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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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「響きの水」2章


 ねぇ、幸せってどんな素材でできてると思う? シブヤケイがそう聞いた。
「何、素材って言ったの? 今」
「幸せって何でできてるんだろう。目に見えないけど」
「素材?? 考えたこともないよ」
 放課後の教室には僕ら以外の人がいなかった。単館ロードショーのチラシ、アルミのペンケース、スプレーで塗りかけのヘルメット。
「幸せってさ、どこかにあることはみんな知ってるじゃん。自分が幸せかどうかはわかるでしょ? でも人よりどれだけ幸せかは比べられないじゃん。なんで?」
 毒にも薬にもならないこんな話しが、暗くなり始めた教室にはよく似合った。
「わかんないけど、幸せって幻想だからじゃない?」
「うん、じゃあ幻想だとしよう。幻想はどうして比べられないんだろう」
「一方通行だからだよ。インタラクティブじゃないから」
インタラクティブじゃないって?」
「『好き』って気持ちがそうじゃない? 『信じ合っているから』とかさ。比べようがないもん。お互いに一方通行な気持ちをぶつけ合ってるだけで、それは絶対同じものじゃない。重ならないし重ねようがないでしょ。だからぶつけた気持ちと返ってくる相手の気持ちがだいたい釣り合うなーって思える場合は恋になるけど、それを支えている気持ちはやっぱり幻想としか言いようがないんじゃないの?」
「じゃ、この話しは? ナベがさ、砂漠を歩いているのね。もう何日も水を飲んでなくて、今にも死にそうなわけ。そこにね、オレが突然現れて、ほらナベ!ってコップ一杯の水を差し出したら、かなり幸せでしょう?」
「うん」
「でも湖で溺れているナベに、ほらナベ!ってコップ一杯の水を出してもあんまり幸せじゃないよね」
「化けて出るよ」
「一杯の水をあげたいっていう親切な気持ちは変わらないのに?」
「なるほど」
「おかしいだろ? オレさぁ考えるんだけど、そんときコップの後ろにはオレ達には見えない『幸せ度』みたいなのがバーって伸びてんじゃないかと思うわけ。でもナベやオレ側からはコップの正面からしか見えないから、それはただの一杯の水でしかないんだけど、きっとどうにかすればオレらにも見えるんじゃないかなーって思うんだ。アリが一枚の紙の上を歩いててさ、2つの円筒形したものの断面を見るわけ。でもアリは2次元の世界に近い生き物だから、その円筒形の高さはわからずにその丸い断面の面積でしか比べられないんだよ。でも3次元のオレらが見るとドミノピザと電柱ぐらい違うものだったりすんだよ」
「変なこと考えるなぁ」
「その違いをわかりたいんだよ。わかんねーかなぁ」
 シブヤさんはうやうやしく腕組みなんかしている。
「ねぇジイちゃん、最近なんかよくないことでもあった?」
「ないよ、別に」
「ならいいんだけど」
「えーでもわかりたくない? 単純に」
「んーどうかな。思い込みじゃなくってことだよね? それって案外残酷なことかも知んないよ?」
「いや、わかったら、きっともっとうれしいよ」
「どうして? わかんないことを想像しあうことが重要なんじゃないの?」
「うん、それは確かにその通りだと思うよ。そうじゃなくてもっとお互いの趣味的な部分というか、質感的な部分でもっともっと深く共感できるじゃないかって思うんだ」
「それってさ、オレはオレ、君は君の好きなことやって楽しいねーってこと?」
「それそれ。でも今の言い方だと『勝手にやってな』って感じだけど、そうじゃなくてそういうおもしろさをわりと肌で共感しつつ、共有したいわけよ」
 僕は溜息をついた。シブヤさんの話しには時々こう出口がない。シブヤさんは目をきらきらさせて爪を噛む。たまらなくなって僕は言う。
「お茶でも飲む?」
「あ、飲みたい。いや、それよりまず飯かな」


