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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」7章


 空を厚い雲が覆っている。雨の降る気配はない。曇っているけど明るい、そんな日だ。どうやら僕はずいぶん前に右足の腱を切ってしまったらしい。腿から下のその部分は完全に麻痺していて、体にハムをぶら下げているみたいだ。ハムは二度と足にはなりそうにない。


 何故そうなってしまったのか、僕にはわからない。そうだと知ったとききっと泣いたはずだし、事故に関わった人を必要以上に罵ったはずだ。それらを通り越した空っぽな状態が今の自分を支配している。


 補助輪付きの自転車と車椅子の中間のような機械に僕は固定されている。余生をこの冷たい金属と暮らさなくてはならないのだ。機械はまだ新しくて、ステンレスのフレームがいやなぎらつき方をする。体にもさっぱり馴染んでいない。


 父親が悲しげな目で僕を見おろす。見おろされるのは中学生以来だった。確かにひどいことになったけどと父が言う。いつまでも家に閉じこもっているわけにはいかないし、いつまでも誰かが世話してくれるものでもない。要は慣れだ。どんなに辛い事でも慣れてしまえば大したことじゃないとわかるようになる。


 マンションの前の私道で、僕はその機械をうまく扱えるように練習した。50mくらいの距離を行ったり来たり。僕は額に汗をにじませながら左足だけでペダルを踏んだ。


 父の励ましは間違っていなかった。4周、5周と繰り返すうちに僕は少しずつコツをつかんでいった。これならそう辛いこともないなと思い始めた。父親が腕を組み、目で僕の動きを追っている。僕は微笑んで手を振った。こんな時間に家にいる父は、僕を案じて、ずいぶんと長い間会社を休んだに違いない。迷惑を掛けたが、明日からはもう仕事に専念できるはずだ。


 僕は私道で遊ぶ子供達を縫って、スイスイとその機械を操った。汗もすっかり引いている。子供の蹴ったサッカーボールが横から転がってきた。ボールはフレームで弾み、機械は右へわずかに傾いた。僕は自転車の時の要領で、ペダルから足を降ろしてバランスを取ろうとした。何の造作もない事だ。僕は安心して状況には冷静だった。ところが右なのだ。足がまったく動かない。僕はそのまま機械と共に大きな音を立てて崩れた。悲しかった。これからこんな人生を歩むのかと思うと、悔しくて涙が出た。僕の周りに小さな人だかりができて、それを掻き分けて父が助けに来た。僕は子供のように大きな声を上げて泣き出し、目覚めると枕がぐっしょり濡れていた。




 引っ越し後の生活には馴染めなかった。妹のミユは自分の部屋を失ったせいで情緒不安定になり、毎朝毎晩のように母親と大喧嘩をしていた。母親のすねには青いあざがあった。ミユにおととい蹴られたのよと母は悲しそうに言う。


