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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」3章


 不景気で親父の仕事がなくなってから2年が経った。母親の再就職と貯金で埋めてきた出費にも、もう限界が見えていた。
「オレ学校やめて働くよ」
 1年前、僕は鼻息も荒くそう言った。それを聞いて母親はため息をついた。
「あんたがいま学校やめてどうすんの。アルバイトでもするつもり? 就職は?」
「そんなのいつかどうにかなるよ。問題は今だろ?」
「せっかくいい大学に苦労して入ったんじゃない。今までのお金も全部無駄にするの? あんたの気持ちはわかるけどね、ほんとに家のことを考えてるなら、ちゃんと卒業していい仕事に就きなさい。いつかは結婚だってするんでしょ? ふらふらバイトなんかしてたら、きっとあなたのためにならないわよ」
 でも、と僕は言った。
 さえぎるように妹が言った。
「おにいちゃんって何かドラマの人みたい」


 そうは言っても状況は悪くなる一方だった。少なくとも8月には今を維持する事はできなくなる。親父はそう言った。ここを売ろうと思うんだ。
「引っ越すの?」
 妹が一番動揺していた。
「それに、パパとママは別れようと思うんだ」
 ドラマみたいと笑った妹の言葉が遠い昔に思えた。
「もう今のままは、疲れちゃったんだよ」
 親父には愛人がいた。大学時代の恋人だった人らしい。母がよくそう罵倒していた。仕事がない親父は毎日、家でごろごろしていた。母は働き詰めで、体調をおかしくしていた。病院と仕事場を経て家に帰り、母がまず目にするのは、大きな音で鳴っているテレビと、パジャマのまま寝そべり顔も見ずに「おかえり」と言う親父の背中だった。とても耐え切れないという感じによく母は言った。
「あんた一人ちょっとでも働く気があれば、家はとても助かるのよ。なのになぜ毎日そう寝転んでテレビを見ていられるの? 恥ずかしくないの? テレビだって新聞だってトイレの水を流すんだって、みんなお金がかかってんだからね。わかるでしょう? お金がいるの。ただじゃないのよ?」
 それに対して親父の言い分はこうだ。
「景気が悪くなったのは俺のせいじゃないし、俺は自分の稼業以外で食っていく気はない。なぜなら腕に自信があるからだ。今までそうして成功してきたし、それでお前らを食わせてきたし、こうしてオートロックつきのマンションにだって住めたじゃないか。資本主義である以上、仕事のあるなしの波は避けられないものだし、そんなことにいちいち大声張り上げてるようじゃきりがないだろ」
「ええ、その通りだわ。今まであなたの腕で食べさせて頂きました。感謝してます。でもね、もう貯金は尽きたの。プライドだけであなたはここまできたつもりかも知れないけど、家族4人がこれから生活する事を考えたら、それよりも大事なものがあるでしょう? それを言ってるのよ。わたしだって、あんたにこんな事言いたくないわよ。だいたい借金の催促の手紙だって毎日何通も来てるのに、封も切らずに積んでおくだけだし、あなたが昼間どこかをふらふらしている間だって、借金取りからの電話が鳴りっぱなしなのよ。どうして1円でも早く返そうって思えないの?」
「金々ってしっこく言うけど、お前は俺の仕事の一つでも理解してるか? どんな仕事か知ってんのか? 何一つわかっちゃいないじゃないか! 知ったような口ばかり聞きやがって、俺がどれだけ苦労して、今の会社を転がしてきたかわかってんのかよ。20何年かけて、たくさん辛い思いをしてここまできたんだぞ。はい、明日から運送屋やりますってわけにはいかないんだよ」
「苦労したのはわかってるわよ。私だってずっと一緒にいたんだから、あなたにすごい才能があることもちゃんと知ってるの。でも、それはそれ、借金は借金でしょう。プライドだけじゃ誰も食べていけないのよ。飢え死にしちゃうのよ」
「だからマンション売ろうって決めたんじゃないか」
「呆れた。その程度の気持ちで家族を路頭に迷わすつもりなの?」
「路頭になんか迷わないだろ。マンションを売れば、お前の言ってる金が手に入るじゃないか。トモユキとミユの卒業までの学費も出るし、借金も全部返せるし、残りの金でアパートなり何なり借りればいいじゃないか」
「ふうん。で、あんたはその女のとこ行くわけ。万々歳ね」
 親父の声色が変わった。
「関係ない話しを混ぜるなよ」
「別に無関係な話しじゃないでしょ。別れようって話しだって、マンションのことだってあんたが一方的に決めたことだし」
「一方的? 他に選びようがあんのか?」
「よく言うわよ。何百回あたしが働きなさいって言ったと思ってんの? あたし一人でもう2年以上経つのよ。その間あんた何してたのよ。テレビのお守りしてただけ? どっかの女に長電話してただけ? マンション売れば何とかなるわって思ってただけ? ねぇ、言ってごらんなさいよ」
 親父は顔を真っ赤にして立ち上がった。でも何も言えなかった。パジャマを服に着替え、ボルボの鍵を取ると、いつものように乱暴に外へ出て行った。ドア越しに母が叫ぶ。
「そのあんたのポロ外車売れば、どれだけ助かるかわかってんの! 今度停めといたらぶっこわしてやるから!」
 僕は母の肩を持っていたが、ミユは父親に付いていた。本当は両親が違うんじゃないかと思うくらい、僕ら兄弟も物の尺度が違った。ミユと時々部屋で話す。
「なんで親父の味方なの?」
「だってママの言い方すごく頭来るじゃん。あんな言われ方したらミユだって家出したくなるよ」
「おまえが親父ぐらいの年になっても、家出したくなると思う?」
「わかんない。でもやなもんはやだ」
「やなもんはやだじゃ、きっと親なんて仕事は続かないよ」
「べつにいいよ」
 あまり生産的な会話ではなかったけど、まぁ血の繋がった兄弟の貴重な一意見ではあった。


