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たかなべが、ゲームやそれ以外の関心事を紹介します。

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PS3「ICO/ワンダと巨像 LIMITED BOX」

ファミコンの登場から30年近くが経ち、家庭用ゲーム機が映画的な画像クオリティを持っていく中で、獲得していったもののひとつに「リアリティ」や「実在感」というものがありますが、フォトリアリスティック以外の方法でそのポテンシャルをきちんと引き出せているソフトは数えるほどしかなくて、実際数える機会があるとすれば、大半のゲームマニアはこの「ICO」と「ワンダと巨像」の名前を挙げるんじゃないかな。


ICO」は、生贄として捧げられた角が生えた少年を操作して、言葉の通じない年上の色白な女の子の手を引きながら、巨大な城からの脱出を目指すゲーム。「ワンダと巨像」は死んでしまった恋人の亡骸を生き返らそうと、悪魔と契約を結んで、16体の巨像(神様?)を全滅させることを誓い、心身ともにボロボロになりながら戦うゲームです。世界観は裏でつながっていて、どっちからプレイしても問題なく2倍楽しめます。


以下はICOをクリアしたときに書いた2002年1月の文章です。感覚的にはワンダにも適用できる感想なのでそのまま転載します。

エンドテロップを見ながら、そこで費やした時間や体験や空気の匂いがぶわーっと蘇ってきて、握りしめたコントローラをぶるぶると震わせながら、もうあの言葉の通じない女の子に会えないんだなぁと思うと、涙がこぼれた。「映画のような」という言葉がもしゲームの誉め言葉であるとすれば、このゲームは何よりもまず「体験」そのものだった。映画から「意志」を取り出して、プレイヤーにストーリーの完成を委ねることで、感動は何倍にも増幅する。それを起こすために作り上げられたありとあらゆる導入の工夫があまりに画期的だった。僕は、ずっと、そこに、いたんだ。確かにあの色白の少女の手を握っていたんだ。


まだ世の中にテキストサイトがほとんどなくて、素人が書いたゲームレビューも全然なかった時代、僕は近所で「ICO」を予約して、のめり込み、そのレビューを書いて、数ヵ月後、Googleじゃない検索エンジンで他の共感できるレビューを探していました。「そうそう!こんな感じ!」。2chにアップされた誰かの記事を読みながら、深く頷いていたら、それが自分のレビューのコピペだった。そんなこともありました。


今は、攻略サイトやレビューサイトは掃いて捨てるほどあるし、マイナーな趣味でも誰かとその感覚を共有するためのサービスやサイトはたくさんあります。でもICOやワンダに続くような、あるいは超えるような、強烈でプライベートな体験をもたらしたゲームって、この10年でほとんどなかったような気がするんです。思えば、ICOとワンダって、古き良き文法のゲームらしいゲームと、新しい技術革新による表現方法の拡張がクロスした場所にしか存在しない、鬼子のようなものだったのかも。


あと気づいたんだけど、今のゲームってお客さんに嫌われないようにいろんなことをフォローするじゃないですか。操作説明や、ヒントムービーや、クリア出来なかった時のスキップ機能だったり。それって一つのサービスの形だとは思うんだけど「ゲームの世界にどっぷり浸かる」という観点からすると真逆の方法論のような気もしていて、僕が好きなゲームってその辺を一切すっ飛ばしてなお、魅力があって、良い意味で「ほったらかし」になってるものが多いなーと思いました。自分で気づいて自分で切り開くっていうその感覚が僕の求める「良いゲーム」なんだろうなー。


人生でもそうだけど、向こうからやってきたものより、こっちから勝ち取っていったと認識できるもののほうが、結果的にその価値や意味を大きく持ちやすい気がするんだよね。



だめなSNSユーザと、だめな地方PRって似てるような気がする。まず自分側が面白くない点に気付くべきだよね。なんにもなさそうのに「フォローしてください」とか「いっぺん遊びにきてください」とかは有り得ないからさ。

http://twitter.com/#!/jetdaisuke/status/120500729113870336