 生活は三人バラバラで重なることがなかった。ミユが帰ってくるのは夜中の1時すぎ、その度に夕飯を温め直し、それから風呂やなんかにゆっくり入ろうと言うのだから、早起きの母親が怒るわけだ。
「あんたね、お風呂はいいけど、もっと早く帰ってきなさいよ。バイトだって9時までなのに、なんで1時になんないと帰ってこれないのよ。上の人だって朝早いんだからね、あんたが夜中ばしゃばしゃ音立てたら寝れないでしょ」
 ミユは返事もしないでテレビを見ている。
「夜だって何やってるか知らないけど夜更かしばっかりして、勉強しているならまだしも、マニキュア塗ったり、下らない日記書いたり、足の毛抜いたりしてるだけじゃない。もっとやんなくちゃいけないことが他にあるでしょう?」
 ミユは全然聞いてない。目線も動かさない。母親は怒ってテレビの電源を切る。再び入れ直さないようにコンセントも抜く。ミユは「何すんだよ、くそババア」と怒鳴る。
「あんた親にここまで育ててもらって、くそババアじゃないでしょ。あんたの心配して言ってあげてるんでしょ」
「大きなお世話だよ、ほっといてよ」
「馬鹿言いなさんなよ。誰のお陰で大学に行ってんのよ。学費払ってんのあんた? 別に行きたくないなら行ってもらわなくて結構なんだからね」
「よく言うよ、ミユが行きたくないって言ったって辞めさせてくれないじゃない。ミユは別にバイトで一人暮らししてくって言ってんのに」
「やれるもんならやってみなさいよ。その代わり何の援助もしないし、二度と帰って来なさんな。そしたらやっと親の偉大さに気付くわよ」
「あーそー」
「大体ねー、アルバイトしたって、くだらない洋服や化粧品に全部なっちゃうんじゃなくて、もっと必要な物を買いなさいよ。ノートとか、ストッキングとか、教科書とか、いるんでしょ? 全部ママが買ってんじゃない。そんなんでどうやって一人暮らしするつもりなの?」
「静かにしなよ。寝てんでしょ上の人」
「返事をしなさいよ、ロがあるんだからはいと言いなさい。それと人の目を見て話しさい。もうあんたもハタチになるんだから、よそ行って恥かかないようにね」
「あんたと話したくないだけだよ」
 ただでさえ暑い夜が続いているのに、二人の喧嘩で更に温度が上がる。
「お前、甘えてんだよ。わかんないのかよ」
 僕は今日もミユに言う。こんな事言わなくちゃならない歳にオレもなったんだな、となんかぐったりしてしまう。
「だって、ババアうるせーんだもん」
「うるせーんだもんじゃなくてさ、ミユ、原因を考えろよ。お前独立したいようなことばっか言うけど、全然現実味ないじゃん。バイトして暮らすって言ったって、必要なのは家賃だけじゃないんだぞ。お前みたいに毎晩1時間以上電話したり、シャワーじゃんじゃん使ったりしてたら、一ヶ月で破産だよ」
 ミユは目線を泳がせて唇をとがらせる。
「いいもん、フーゾクでも何でもやって稼ぐもん」
「フーゾクって、お前それが何だか知ってんの?」
「生尺とか、花びら回転とか、素股とかでしょ」
「あのねぇ‥」
「簡単じゃん」
「そんで?」
「みんなに病気を感染させまくって、笑って死ぬの」
「みんなで死ねば寂しくないって?」
「それは嘘だけど、でも出てくよ、わたし、近いうちに」
「お前の家出って、いつも二日くらいお泊まりに行ってくるだけじゃん」
「だって、ずっといると邪魔になんだもん」
「それが甘えてるって言うんだよ」
 母親は「あの人にそっくりよ」と、別れた親父の分身のようにミユを言う。子供染みてんのよ。何をするにも自分勝手で、自分の普段の生活がどれだけ多くの人に迷惑を掛けて支えられてるのか、これっぽっちも気付かないのよ。
 そうだねぇと僕は言う。でもミユもきっともうすぐわかると思うよ。




 アサコが以前付き合っていた男はピアノを弾けたらしい。受話器の向こうで好きな曲を弾いてくれたときは、うれしくて涙が出たという話しは何度も聞かされたし、誕生日には自作の曲をプレゼントされたこともあったと言う。
「二人で弾くのも楽しいんだよ」
 どう僕に言って欲しいのだろう。アサコはうれしそうに話す。
「アサコのピアノ、オレ聴いたことないなぁ」
「えー、あたし下手くそだよ」
 そう言ってアサコはにこにこしている。いくら終わった恋とは言え、そんな顔を見せるアサコにはいい気がしなかった。
「オレにも弾いてよ、ピアノ」
「やだぁ、練習もしてないし」
「いいじゃん、聴きたいよ」
「うーん、機会があったらね」




 予備校に電話をすると、トクシマさんは二つ返事で僕の講師入りを認めてくれた。
「やるか! よし、じゃ明後日からでも来なよ。一応カリキュラムとか指導要項とか渡さなくちゃいけないしさ、2、3書類書いたり、注意もあるし」
「わかりました。じゃ、あさってにお伺いいたしますので」
「はーい、お伺いいたしこましてください!」
「いたしこましまくりまするー」
 トクシマさんも笑った。
「‥あ、そうだ、ワタナベ」
「え、なんですか?」
「イクタが連絡してくれって言ってたよ、忘れるとこだった」
「あ、そうですか」
「知ってる、よ、な? 番号」
 僕は一通目の手紙にあったことを思い出し、はいと言った。
「ん、じゃな。へヘヘ」
「なんですか、それ」
「ん? 夏の恋はたのしいぞー。そんだけ」
 トクシマさんは29才だ。シブヤさんは24才だけど、中身は同一人物なんじゃないかってぐらいよく似ている。生徒を食っては捨てちゃうって噂は消えないのに、自ら志願して行く女の子が後を絶たなかったり、何だか得体の知れない、私生活の見えない先生だった。