 日曜日になると母方の祖母や祖父が来た。母は僕らを部屋から追い出して、親父の説得に精を出していた。でも50間近の男が決めたことなんてそう簡単に変わるはずもなかった。ましてや政治家の跡取りとして甘やかされて育ったうちの親父が相手では、どんなに親身な提案もラジオのように扱われるばかりだった。
 僕とミユは外で時間を潰した。僕らには何も交わす言葉がなかった。待ち疲れて家に帰ると、そこには必ず泣いている母親の背中とそれを慰める祖母の姿が見えた。たくさんの吸い殻と、一口も減ってない客用の湯のみと、やり場のない虚ろな空気が、話し合いの行く末が芳しくないことを物語っていた。祖母は母の背中を子供のようにさすってやりながら、僕らの帰りに気付くと、厳しい口調で言った。
「トモユキ、よくその目に焼き付けておきなさいよ。何が正しいのか、何が親なのか」


 アサコと抱き合っていると、そうした吐き気や痛みは薄いオブラートに包まれるように曖昧になっていった。セックスの後の心地よい疲れと眠気、僕は毎日のようにアサコのからだに甘えた。そうすると大抵の気持ちは落ち着いて、僕は僕であり続ける事ができた。
 アサコには家のことをきちんと説明していない。言い訳をするようでどうしても嫌だった。卑怯な気がした。愛情が同情に変化してしまうのが怖かったのかも知れない。事が一通り済んでから、少しずつ話した方が、お互いの為にもいいんだとか勝手に決めこんでいた。それでもアサコは僕を毎日優しく迎えてくれた。僕が行くのを待っていてくれた。素敵な笑顔で微笑んでくれた。理由を聞かないでいてくれた。明日も来てねと言ってくれた。トモユキが好きだと言ってくれた。そういう一つ一つの行為が、その頃の僕にはとても必要だった。
「僕もアサコが好きだよ」
 アサコはブラジャーに小さな胸を納めながら、うれしいような悲しいような顔で僕を見た。僕もジーンズに足を通した。体中くたくただった。
「いつだって味方だよ」
 アサコは言った。




