故に遭っちゃってさ、心配で」
「それで、どうなんだ?」
「うん、頭打ったから何とも言えないみたいだけど、昨日も電話したら元気だったよ」
「そうか‥」
 僕の喉は寝起きでいがいがしている。咳払いをしながら手元のリモコンでテレビをつけた。ワイドショーは昨日から行方不明の幼児を報道していた。僕はひと通りチャンネルを回した。冷蔵庫の冷たい牛乳がはやく飲みたい。
「トモユキ」
「ん?」
「彼女、やさしくしてやれよ」
 母親にもな、と思うがもちろん言えない。
「なぁ、大事なもんはそばから手放しちゃ駄目だぞ」
「うん」
「それと」
「ん?」
「時には電話くらい掛けてこいよ」
「そうだね」
「いつ遊びに来たっていいんだぞ」
「うん」
「オレは何も変わっちゃいないから」
「うん」
「離れてても父親なんだから」
 言えば言うほど苦しかった。全部さかさまに聞こえた。
「今日はバイトか?」
「予備校の講師を始めたんだ」
「そうか」
「また、こんど」
「ミユは?」
「うん、どこか出掛けたみたい」
「そうか、じゃあがんばれよって、伝えといてくれな」
「わかってる」
「またな」


 受話器を置くと自然に溜め息が出た。親父を見ていると男の脆さを感じずにはいられない。あー、やっぱりオレがあのとき働くべきだったんだ。苦笑いされようがドラマみたいと言われようが、死ぬ気でやればよかったんだ。そういう現実的な行動こそあの時一番必要だったんだ。その額で4人家族は満足に暮らせなくたって、働きに出ること自体は具体的なメッセージにはなったはずだ。待ってる必要なんてなかった。


 僕は自分の浅はかさに嫌気がさした。こうしてもたもたしている間にも僕はあいつの遺伝子通りに成長してゆくのだ。何年後にか別の新しい家庭と、別の新しい問題を背負い込んで、今のこの気持ちを忘れて翻弄されてしまうのだ。それがやるせなかった。




 シャワーを浴びて予備校に行く。青いシャツと銀のバングルをはめて。青いシャツ。アサコが僕の為に探して選んでくれた特別なシャツだ。
「ありがとう、大事に着るよ」
 アサコは慣れないプレゼントなんかをしている自分に照れたような顔をして、
「うん、大事にしなくてもいいから、たくさん着て」
 と言った。
 僕は涙が出そうになった。
「たくさん、大事に着るよ」
 青いシャツを着ると何もかもがうまく行くような気がする。嫌なことがあった日や人生を左右する大事な日には必ずそのシャツに袖を通した。そうすると大抵いい結果が生まれたし、そうじゃなくても気持ちはずっと穏やかになった。アサコがそばにいてくれるような気になった。


 何人かの生徒に「こんにちわ」と言われる。笑顔で答える。強い陽射しの中からコンクリートの作るひんやりした影の中に逃げこむようにして教務室に向かう。トクシマさんのバイクが植え込みの前に駐めてある。トクシマさんのバイクはスティードだ。アメリカン・タイプ、座面の低い、フロントフォークの長いバイク。トクシマさんはそのハンドル幅を縮め、フロントフォークを20センチ延ばし、タンクに大股開きの裸の女をペイントしている。知り合いの有名なイラストレーターの作らしい。


「おはよー」
 教務室のあちこちから同僚の挨拶が飛んでくる。見慣れた僕のとなりの机がぽっかり空いていた。
「あれ? 今日トクシマさんは?」
「ん、なんかしばらく休むらしいよ」とイケガミ。
「なんで?」
「知らない」
 今日は1回目の実力判定試験だ。僕らは講義の代わりに試験監督をする。
「ナベナベー」
 とそそくさそばによってきたのはミハラだった。僕の肩に手を置き、耳元で囁く。
「聞いたぜー、お前イクタとやっちゃったんだってぇ?」
 一体こういうのってどこから広まるんだろう。僕はやれやれと思いながら笑って言った。
「昼間から何言ってんだよ」
「またまたぁ、嘘がお上手でぇ」
「やってないやってない。いいなとは思ってるけど、手ぇ届かないよ、オレには」
「あれー、オレの情報と違うなぁ。おととい二人でチヨモトだったんだろ?」
 チヨモト?と僕はとぼけた。
「‥あぁ、芸術劇場のところかぁ。あそこさ、知ってる? 内装こわいんだぜ。壁紙にでっかい変な染みがあったりしてさ」
「げ! まじで?」
「まじまじ。だからそんなとこには行かないよ、もしうまくいってたとしても。ムードなさ過ぎるじゃん。せめて隣のやすだとか駅の向こう側に行くって」
「ははは、そうかー」
「やったらちゃんと報告するから安心しとけ、な」
「OK、約束だぞ」
 何がOKだと思いつつ、僕はおうと返事をした。この感じだと生徒にも広まってしまっているだろうな。