 アサコんちに電話を掛ける。長電話しても大丈夫なように千円札を崩してから。拾いあげたコインは機械の中で熱くなっていて、いつもよりひとまわり大きく感じる。
 出掛けてます、と短くお母さんは言った。病院だろうか。あるいは事故の後処理。そうですかとしか言えなかった。八王子のマンションにはいつ帰るのだろう。コロッケ屋の前で、僕は切れた電話線の端をじっと握らされているような気持ちになった。




 僕が任されたのは基礎科文系コースだった。僕があの夏イワシミズと出会ったコースだ。生徒は高校二年生をメインにちらほら一年生がいる程度。初めて教える側としては気が楽でいい。


 僕の仕事は予備校側が用意したプリントとテキストとあんちょこを使って、自分なりにそれをよりわかりやすく楽しく教えること。まず今日の要点のプリントを配り、基本問題をホワイトボード上で簡単そうに解いてあげて、次に応用問題と実力診断のプリントを配り、タイマーをセットして退出。後は終わった頃を見計らって、解答用紙の埋まり具合を高い位置から見回し、どう?とか、かんたん?とか、ここ違うんじゃない?とか言って、最後に多くの生徒が引っかかっていた箇所をおさらいしておしまい。


 わかりやすく、のところはちょっと自信がないけど、楽しく教える、なら何とかなりそうかなぁと思う。年もそんなに離れてないから、ちゃんと言葉になってなくても伝わる部分は多かった。


 エレベーターを使って教室に向かう。コンクリート打ちっぱなしの地上4階、地下2階建てのその新館は、エントランスをくぐると大きな吹き抜けがあって、天井には可動式の屋根が広がる。そこに向かって2本のエレベーターのチューブ(ガラス張り)が伸びている。見上げると授業を抜け出した生徒達が、煙草をふかしたり、あてもなく空を見ているのが見える。吹き抜けの下は白くて円いテーブルと椅子が蓮の花のように並べてあり、オープンカフェとして使われている。環境はいいに越したことはない。しなくていい苦労はしない方がいいのだ。そのほうがおんなじ努力だって効率がいい。


 テキストを持つ。今日の日付の茶封筒に入ったプリント、使い慣れたマーカー、そして赤ペン。僕は何度もその四つの所在を確かめ、エレベーターに乗った。そしてやっぱり忘れ物をした。今日の為に作ったマグネットのシートだ。僕はやれやれと思いながら教務室に戻り、それを察した同僚にもやれやれという顔をされつつ、もう一度エレベーターに向かった。扉が開いていたのが遠くから見えたので、慌てて駆け込んだ。


「4階ですか?」
 女の人の声がしたので、顔も見ずに生徒だと思い、
「あ、うん、お願い」
 と言った。


 4のボタンが赤く点灯して扉が閉まり、合成音声が「上に参ります」と告げた。僕は今度こそ忘れ物がない事を確かめ、何処を見るわけでもなく、彼女の背中を見た。肩まで伸びた栗色の髪、シルクのブラウスから伸びる白くて細く長い腕、手首から垂れる細くねじれた金の鎖。香水をつけているんだろうか、ぎりぎりのところで届かないくらいの、もどかしいその匂い。白く細いエナメルのベルトでウエストをいっそう細く見せていた。柔らかな素材が作り出すからだの曲線が、密室の空気をぎゅっと縮めている。サンダルからのぞく爪先にはオレンジ色のペティギュア。それもぶっ飛ぶかぶっ飛ばないかの危ない線で、たまたまいい方に転んでいるという感じの‥。


 そのオレンジ色の爪先を、まるで水槽の隅に集まる小さな熱帯魚みたいだと眺めていると、それがくるりと僕の方に振り返るのが見えた。僕はすっかり魚のことばかり考えていたので、爪先を見つめたまま微笑んでいたんじゃないかと思う。それがツカツカと向かってきて、彼女のからだの影が僕の目線と足元に覆い被さったとき、やっと不自然なできごとなんだと気付いた。僕ははっとして顔を上げたけど、それとほぼ同時に僕の顔は彼女の両手の中にあった。そして相手の顔を確かめるまでもなく、唇が押しつけられ、柔らかな舌が入ってきた。僕は酸素切れを起こしたダイバーのようになった。口の中に口紅の味が広がった。僕はそれをひっペがして、息を切らせながら彼女の顔を見た。生徒ではなかった。イクタエリがそこにいた。