 家に帰ると、たくさんの洋服や食器が床を埋め尽くしていて、小さな工場みたいに手際よく段ボールに詰められていた。白い手ぬぐいを被った母親は、戦中の女工さんに見えた。散らかっているせいもあるが、挨とナフタリンと古い洋服の匂いが混ざって、自分ちじゃないみたいだ。母は僕を見ると、漫画みたいに大袈裟な溜め息をついて、フフフと笑った。前髪についた綿ぼこりを取ってあげる。どんな種類にせよ数ヶ月ぶりに見た母の笑顔だった。
 引っ越し先は隣町の木造アパートと決まった。親父は田舎に帰るのだろうか?
 ミユも荷物をまとめ始めていた。彼女の財産らしいものはフェイクファーの毛皮と、テニスのラケットと、CDラジカセと、ゲームボーイくらいしかなかったけど、しまってあった子供の頃のアルバムなどを見つけると、さすがに時の流れを感じずにはいられなかった。もう4人で撮る写真は1枚も増えないのかも知れないのだ。
 僕も本棚から順に部屋を片付け始めた。大半のものを捨てたけど、それでも段ボールは20箱近くになった。アサコの写真や手紙も増えていた。塾の頃に撮った数枚の小さなアサコから、水族館や、教室や、食堂や、クリスマスや、横浜や、京都の小旅行や、誕生日のアサコが僕に笑っていた。手紙を読み返すともうきりがなかった。思いつく限りのありとあらゆる言葉を使って、僕らは「あなたが一番大事だ」「掛け替えがない」「もっとわかりあいたい」と言っていた。もう解決してしまった問題もあったし、乗り越えられずに積まれたままの問題もあった。しかしその時々のひたむきが胸を痛くしてしまうほどだった。とてもうれしかった。アサコといてよかったと思った。僕は気持ちを抑えられなくなって、この家で書く最後の手紙を書いた。


 引っ越しはよく晴れた日の午前中にあっさりと済んだ。住宅街の細い私道の突き当たりにある、とても小さなアパートだった。引っ越しセンターの髪の赤いふたりが、手際よくせっせと家具や段ボールを運んでくれた。
 エアコンがまだ繋がらないので、首を振る扇風機の前で3人並んでちらし寿司弁当を食べた。アルバイトのふたりは居心地が悪そうに隅の方でもそもそと食べた。暑いのと疲れたのとでみんな無口だった。まだ青い畳から蒸れた匂いがした。マンションから運ばれたシステム家具は檻に入れられた熊のように窮屈そうな顔をしている。僕達もやっぱりそんな顔をしているのだろうか。


 昨日の夜は高く積まれた段ボールの中で、布団に入ってもそわそわと落ち着かずに、白い天井をみつめているうちに涙がこぼれた。僕が見てきたたくさんのものを壁紙は吸い込んでいた。たくさんの染み、たくさんの匂い。そう思うと部屋の四隅がバーッと拡がって、皮膚の感覚が麻痺していくようだ。何日後にか、この壁紙は剥がされて真新しい別の壁紙が貼られることだろう。新しい絨毯が敷かれ、誰かの家具が運びこまれ、何事もなかったように誰かの生活が始まるのだろう。


 手紙の中で僕はこう結んだ。

      この部屋から出る僕は8年前とどこがどう変わったんだろう。
      ちゃんと8年分オトナになっているかな。昔より垢抜けたかな。
      優しくなったかな。昔より一生懸命生きていることだけは自分
      でもわかる。でも、それがいい方向を向いた一生懸命かどうか
      は続けてみないとまだわからない。いつか遠い未来にこの部屋
      をのぞくことがあったら、この部屋に笑われない人になりたい。
      今、僕を支えている様々な人達ごと幸せになった自分を見せに
      きてあげたい。何年後になるか分からないけど、そんときはア
      サコと来れたらいいなと思っているよ。