「おはよ、ワタナベ君」
 吹き抜けのところでアイスコーヒーを飲んでいると、イクタが肩をたたいた。イクタが居心地悪そうに立っているので向かいの席を勧めた。腰掛けたイクタはいつもより顔色が悪いように見えた。
「どうしたの?」
「ん? 別に」
 イクタは明らかにそわそわしていた。僕は気付かない振りをして言った。
「今日、実力判定試験だね」
「え? あ、あぁ、そう」
「イクタって高校の頃こういうところ通ってた?」
「ん、私は自宅」
「そうだよね、独学だったよな」
「ねぇ」
「ん?」
「聞いた?」
 僕はさっそくさっきの話しかなと思ってやさしく促した。
「何を?」
「トクさん」
「トクさん?」
「バイクで事故起こして入院だって」
「だって上にあるバイク。あれトクさんのだろう?」
「そうよ。でもあのバイクじゃないんだって。何台も持ってるの。他のバイクで転んじゃったのよ」
「事故ってどんな? 怪我は?」
「なんかね、まだ詳しくは知らないんだけど、背骨をね、折ったらしいの。圧迫骨折っていうの?」
「それじゃあ‥」
「うん、全治2ヶ月は掛かるんじゃないかなぁ」
「そうだよな」
 テーブルの上の空気がどんよりとした。僕は残りのアイスコーヒーに口をつけた。イクタは黙っている。
「上の連中は? みんな知らないように見えたけど」
「知らないと思う。私がたまたまトクシマ先生に連絡があって電話したらわかったことだから」
「誰が世話しているんだろう、独身だよね」
「うん、なんか彼女? 昔の生徒らしいけど」
「へえ」


 僕は僕の知らない誰かがトクシマさんの口に卵粥のスプーンを近付けてゆく姿を想像した。陽当たりのいい病院の個室で、包帯の間から唇と髭だけが飛び出してるミイラみたいなトクシマ先生。付き添いの女性はきっと髪が長い古風な美人だろう。逆光の中で女性はやさしい口調で言う。はい、あーんして。もじゃもじゃした口元がウニみたいに動いて‥。


「でも2ヶ月も休んだら‥」
「うん、それなんだけど、来るみたい、8日に」
「来るって何が?」
「トクさん」
「は?」
 僕は混乱した。ちょっと待ってよ。
「今、背骨を折ったって言わなかった?」
「うん、でも来るんだって」
「どうやって?」
「ギプスはめて、じゃない?」
「圧迫骨折した知り合いがいたけど、まる1ヶ月は寝たきりだったって聞いたよ」
「うーん、でも、トクさんはトクさんだからねぇ」


 そう言われると確かにそんな気にもなった。あの人のバイク事故も考えてみれば3度目だ。左腕を折り、鎖骨を折り、そして今回背骨を折った。左腕を折ったときはもちろん、鎖骨を折ったときもどういうわけだか翌日から生徒を叱り飛ばしていた。背骨の一本や二本と彼ならきっと言うだろう。「スペアがあるから大丈夫なんだよ」。僕らがいくら休んでくださいと言ったって、彼が8日に来ると言ったらまず間違いなく来るのだ。そしてにっこり笑って「大した事ないんだけどさ」と言うはずだ。




 人は切羽詰まると恋に落ちやすいらしい。受験生たちもそうだった。徹夜した朝に痛いほど勃起してしまうみたいに、体や気持ちがピンチな時には本能的に異性を求めてしまうものなのだろう。それが時に錯覚混じりの感情だと気付いていても、寂しさにはなかなか逆らう事ができない。そうして状況が変わってみて初めてわかるわけだ。これはいわゆる恋ではなかったと。


 僕は溜め息をつく。結局みんな同じじゃないか。受験の頃につかんだつもりの「本当」と大学に入ってからの「本当」と、その先の「本当」。おんなじ種類の誤解と、おんなじ種類の理解の中で、いつしか打算的な結婚、育児、定年を迎えてしまうだけなんだろうか。僕だけの「本当」私だけの「本当」なんて実はどこにも存在しないんじゃないか。