 学バスで駅前に出る。降りる時、ちらりとアサコのマンションを見た。カーテンの隙間から明りが漏れている。きっと僕が来るのを待っているのだろう。窓際のテレビの光が見えた。僕はすぐに目線を戻した。
「ジイちゃん、彼女は? 元気?」
「あ、うん、元気だよ」
「こないだ、カエルだらけの傘を自慢してたよ」
「あれオレが買ってあげたんだよ。子供用の傘でしょ」
「あたし、カエル大好きなのって言ってた」
「だって、そうなんだもん」
「何でもカエルなの?」
「確かパジャマもカエルだって言ってたよ。見たことねーけど」
 いつものトンカツ屋には行かずに、その日は行ったことのない洋食屋に入った。二階席には僕らだけで、ウエイトレスはインターフォンで注文を1階に告げてしまうと、退屈そうに壁に寄り掛かった。
「ナベってスパゲッティ好きだよな」
「好きだね。毎日でもいいくらい」
「イタリアは?」
「いつか行きたいと思ってる」
「行こうぜ、今度」
 ジイちゃんがまた突拍子もないことを言う。
「何? イタリア?」
「そうイタリア、スパゲッティの」
「何でまた。思いつきで言ってみただけ?」
「いや、それもあるけど、前から行きたいなーと思ってて、そしたら向こうに越した友達からこないだ手紙が来てさ、遊びにおいでよって書いてあったから」
 僕は笑った。
「遊びにおいでよって、だってオレ知らないよその人。誰? 日本人?」
「日本人。高校の友達の女の子だよ」
「家族で住んでんの?」
「ひとり」
「へえ」
「まだ詳しい話しはしてないけど、飛行機代さえ用意すれば1ヶ月くらい面倒見るって言ってくれてるからさ」
「‥いや、それは願ってもない話しだけど、だってあまりにオレ関係なくない? その人と」
「あー、だいじょぶだと思うよ。気さくな子だし」
「気さくって言っても、見たことない男1ヶ月泊めるか、ふつー」
「わからんが、オレは泊めてもいい気がする」
「一人暮らしじゃ三人が寝泊まりする用意なんてできないんじゃない?」
「ばーか、雑魚寝だよ、雑魚寝」
「1ヶ月? 男二人と?」
「だいじょぶだって、暖かい季節だし」




 次の日アサコは膨れていた。迎えに行っても、講義が始まっても終わっても、アサコは口を利いてくれない。食堂に行くまで、アサコは結局言葉らしい言葉の一つも僕にくれなかった。きっかけになったのはイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女だ。
「やぁ、アサコにナベちゃん、ひっさしぶり−!」
「あ、ひさしぶり−!」
 彼女はいつものサングラスをして、キャンバス地の重そうな荷物をテーブルの端に乗せた。
「何それ、何入ってんの?」
「あ、うん、これ子供用の教材なんだけど、『子供の城』で使うやつ、ちょっと自分でも予習しておこうかなって思って」
「あぁ、まだバイト続けてるんだ」
「うん」
 彼女はアサコの方に向き直した。
「二人でいるときに会ったの、今学期はじめてだねー」
「そうだねー」
「こないだアサコには会ったよね、バスで」
「一緒に帰ったんだよね」
「じゃまじゃなかったら、あたしも一緒に食べたいなー、いーい?」
「うん、食べよ」
 僕もうなずく。鞄から大きな財布を取りだし、イッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は食券を買いに行く。僕はアサコの方を向く。
「ねぇ、アサコ、もういいじゃん」
「なんのこと? 何がもういいの?」
 意地悪な顔してアサコはそう言った。僕は何も言えなくなった。イッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女が、今年最初の冷やし中華を持って帰ってくると、もう僕の事なんかここにはいないみたいにしゃべり始めた。雑誌を開いてこんな部屋住みたーいとか、今度新宿のコンランショップ行こーねーとか、ポンキッキーズのボーズくんやるきなくなくなーいとか、らんらんの方が嫌いとか、あたしアムロだめーとか、矢野顕子のあの曲可愛いとか、原美術館いま何やってたっけ?とか、あたし今靴ほしーの、え、あたしもーとか。もうすっごいイライラして、テーブルばぁんて叩いて出て行きたかったけど、そんな状況にしたのはそもそも僕なので黙ってにこにこしていた。
 そのうちイッチーだかビッチーだかニッチーだかサッチーだかヒッピーだかウイッキーだかいうジイちゃんの彼女は、午後の授業があるからと言っていなくなってしまい、食べ終わった僕らも続いて食堂を出た。グラウンドまで黙ったまま歩いていると、アサコが言った。
「昨日来なかった事を怒ってんじゃないよ」
 僕は振り返った。
「シブヤさんといたんでしょ?」
 僕は黙ってた。
「隠さなくたっていいじゃない、そんなこと」
 僕は目を伏せた。そうじゃなくて、昨日は会いたくなかったから行かなかったんだと言ってしまいそうだったからだ。
「シブヤさんがごめんねって電話掛けてきたの。オレがナベ連れ回しちゃったから迷惑したでしょって。一緒に夕飯食べたんでしょ?」
「‥そうだよ」
 なんだか浮気をたしなめられてるような気分だ。声が音になる前にいちいち喉に引っ掛かる。
「それならそれでいいじゃない。別にそんなこと気にしないのに」
「‥うん」
「あたしね、トモユキと毎日一緒にいたいけど、なんて言うの? 束縛したいわけじゃないから」
「うん、ごめん」
「ね、あたしの言いたいことわかるよね?」
「うん」
「ん、なら、もういい」
 そう言うとアサコは走って教室に帰っていってしまった。


 シブヤさんは幸せの素材を知りたいと言う。僕にはよくわからない。それにわかりたいという気持ちもない。日常にありふれた妥協や束縛や嘘の合間には何があるんだろう。