「アサコはイタリアに連れていかないの?」
「その前にジイちゃんの彼女の方が先なんじゃないの?」
「いや、イッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)は行けないんだよ。なんかおじいちゃんの具合がずっと悪くてさ、今はもう機械につながれて生きているだけの延命治療って感じらしいんだけどさ。かと言って、その機械だって誰かの一存じゃ外せないじゃない。遺産とかからむとさ。だけどさぁ、現実問題、世話してどうなるって状態でもないから、おじいちゃんそのものは親戚中をたらい回しにされてて、たまたま今はイッチー(だかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキー)が世話役を一挙に引き受けてるらしいんだ」
「初めて聞いたよ」
「初めて言ったもん」
「それなのにジイちゃん、一ヶ月もイタリア行っちゃってていいわけ?」
「だって遊べないからどっか行っておいでって言うんだもーん」
「だもんじゃないだろ24才!」
「だもーん!」
「なんか申し訳なくなってきちゃったよ」
「何で? 関係ないじゃん」
「そういうの好きじゃないんだ」
「いいの。そういう時はそういう時なの。深く考えちゃいけないんだよ」
「どうして? 彼女のこと心配じゃないの? そばにいてあげたくないの?」
「いない方が安心する時だってあるんだよ」
「そうか?」
「わかんないんだろー? わかんないよなー。だからアサコ連れてきゃいいじゃん。な!」
 こう言うとアレなんだけど、僕はシブヤさんを男として全然信用してはいなかった。頼りになる先輩であり、触発してくれるライバルであり、気の合う友人ではあったけど、けして相談を持ち掛けることはなかった。
 僕はアサコに、この夏イタリアに行くとだけ話した。
「あたしも行きたいなー」
 僕は黙った。
「イタリアいーよねー。でもあたし、夏休みは免許取るんだ」
「免許?」
「うん、お父さんが車買いかえるから、古いの使ってもいいって言うんだ。だから」
 僕は胸を撫でおろした。
「八王子で取るの?」
「うん、秋には一緒にドライブできるよ」
「やった! 楽しみ」
「行こうね」
「うん」
 キスをして、もう一度僕らは笑った。ひと月くらい会わなくたって、何も変わるはずがない。僕らはまた抱き合った。昨日の疲れがまだ皮膚の下で薄く全身を覆っていた。アサコは僕のベルトを外してフェラチオしてくれた。初めてしてから1年経たないうちに僕の泣き所を全部覚えてしまった。どうしてそんなに気持ちよくできるの?と僕が聞くと、アサコは僕の顔ではなく、彼女の手の中にあるものに向かって、
「昔はうまくしゃべれなかったけど、仲良しになったんだもんねっ。ねー!」
 と人形劇みたいな事をやっている。


 アサコはその日、駅まで僕を送ってくれた。そんな事はめったにない。あんまり上手にできなかったから物足りなかったのかな。アサコはもの寂しそうに僕の後ろを離れてついてきて、駅の間近になって急に腕を抱いた。
「あたしが運転する車乗りたい?」
 僕はちょっと面食らって、返事が遅れた。
「もちろん乗りたいよ」
「一緒にドライブ?」
「そ、おべんと持ってさ」
「遠くはまだ行けないよー」
「近場でもおべんと持っていくんだ」
「それって楽しい?」
「最高だね」
「‥ほんとう?」
 何でアサコがそんなに悲しそうに見えたのか、その時にはまったくわからなかった。
「教習所がんばってね。オレ楽しみにしてるからさ」
「‥うん」
 なんだか胸騒ぎがして、僕は激しい人通りの中でアサコを抱きしめてキスした。
「じゃあね」
 アサコが手を振って、僕は自動改札に定期を入れた。ガシャンと音がして向こう側に定期が飛び出したけど、今はとても帰りたくない気持ちだった。
「バイバイ」
 改札に定期を通して振り向くと、アサコはもういなかった。