 わからない。そういう事を感じて、シブヤさんは幸せの素材を知りたいと言ったのかもしれない。わかりあった上でその先を見たいと言ったのかもしれない。でもわかったとして、それが古今東西みんなおんなじ種類の素材を「みつけた!」「みつけた!」と言ってるだけだとしたら‥。


「先生…?」
 パイプ椅子でブーツの爪先を見つめていた僕は、髪の長い女の子に顔をのぞき込まれた。
「まだ時間じゃないんですけど、もう終わったんで、外に出てもいいですか?」
 僕は咳払いをして腕時計を見た。教室は静かだった。試験が始まりから30分以上経ったのを確認して席を立った。
「試験を続けながら聞いてください。30分経ちましたんで、もうこれ以上いい答えを書けないって人は、退出してもけっこうです」


 そう言うと、何人かの生徒がばらばらと席を立った。僕は女の子に君もだよという笑顔でうなずいて見せた。女の子はうれしそうな表情で、小走りに教室の出口に向かい、音を立てないようにゆっくりドアを開けた。ドアの向こうにはここの生徒ではない男の子が、背中を向けて待っていた。お待たせーと女の子が小声で言った。男の子が彼女の白いヘアバンドあたりに手をやるのが見え、遠慮がちな音を立ててドアが閉まった。閉じてしまった隙間の向こうに、僕は19才だったアサコと自分の姿を重ねた。二人は楽しそうに笑いあっていた。




「もう8月かぁ」
 とイクタが言った。噂なんか知らないのか彼女は帰り道に平気で僕を誘った。
「覚えてる? 私、浴衣着て、ワタナベ君に会いたいなって手紙書いたの」
「もちろん覚えてるよ」
「あのときね、こんな日だったらいいなって思ってたよ」
 イクタは僕の顔ではなく、空に向かってそう言った。確かにとても綺麗な夕焼けだった。そして両手を広げてくるりと回って、青いワンピースのスカートをひらひらさせた。
「お祭り行ってないなぁ」


 四角く開いた胸元と、首筋にかいた汗が、きめの細かそうな肌を紅く濡らしていた。それは蒸し暑い夜に揺れるお互いの裸や呼吸を想像させた。僕は夏のありふれた欲望の中に沈んでいくのを感じた。イワシミズを連れてお祭りに出かけたのは、もう三年も前のことだ。風の強かったあの日、イワシミズはイクタと同じようなワンピースを着て「パンツにすればよかった」と僕の背中を離れなかった。あの娘ももうどこかの大学生なのかな。元気にしているといいな。そう思うと僕の顔は自然にやさしくなった。


「イクタ」
 振り返ったイクタは、僕の先を踊るように歩いていた。僕は左手を差し出した。
「なぁに?」
 飲んでもいないのにほろ酔いのような顔をして、イクタは僕の手を取った。
「キスしていい?」
 と僕は聞いた。イクタは一瞬困ったような素振りを見せたけど、すぐに始めからわかっていたような顔で笑った。そして目を閉じてみせた。そうして差し出されたイクタの顔はむいたばかりのゆで卵みたいにつるりとやさしかった。夕闇の中で白く浮かんで傾いた体からは、胸元に続くなだらかな隆起と下着の青いレースが見えた。音が消えていく。僕は細い顎に触れてからその指で頬まで辿った。手を背筋の方へ回すとイクタは口を半開きにして、そこにあった僕の手を取り、顎をすこし突き出した。僕は首筋から立ち上ぼる汗混じりのコロンの匂いを感じながらキスをした。


「ん‥」


 イクタは小さく声を上げた。それから閉じていた目を半分だけ開けて僕の顔を見てから、両手を首に絡めた。夏らしい匂いがした。物影に入って舌を絡み合わせた。イクタはこないだと同じように興奮していた。息を荒くして体を僕に押し付けるようにしてくねらせた。僕は彼女の体を強く抱き寄せた。溺れるように抱き合った。自転車が僕らのそばを通過して、あまり使い込んでいない感じのブレーキを掛ける音が聞こえた。新品のゴムとステンレスが擦れる、勘に触る音だ。僕は左目を開けて何気なくその音の方を見た。そしてその瞬間にイクタを突き飛ばしてしまった。


 3週間ぶりに会うアサコだった。